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猿の嫁

作者: 雉白書屋

「なあ、今、少しいいか……」


 キッチンで洗い物を終えたタイミングを見計らい、彼は妻にそう声をかけた。妻は「え? なに?」とシンクの上で手を軽く振り、水を切りながら彼のほうを見る。

 椅子に座り、リビングのテーブルに肘をついている彼。妻に声をかける前から喉が渇き、手がわずかに震えていた。自分のことながら遅れてそれにハッと気づいた彼は唾を飲み、手をテーブルの下へ隠した。


「どうしたの?」


 タオルで手を拭き終えた妻が彼と向き合う形で椅子に座った。

 ああ、と気づいたようにテレビを消す彼。静寂。リビングに重たい空気が流れる。尤もそう感じたのは彼のみだろう。まだ。彼は練習すべきだったかな、と思った。先程も声が上ずってしまいそうだった。

 が、練習など御免だ。こんなこと人生で何度も口にしたくはない。

 

「なあ、君……浮気してないか?」


 妻の様子がどこかおかしいことには気づいていた。

 よくある話。マッチングアプリで出会い、意気投合。何度かデートを重ね、そして結婚。美人だ。おまけに実家は太い。このチャンス、絶対逃したくない。この人と結婚できるのならなんだってする。そう思った。そして実際、結婚できたのだから我ながら大したものだ。嫌味なく、奇跡だと周りから言われ、自分も素直にそう思った。中には嫉妬心もあるだろう、もっとキツい言い方をする奴もいたが、生活は順調そのもの。結婚後、豹変することもない、素晴らしき女性。誰がどう見ても。それは良いことだ……と思えなくなった。実は不安を抱いたのは結婚して間もない頃だ。どこかそっけない態度をしたかと思えば、普段と比べ、より甲斐甲斐しい一面を見せたり、沈んだような顔と思えば機嫌がよさそうな。

 何か隠し事がある。自分だけ甘い蜜をすすり、そして罪悪感に蝕まれているのでは? 

 そう、浮気という破滅の味の虜に……。一度そう感じてしまったら最後。他の可能性を考えられる余地は時間と共に埋められていった。

 

 彼は気づけば、妻の返事を待たずに次々と胸の内で抱えていた不安を吐きだしていた。

 間が怖かった。でも、否定して欲しかった。一笑に付してくれてもいい。なんだ、そうだよな、浮気なんて、と一緒に笑い合いたかった。

 だが、彼の話を聞く、あるいは聞き流し、考えている最中なのか妻の深刻な顔。それをもう見ていられないと、彼は目と口を閉じ、顔を俯かせた。暗闇の中、妻の息を吸う音が聴こえた。ああ、来る。答えが来る……。


「ごめんなさい……実は……私は猿の嫁なの」


「ああ、そうか…………ん?」


「猿の嫁。正確には猿神様のお嫁さん」


「それは……えっと、相手の名字? いや、ん?」

 

 意味がよくわからなすぎて何ならどこか笑えてきた彼に妻は説明を始めた。


 その昔、山に入ったうちのご先祖様は道に迷い、歩き回った挙句、足を怪我し、その場から動けなくなってしまった。やがて夜になり、獣の遠吠え、笹の揺れる音。怯え、いっそ死んでしまいたいと嘆いたその時だった。ぼうっと白い光。それが近づいてきた。

 白い着物に白い毛並み。淡い光を放ち、少し地面から浮いているそれは自らを猿神様と名乗った。猿神様は彼女に特別な薬草を与え、歩けるようにした上にその薬草の群生地を彼女に教え、その後、猿神様の導きにより彼女は無事、山を下りることができた。

 猿神様に救われた。……しかし、それには条件があったのだ。

 山に、我がもとへ嫁に来ると。

 でも、約束の期日が過ぎても彼女は山に戻らなかった挙句、他の男と結婚してしまったのだ。猿神様に教えられた薬草で富を得て。

 するとどうなったか。呪われたのだ。

 彼女の夫は子が産まれてそう日が経たず、若くして死んだ。赤子を抱きかかえ悲しみに暮れる彼女。しかし、それで終わりではない。猿神様の怒りが消えるまで代々呪いは続く。婿に入った男は皆、死ぬのだ……。


「なるほど……いや、わからないけど、わかったよ。君はその呪いを気にして、僕を心配してくれていたんだね?」


 頷く妻。どうも適当な嘘を言い、ごまかしている感じはしない。彼はようやく心から笑えた。


「大丈夫大丈夫。猿の呪いなんて怖くないよ! ははははっ!」


 笑う彼に妻もつられるようにして笑った。互いに憂いは晴れ、その証のようにやがて彼ら夫婦の間に子供ができた。

 絵に描いたような幸せ家庭だった。子育てしやすい地域があるからと妻に勧められ引っ越した。だが、それから少し経ったあとのある日のことであった。

 

「……うおっ」


 ――猿、か。


 朝、通勤時。駅に向かう途中にあるゴミ捨て場から猿がひょっこりと現れた。

 彼の頭にふと例の話が浮かんだが、なんてことはない。引っ越してきてからよく見かける、ただの猿だ。しかし、猿神などという、いもしない神よりもなんなら目の前の猿のほうが恐ろしいな。彼はそう思った。

 猿は道路の真ん中にペタンと座り込み、大きな欠伸をした。猿はこちらを、人間をまったく恐れていないらしい。この近くには山があり、そこから町へよく降りてくる。無論、餌やりは禁止だが、ゴミなど漁るうちに徐々に人慣れしていったのだろう。たまに、買い物帰りなどに食べ物を狙ったのか襲われ、怪我人も出るという。だが、それも自然と密接な地域ならよくある話だ。だから……呪いなどではない。ない。ない。ない……。


「うぅ……」


 急に寒気を感じた彼は呻きながら逃げるようにその場を後にした。

 

 ――猿神様の呪いなの

 ――婿に入った者はみんな死んだ

 ――私の父も


 頭の中で妻の話、声が甦り、彼はいつの間にかそれを振り切ろうとするかのように走り出していた。

 風と荒い息のおかげで妻の声は消えた。だが、己の内なる声は、耳に入るあの鳴き声は消えない。

 

 なぜだ、猿を見かけることなんて今日に始まったことではない。なのになぜ、なぜ、こうも、あああああぁぁぁぁ。きぃきぃきぃ……きぃぃきぃきぃぃうるさい、うるさいうるさい……猿……ああぁ、猿がいる! 塀の上! 電柱! 屋根! 道路! ベンチ! 自転車の上! 猿だ、猿がそこらじゅうにいるぞ! おれを見て、あ、ああ、あああ! 笑っている……奴ら、今コケたおれを笑っているぞ! きぃきぃきぃきぃ、はははは、ふふふふ、ぎゃははは、きぃきぃきぃそれだけじゃない! 呪詛だ! 呪詛を吐いているぞ! ヒソヒソと呪詛、呪詛を!


 走り、走り、階段を駆け上がり、駅のホームに着くと彼はようやく大きく息を吐いた。

 

「……ない。ここにはいない。はははっ、そう、なんてことはない。猿なんて、猿、猿……」


 ――猿

 ――猿

 ――猿


 猿だ。ああ、猿だ。ああ、なんということだ! 猿がいるじゃないか! 猿だ猿が猿で猿が猿だ猿猿猿猿猿猿……。


「いってぇ! なんだよ」

「いたっ、なに、あの人……」

「なんであんなに揺れてんだよ」

「おい、あんた。人にぶつかっといてなんもなしかよ!」


「猿。猿、猿猿が」


「はぁ!? おい、人を猿扱いかよ」


「猿猿猿猿猿猿猿猿……」


「おいっ! ん? お、おい、え、あ、違う、俺は何も、こいつが勝手に……」






『上手くできたようで良かったわぁ』


「うん、お母さん。心臓発作だって。警察も疑ってないみたい。おまけに彼、太ってたしね」


『ふふふ、疑われないのは当然よぉ。なんたってふふふ、猿神様の薬草だもの』


「ふふふ、そうねぇ。でも、あのご先祖様のお話本当かしらね。彼も信じていなかったけど」


『え? あなた、話したの? もーう、わざわざそんな危険を冒すことないのに……』


「だって、やっぱり抵抗あるもの……。逃げるチャンスくらいあってもいいじゃない。まあ、彼は離婚する気なんて全くなかったみたいだけど」


『はぁー、優しい子ねぇ。まあいいわ。ちゃんと保険金、受け取れたんでしょう?』


「ええ、もちろん。ばっちりよ」


『はぁー、これで安泰ね。あなたの子が大きくなるまで、いや、その後もね』


「ええ。ふふふっ、あっもう切るね。あの子が泣きだしたわ」


『はいはい、今度孫の顔見に行くわね、あ、まだ薬草は持ってるわよね? きちんと管理しなきゃ駄目よ。あの子が口にしないように』


「大丈夫大丈夫。でも、本当にすごいよね。検出されない毒草なんて……」


『ふふふっ、猿神様のご加護ね』


「だからそれ迷信。群生地を見つけたのは本当みたいだけど」


『ご加護よご加護よ。今度、実家に来た時にお参りしておきなさい』


「はーい。あっふふふ。あの子が泣き止んだみたい。あ、うふふ」


『あら、なーに?』


「うふふ、窓の外にお猿さんが、うふふ」


 それは加護か呪いか。猿たちが笑う嗤う……。  

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