7 歌の練習始まりました
今日は2話投稿の予定です。
次の日から、なんと発声練習がリハビリに盛り込まれてしまった。そんなに聞きたいのか?昔の歌なんて何かしらで記録があるんじゃないの?と思ったけれど、CDなんて殆ど残っていないし、レコードは言わずもがな、データで残していたものも案外弱かったようで、災害でデータセンターがやられたところは復旧の努力もされなかったらしい。文化的なものより人の命や生活基盤の方が重要なのはわかるし、どんなものでも新しいものが出てくれば上書きされていくものだから、徐々に失われて気がついたら分かる人がいなかったということなのだろう。150年というのはそういう時間なんだなと思った。
私だってCDやレコードなんて持っていなかったけど、どちらも、お母さんに片付けなさいと叱られておじいちゃんやお父さんが運び込んだのが私の部屋の片隅にあったような…でも今話すと怖いことが起きそうなので後で黒木さんにこっそり伝えようと思う。大体今回の私のことで『それなら私も』『うちにも』なんてことが世間様からあるような気がするから、みんなの熱が冷めるまでだと考えて努力しようと思う。
そんな理由で、私はまたもや呼吸の練習から始めることになった。なぜなら声を出そうと思っても苦しくて続かないので。そう、昨日は3回歌ったせいで疲れすぎて、夜中に何度も起きてしまったくらいだ。そのため本当は呼吸の練習だってちょっと不安だけど、黒木さんがモニタで見てくれているから大丈夫というので頑張ることにした。とにかく、嚥下の練習の時より、長めに息を吐くことを意識する。吐けるようになれば吸うこともできるのだそうだ。そのあたりは何かこう補助具をつけてとかできないのかなと思ったけれど、歌は身体を使うのが基本と言われては、そうですかと答えるしかなかったのだが…
「いたた…」
「大丈夫ですか、雪さん」
「…はい、大丈夫…です…ううっいたぃ…」
なんと私はお腹が筋肉痛になってしまった。黒木さんにお願いして、痛むお腹に痛み止めを貼ってもらった。無理をしたのを怒っているのか苦々しい顔だ。
「…ごめんなさい」
「…いいんだ。多分これですぐ治る。だからと言って無理はいけない」
「はいぃ…」
思い返すと最近は歩行の練習も頑張っていたつもりだったけれど、それはなんとなくそのうちでいいかとゆる~くしていたし、アシストの器具が優秀だったので、今回のようなことにはならなかったのだろう。発声練習のための呼吸で筋肉痛なんてちょっと恥ずかしいが嬉しくもある…何故かというと、実は私は筋肉痛というものが初めてだから。以前は安静が大事で、筋トレなんてしたことがなかったからね…術後に身体が強張るなんてことはなくはなかったけれど。こうして筋肉痛になんてなってみると、本当にこれからは頑張ればできるようになるのだと感じて痛みさえ愛おしい…痛いけど。
自分が生活するためだけでなく、みんなが知りたいと思うことを教えてほしいと周りから期待される状況も私にとって新鮮だ。多分私の顔は相当にやけていると思う。昔流行った言葉だと「ドヤ顔」っていうやつだ。うふふ、と思う。こうしてみんなの研究を手伝うという目標があると、健康になってからは一人で生きていかなくてはならないのではというこれから先の不安から気持ちをそらすこともできるから一石二鳥、いや、三鳥といったところかもしれない。
それにしてもさすが『さくらさくら』だと思う。小学生の時の音楽の教科書にも載っていた気がするし、みんなが知っていた歌だからこんな先の世界まで残り、ナジマさんも気がついたのだろう。あの風景を見て思わず歌ってしまったけれど、選曲としては正解だったようだ。声が出るようになってうまくなったら好きだったアニメやゲームの歌も…と密かに思っている。まだ口がうまく回らないからいつになるかはわからないけれど。頑張ろうっと。
呼吸や発声の練習をしながら、時々ナジマさんたちの前で『さくらさくら』の他、小学校で習うような簡単な曲を歌ってみた。今は歌詞がないので記憶を頼りに歌えるとなるとどうしても『ふるさと』とか、そういう慣れ親しんだ唱歌っぽいのになってしまうのだ。お年寄りみたいでなんとなく不満だけど、仕方がない。そして困ったことにナジマさんの話だと、どうも他にも研究者のみなさんが施設に来ていて、私が歌う様子をどこかから見ているという。研究のために同意はしたものの、考えると恥ずかしくて声が出なくなるのであえて確認はせずに毎日の練習に励んだ。時々、音楽の授業を受けた回数も少ない私にプロの指導者がついているみたいなこの状況はすごいなと思って我に返っては一人で顔を熱くしていたけど、その度に黒木さんが「大丈夫ですか?」と確認するので、きっと顔が真っ赤なんだろうと思ってますます恐縮してしまった。早くうまくならねば。
始めて1週間ほど経ってから、研究者のジゼルさんとヤープさんが時々参加するようになった。こっそり聴いていた人たちらしいけれど、隠れて聴いているのに我慢ができなくなったとのことで笑ってしまった。ジゼルさんは大きくカールしたやや赤みの強い長いブラウンヘアを後ろで結ったゴージャスな感じの若そうな女の人。そしてヤープさんはここで会った人のなかでは最も小柄…でも私よりはずっと背が高いのだけれど…で襟足につかないくらいの黒髪の、肌の色も薄めで、なんとなくお父さんに似ている感じの人だ。ジゼルさんは民族音楽の研究者だということで、「さくらさくら」や「うさぎうさぎ」を聴いて目を輝かせ、もっと歌ってとリクエストがやまない。和風の旋律が好みのようで、家に籠もってお母さんと手遊びをしていた私にとっては童謡なども歌詞がわかるし難しいものではない。けれどあまりに食いついてくるので食べられちゃいそうだなと思った。一曲歌う度に拍手喝采を受けるのも照れる…。すみません、あまり上手じゃなくて。頑張ります。
ヤープさんは静かな感じの人だけれど、発音や音声が専門ということで、ものすごく近くで私の声を聴いたり口元を見たりするので、研究とは言え恥ずかしい。多分恥ずかしさのあまり顔が赤くなったり目を逸らしたりしたからだろう、ヤープさんに
「感染症などはワクチンも接種済みですから心配いりませんよ?」
と言われるが、そういう心配ではなく、男性がこんなに近くにいるのがちょっと…とも言えず
「…は、はい…」
と縮こまりながら歌う。見かねたのか黒木さんやナジマさんがカメラやモニタをセットしてくれたが、これはこれで、あれやこれや大写しになるのでいたたまれない。救いはヤープさんがお父さんに似ていることで、いつも私を大切にして心配してくれていたお父さんと重ねることでなんとか乗り切れそうな気がした。