6 そんなに驚かれるとは
そんなある日。いつものように病室から外の山々を眺めていたら、山の木々の間に薄紅色が見えた。
『え?あれって桜?今は3月中旬になっていないよね?でも温暖化が進んだって言ってたし…3月にも咲くことはあるかも。いや、でも別な花…?』
私の誕生日はおめでたいかな1月1日で、20歳になってすぐに処置を受けた。黒木さんは記録を見て、所員が施設に多く残っていて、かつなるべく誕生日に近い日に私を起こしてくれたようで、今はそれから2ヶ月が経ったので3月初旬だ。それでも温暖化のせいか外はすでに暖かそうで、これまでにも山には色々な花が咲いてきたのを見ていた。なのに、あの色を見た途端に急にいろいろなことが気になってしまって、ナジマさんが来たのをつかまえて窓のところまでできるだけ急いで引っ張って行った。
「ナジマさん、あの、山のお花…」
「ああ、多分ブーゲンビリア、かな?」
必死に聞いた分だけ、なんだ…とがっかりしたが、ブーゲンビリアがここで咲くのかと驚きもした。
「そう、ですか…もしかしたら、桜かと…」
モジモジと、でもやっぱり聞いてみようと言ってみたのに、
「サクラですか?もうここでは殆ど見られなくなった木ですね」
という返答に、ガーン!と思っていた以上に衝撃を受けた私は、がっくりと肩を落とした。ナジマさんは不思議そうに私を見て、
「昔はそんなに人気があった木なのですか?」
と聞いた。ナジマさんにとって桜は『花』じゃなくて『木』なんだ、と思ったら、ぜひ紹介しなくてはと思ってしまった。春には桜の花をみんなで楽しむ『お花見』が欠かせなかったこと、お弁当を持って行く人も多かったこと、散り際の桜吹雪が美しかったこと、桜にちなんだ曲がたくさん作られたこと…端末で伝えていたけれど、ナジマさんの伝わったような伝わっていないような表情にもどかしくなって、
「私は、外で見た機会は少ししかなかったけど…」
しかも病院の庭に植えられていたのを入口から数メートル出たところから見ただけだったけど…
「とってもキレイだったの」
とつぶやいて、そして、思わず
「さーくーらー、さーくーらー、のーやーまーもぉーさーとぉもー、みーわーたーすーかーぎぃりー…」
と口ずさんでしまった。もちろんものすごく小さな声で、息継ぎもどこでしたらいいのかわからなくて、全然上手じゃなくて、でもなんだか家族と見た桜がとても懐かしくて、その気持ちを伝えたくて、つい歌ってしまったのだ。
自分が歌っていたことにはっと気がついて、恥ずかしくなってナジマさんを見ると、彼女はポカンと口を開けていた。いつもの物静かな雰囲気は消え去って、呆気にとられている、という感じで。そんなにも下手だったかと顔が熱くなったが、次の瞬間、
「今のは、昔の歌で、さっきのお話の、『サクラ』のことを歌ったものですか?」
と詰め寄られた。びっくりして、コクコクと頷くと、
「な…あ…っそうだ!知らせないと!」
と慌てて部屋を出て行ってしまった。
「ナジマさん…?」
残された私が何が起きたのかわからず窓辺にいるうちに、ナジマさんは黒木さんや他の人を連れて戻ってきた。そしてさっきのやり取りを端末で読まれたり、歌をもう一度歌ってほしいと言われて、恥ずかしさのあまり断ったけれど何故か懇願されてというか許されなくて、歌詞がわからなくなってムニャムニャいって終わるところまで3回も歌わされたりしてしまったのだった。みんないつもは無理しないでっていうのに、酷い。
聞けば、今こうして私達が話せているのは黒木さんやナジマさんたちが母語の違う同士でコミュニケーションを取れるように音声翻訳機器を通しているからで、私の話し言葉はデータが少ないせいで発音や何かが多少違って聞こえるのだそうだ。だから、本当に細かいニュアンスまで伝わっているかと言えば、もしかしたら違うのかもしれないという。そんなことには気付いていなかった。言葉の面でも江戸の人だったのか…。そして、こうして昔の曲を昔の発音のまま歌うことができる人は非常に少なく、研究者以外では殆どいないため、みんなが驚いたということだった。海外ですごく難しい歌唱方法で歌う人たちがいたけど、あんな感じなのだろうか…いや、こんなに平坦な曲と歌い方でそんなわけないな。もし昔のラジオ放送みたいに聞こえていとしたら…それは悲しい。と、少し気が遠くなっていたが、ナジマさんが、『最初の説明でピンときていなかったけれど歌を聴いて、このサクラの曲とさっきのオハナミというのがセット、つまり、今まさに昔の人の文化の説明がなされているのだと気付き、これは自分一人が聞いていて良いものではないと慌てて人を呼びにいったのだ』というようなことを話すのを聞いて、なるほどと思った。今では殆どない植物と昔の人の深い関係を当事者から聞けるというのは確かに貴重かもしれない。しかも本当ならその瞬間の私の心の動きもモニタしたかったようで、ナジマさんの慌てようが少し理解できた。
いずれにしても、このことで病気の治療の報告を聞く他に音楽や言葉のことで私に会いに研究者がここに集まってくるだろうと黒木さんに言われた。
「雪さんの健康に影響があるようなことにはならないように私が管理します。でも、研究者たちにとっては重要で素晴らしいことなので、どうか協力してあげてください」
私の命を助けてくれた黒木さんにお願いされて断る選択肢はないので、私は二つ返事で引き受けた。
夜、ベッドで所員の皆さんの興奮ぶりを振り返り、『この世界にないことを持ち込んですごいって言われるの…異世界転生ものみたい。あ、でも、ないことではなく、なくなったことか…』とネット小説の一大ジャンルを思い出した。もちろんここは異世界でもないし転生でもないのだけれど、状況としては似ている。引き受けてしまってよかったのだろうか。でも自分にできることはそんなにないし、黒木さんが管理してくれると言ったし、なんとかなるだろうと考え直して、眠りについたのだった。