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花冠

作者: 白椿

 もの心がつく時。それは一体いつなのだろう?

浮遊する心を抱えたまま生まれ落ち、五感を開くことを知り、時を重ねていく。一つの卵を分け合い、この世に生を持った私たちは、それぞれに名前を持った。

手塚美央子

手塚美穂子

名前の韻までまるで同じで、家族は私たちが双子であることを祝福し続けた。

「ぜんぶいっしょがいい。みほちゃんとみおちゃんはいつだってぜんぶいっしょがいいの。」

じゃれ合う私たちを眺めては、大人たちは顔をほころばせた。私たちはそっくりだった。同じ服を着て、同じ靴を履き、同じ歩幅で歩いた。振り返れば、幼い日の写真を見ても見分けがつかない。それぞれ父の膝と母の膝に抱きかかえられ、フリルのワンピースと生えたての髪に飾られたリボンは、女の子で生まれてきたことを存分に楽しませたい。そんな両親の欲求が見え隠れするようだった。それでも大いに違っていたのは、時折口をへの字にした美穂子と、屈託無く笑う美央子の表情だった。

「三つ子の魂百まで」

今でも、その頃の写真を見れば、そう母は笑う。


 子供の頃から、美央子の周りには人が溢れていた。どこにいても真っ先に名前を呼ばれる美央子。私はいつもそっと離れた。屈託無く笑う美央子に、大人たちは顔をほころばせた。可愛い、美味しい、これが欲しい、これが嫌だ。はっきりと意思表示をしては笑う。そこだけなにかが照りつけるかのような明るさを、美央子は生まれながらに持っていた。私は、笑うことが下手だった。沈む夕焼けや、いたずらに手に止まるてんとう虫を追いながら、自分一人の時間に身を委ねることが好きだった。

「美央子ちゃんと一緒に遊ぶ。美央子ちゃんと一緒に帰る」

群がるように、美央子を慕う同級生達を横目に眺めながら、時折、ちくりと刺すような痛みを感じた。美央子は、誰からも愛されていた。その影に隠れながら、寂しい思いをしなかったといえば嘘になるが、私は美央子のことが好きだった。

「美央子ちゃんの妹」

そう呼ばれるたびに、皆に愛されている美央子の特別なただ一人の存在。そう認識されているような錯覚に、くすぐったさすら感じていた。

「生まれてすぐにあなたたちは、お互いの指を掴みあっていたのよ」

母からそう聞かされるたびに、自分たちを世界で一番愛し合っている姉妹のような気すらしていた。


 目覚ましがなる。いつもと変わらない朝だった。いつもと同じようにパンを焼き、卵を茹でた。昨夜のうちにちぎっておいたレタスをパンの上に並べ、茹でたばかりの卵を粗く潰した。強めに胡椒を振り、マヨネーズを絞り出す。マッシュ状にした卵サラダをさらに重ね、勢い良く頬張った。時計を見れば、もうすぐ午前七時だった。カチカチと規則正しく進む秒針が響く。その時、カタンとした小さな音に振り向くと、郵便受けから何かがひらりと床に舞った。ハガキだった。

手塚美央子様 澄沢高校 同窓会のお知らせ  

手に取れば、懐かしい名前に高校時代にタイムスリップをしたかのような奇妙な気持ちになる。

「高校か」

息を吐くように、言葉が漏れた。ハガキには、懐かしい写真が添えられていた。学年生徒全員で写っている体育祭の写真だった。点のような顔が広がる中、一人ずつ認識していく。思い出せる同級生もいれば、全く思い出せない同級生もいた。ようやく自分を見つける。皆に囲まれるように、屈託無く笑っていた。そして、少し離れたところに美穂子も見つけた。私の双子の妹。美穂子は元気だろうか。胸がちくりと痛む。すこし眺めては、ゴミ箱に放り込む。

 高校を卒業し家を離れ、大学へ進み社会に出た。気づけば十年。月日は経ち続けた。最後に実家に戻ったのは何年前だろうか。仕事の忙しさにかこつけて、友人の結婚時も帰省はしなかった。電話の向こうの疲れ切った私の声に気を使ったのか

「無理せずに、帰れる時にね」

と、念を押すような母の物言いにすっかり甘えているうちに、私は二十八歳になっていた。

 

 週明けの勤務はいつも以上に慌ただしい。土日の問い合わせは、水増しされた何かのように月曜日になだれ込む。

「おはようございます」

殺伐とした社内に声をかけ荷物をしまい、デスクへと向かった。

「十時より来客予定」

そう書かれたボードに目をやり、お茶出しの準備を始める。つやつやと塗られた漆の盆に、課長が吟味したという湯呑みを並べる。沸騰させた湯を湯冷ましに移し、ぼんやりとまどろむ。転職してから一年が経った。

「綺麗だし愛想もいいし、本社の受付なんかがいいかしら」

面接官の言葉に、黙って微笑んだ。愛想よく振舞うことは得意だった。内定の知らせをもらい、会社に足を伸ばす。研修室へと呼ばれ、説明を受けた。

「選考の結果、受付ではなく内勤でお願いします」

「はい」

頷くように、返事をした。特に業務内容にこだわるつもりはなかった。きっと受付には私の年齢は多すぎるのだろう。若さはあっという間に通り過ぎ、華やかさは身を沈めていった。外出時、ちらりと受付に目をやる。綺麗な女の子だった。新社会人だという二十二歳の彼女は、つやつやとした照りのような明るさが満ちていた。頭を下げると、一所懸命に頭を下げられた。愛嬌のある子だな。そう思い、苦笑した。

「美央子は綺麗だね。愛嬌があるね」

そう言われ続けて来た子供時代。ならば今の私には、一体何があるのだろうか。

 唐突に携帯電話がなった。画面を見れば、懐かしい名前に目を疑う。

「同窓会、どうする?」

何年ぶりだろうか。美穂子からの連絡だった。


「美穂子さん。お先に失礼します」

アシスタントの恵が申し訳なさそうに、オフィスを出て行った。小さな事務所を構えてもうすぐ二年が経つ。大手かのデザイン事務所から転職して来た恵にとって、上司より先に帰宅するという行為はどこか申し訳が立たないのだという。

「私が終わるのを待っていたら永久に帰れないよ」

そう言うと、ようやくほっとしたように早く帰宅するようになった。逆にありがたかった。誰もいないしんとしたオフィスでこそ、やれる仕事は山ほどある。恵は腕のいいアシスタントだった。むしろ腕が良すぎた。全てを把握することに長けているため、時折私には息苦しかった。

 同窓会の知らせは、ハガキが来るよりも早くに柊から聞いた。写真家として活動していた彼は、やがて建築家の道へと進み、ひょんなことで再会をした。

「建物の壁画を描いてほしい」

依頼が来たのは先月のことだった。名前を告げられ、はっとした。

「柊?」

恐る恐るそう答えれば

「ばれたか」

電話の向こうでそう笑った。懐かしい話に花が咲いた。高校時代の私を、誰よりも知る風変わりな男だった。昨夜もいつものように唐突に電話はなった。

「同窓会どうする?」

電話の第一声はそれだった。


 久しぶりに帰省した故郷は、何一つ変わっていない。十年の月日が経っても、人気のない無人駅。電光掲示板も改札機もないこの場所は、地方の田舎町という言葉がぴったりだった。古さを醸し出しながらも、丁寧に整えられた清潔感が懐かしかった。改札を出れば、小さな猫たちが寄り添う。撫でようと近寄れば、すり抜けるように逃げていった。

大通りに向かい、どうにかタクシーを拾う。

「泉会館へ。お願いします」

私は帰って来た。数年ぶりの私の故郷。同窓会へと向かうタクシーの中で、何となく座席に挟まれた冊子を手に取る。パラパラとめくる。目を止める。

手塚美穂子 現代アートと絵画と私

美穂子のインタビュー記事だった。凛とした眼差しの後ろに建つのは、母の言っていた美穂子のオフィスだろうか。白を基調にした清潔な空間に、浮かび上がるかのように美穂子の絵画が際立つ。

本を、閉じた。


「みほちゃんのかくえってとってもじょうず」

あの頃、私たちは七歳だった。小学生に上がったばかりの私たちの背中に光っていた真新しいランドセル。

「みほちゃんとおなじがいい」

そう言い張った私たちの元に届いたランドセルは、鮮やかなマゼンタ色だった。それは美穂子が好んで使っていたクレヨンの色によく似ていた。つやつやとした鮮やかさに目を見張りながらも、荷物を持ちたくないと駄々をこねれば、困ったように父は笑った。

「そんなことを言っていたら、美穂子のランドセルはもっとすごいぞ」

驚かすように言う父の顔を見上げながら、試しに美穂子のランドセルを背負ってみる。

後ろに引っ張られるかのようにのけぞった。背負っていられず、慌てて下に降ろした。美穂子のランドセルの中は、クレヨンと色鉛筆で溢れかえっていた。分厚いスケッチブックを入れて背負われた背中はあまりに小さく、その重さは大人でも驚くほどだった。どこかへ向かう道だろうが、帰り道だろうが、美穂子は気になるものがあればすぐにスケッチブックを広げた。無心で描き始める美穂子の横で、私はわくわくしながら眺めていた。白いキャンパスに広がっていく枠のない世界に、これからすごいものがここ現れていく。そう予感がした。美穂子の描く絵はいつだって、鮮やかだった。この目に一体どんなものが写っているのか?いつも一緒に過ごしていた私にすら見当のつかない強烈な何かを、美穂子は握りしめるように描いていた。


「美央子」

タクシーを降りた私を見つけ、美穂子が手を振る。駆け寄ろうとすれば、隣から見覚えのある顔が飛び出した。

「柊くん」

かっと胸が熱くなる。美穂子から、柊は昨年結婚したと聞いていたからこそ、今日来るとは思わなかった。変わらない独特な雰囲気と、笑うとへこむ口元の笑窪に、私は呆けたように曖昧に会釈をした。柊は憧れの人だった。当時、全てのものに興味のなさそうな柊が気になって仕方がなかった。恋と呼んでいいのからわからないくらいに、私はいつも遠目に焦がれていた。柊と仲の良かった美穂子が、心底羨ましかった。

「十年ぶりの再会に乾杯」

同窓会が始まった。会場に集まった人数は約百五十人にものぼった。二百人ほどの学年人数だったからこそ、驚異的な出席率の高さだった。

「今日はみなさん、楽しみましょう」

司会の言葉にわっと歓声が上がる。このために帰省をしてきた者、変貌がすごすぎて誰かわからない者、変わらない者。様々だった。

「美央子!久しぶり」

何年も会っていないことなど、誰も気に留めないように肩を叩かれた。どこを歩いても、声をかけられる自分に面食らった。

「美央子、相変わらずだね」

美穂子が呆れたように笑った。思い返せば、私は友達が多かった。どう反応すれば目の前の人が喜ぶか、手に取るようにわかっていたのだ。皆のほころぶ顔を見るたびに、自分の所在を実感した。

 柊が、一人の男を連れてきた。

「こんばんは。佐伯です」

そう頭を下げた男に、一体誰なのか見当もつかなかった。一学年に二百人もいるのだ。わからなくても無理はない。二十八歳となれば、結婚する者もいれば、していない者もいる。何人かの好意的なアプローチを肌で感じながら、ここは変わらないな。と、実感する。

 都会へ行けば、綺麗な子は山ほどいた。田舎町での綺麗で愛嬌があるなんて代名詞は、他の大勢を前にした時、微塵に散った。私にとって、ここは懐かしく奇妙な場所だった。

 綺麗な子。その見方が定着されたのは、おそらくミスコンだろう。コンテストへの出場を誘われたのは、高校二年生の冬だった。三年時の文化祭で、学校のミスを選出する。「ぜひ、美央子ちゃんにでてほしい」

 そう熱心に話す彼女は、コンテストの実行委員長だといった。嬉しかった。あなたは特別なのだと選ばれたような気がした。特に高鳴りのもととなったのは、優勝の際には写真部による写真撮影が組まれると言うことだった。写真部には憧れていた柊がいる。柊に撮ってほしい。その思いだけを胸に、私は快諾した。それから数ヶ月後、準備は着々と始まっていった。裁縫部だという彼女たちとドレスを仕立て、美しく見える歩き方の練習をした。夜遅くまで話し合っては練習し、皆で一つのものを目指す過程は、何かが満ちるように楽しかった。

「美央子さん」

「みおちゃん」

人が集まるたびに、呼ばれるたびに安堵した。私はここにいていいのだ。と、何かが私を温めていく。

 季節は進む。文化祭まであと一週間という矢先、柊の写真がとあるコンクールに入選し、ある地方紙の表紙を飾ると知った。

「さすがだね、才能だよね」

そう口々に言う周囲に強く頷いた。一刻も早く、この目で見たかった。

全てのものに興味がないようで、同じ目線で眺めている柊の目に映るものは、一体どんなものだったのだろう。文化祭当日に販売されると聞き、小走りに本屋へと向かった。朝八時。知らせを聞いたからか、すでに数人の生徒が集まっていた。

「美央子。すごいよこれ!」

「知っていたの?」

「うん?何が?」

答えながら、ようやく地方紙を手に入れた。両目に入れるなり、絶句した。彼女たちの言葉を理解した。

美穂子だった。凄まじい眼差しで、絵画に没頭する美穂子自身が切り抜かれたように表紙におさまっていた。

どういうこと?全身の血液が逆流するようだった。美穂子のここまで真剣な姿を見たことがなかった。体ごと痺れるような痛みに、きりきりと目眩がした。柊はこんな美穂子を知っているのか。美穂子はこの姿を柊に見せているのか。全身を得体の知れない黒い何かがが覆っていく。目も鼻も耳も口も全て塞がれていくかのように、私は立ち尽くしていた。

 ミスコンの結果は準優勝だった。

「綺麗だね」

そう褒め称える声は、遠い空から降ってくるようだった。

「美央子が一番綺麗だったのにね」

「あの優勝はきっと組織票だよね」

励ましなのかフォローなのかよくわからない言葉に首を横に振った。結果はどうでもよかった。柊に写真を撮って欲しいという気持ちのままに走っていた私にとって、もはや何も意味はなかった。気づくと泣いていた。

「美央ちゃん」

皆に励まされる。

「頑張ってくれたのにごめんね」

なぜか誰かに謝られながら、首を横に振った。私の脳裏には柊にカメラを向けられたまま、真剣に絵を描く美穂子の姿が頭から離れなかった。息もできないほどに、私は美穂子に嫉妬していた。

 あれからもう十年も経つ。店の中から笑い声がする。

「柊!」

怒ったように叫ぶ美穂子の声に、柊がケラケラと笑っていた。

 あの時の黒い何かが、私の中に立ち込めていく。やめて。自分に懇願するように押し込めようとする。忘れていたのに。どうして今思い出すのか。

「べっぴんさん」

見たことのない男が、グラスを差し出した。なみなみと注がれたグラスは、露骨に下心を注ぎ足したようだった。一瞬躊躇しながらも、グラスを受け取った。

濃い目に作っているかもしれないと思いながら、好都合だと思った。

「ありがとう」

そう笑うと、寄りかかるように横に座られた。

「俺、鈴木だけどわかる?二年生の時にクラスが一緒だった」

「あ。わかります」

本当はわからなかった。曖昧に頷きながら、話を合わせる。二杯目、三杯目、四杯目。合わせるグラスの回数が重なるほどに、腰にするりと手を回された。慣れているのだろうな。そう思いながらほっておいた。頭が火照るように熱かった。こんなに飲んでいるのはいつぶりだろう。

「綺麗所が来なくなると、さみしくなるなあ」

酔っ払った前職の部長の顔が浮かんだ。転職前の送別会。今と同じように腰に手を回された。鋭い視線に辟易しながら、やんわりと席を離れた。

「お飾り」

そう聞こえた。腹は立たなかった。ずいぶん前からそう呼ばれていたことを、私はとっくに知っていた。鈴木はまだ、私の隣にいた。

「美央子ちゃんって、結構呑めるね」

腰に回された右手に力が入る。このままいけるかいけないか。心の声が聞こえて来るようだった。まとわりつく蛇のようだった。

この男は一体今、どんな顔で私を見ているのだろう。

腹の底で何かが頭をもたげ始める。泳ぐような男の目を見据えながら、意味ありげに微笑んだ。

煽るように視線を流した。男の足先をそっと蹴る。沸点が一気に増していく。

目の前の男の熱が増すほどに、私の中の何かが急速に冷えていく。

「鈴木さん」

聞き覚えのある声がした。

「和香ちゃんが探していたよ」

「え?」

戸惑ったように返す鈴木の元に、小柄な女性が小走りでやってきた。その途端、鈴木は弾かれたように立ち上がった。一瞬で腰から手の気配が消えた。

「お。和香」

あせりながら平常心を保とうとする姿が滑稽だった。そういうことか。どういうことかわからないままに、そう思った。どこかしどろもどろな男を横目で見ながら

「ごちそうさま」

にっこりと顔を斜めに傾けた。アップに仕上げた髪が解けていた。ふわりと、横顔にかかる。立ち上がろうとすれば足がふらついた。久しぶりに履いた9センチのピンヒールは彷徨うように、重心を見失う。

お飾り

どこからかそう聞こえた気がした。頭が痛かった。

「飲み過ぎですよ」

右肩をそっと掴まれる。佐伯だった。

「ここにいてくださいね」

念を押すように空いた席に座らされた。背もたれに寄りかかる。左目にかかる前髪が煩わしい。少し先に美穂子と柊が座っていた。二人に、私の姿は見えていない。

「美央子ちゃんは?」

「美央子は変わらず大人気で、どこかにいる」

「ふうん。俺はあの頃、お前のことが好きだったんだよな」

柊が、美穂子に軽口を叩くように言う。

「ふうん」

そっけなく答える美穂子に、柊は照れる様子もなく変わんねえなあ。と、笑っていた。

「嫁も美穂子のファンだから。お目が高いって褒められたよ」

耳を塞いでしまいたかった。たらたらとした惨めさにのまれていく。

 写真部だった柊にとって、絵画の才能があると重宝されていた美穂子は、ある意味同士であり憧れの存在でもあったのだ。改めて目の当たりにするョックは大きかった。もう何年も前のことなのに。あれから十年以上も経つのだ。

「美央子ちゃん」

座り込む私に、また違う男が顔を覗き込むように立っていた。

「久しぶり」

答える気力もなく、頷いた。瞳孔が開きかけた私の目にだいぶ酒が回っていると察知したのか、男の目が私を捉えるように光った。

「大丈夫?どこかで休む?」

ぐらぐらとする。手を引っ張ろうとする男に首を激しく降る。頭の重みで前にのめりこむ。

 高校を出て、家を離れた。めきめきと才能を現して行く美穂子に、どこかで私は気後れをし始めた。社交性が低かった美穂子にとって、絵は何にも変えようのないものだと、はたから見てもわかりすぎるくらいに明確だった。それを、喜びきれない自分の浅ましさが情けなかった。美穂子に絵があるのならば、私にあるものはなんだろう。自答するほどに、惨めさが募った。何にも左右されることのない柊が、美穂子の写真を撮る理由も、わかりすぎるくらいにわかっていた。二人の空気感は、よく似ていた。

同じ顔で、同じ背丈で、同じような名前で、いくら周囲に好かれても

「お前じゃダメなんだ」

そう言われている気がした。


 一人、また一人とまばらに帰って行き、テーブルに私と柊が残った。

「美穂子、来週どうする?」

壁画の打ち合わせを進めよう。そう話していた矢先に、美央子はもどってきた。明らかに様子がおかしかった。足元が危うげにもつれる。バランスを失ったまま、右足のハイヒールが無造作に離脱した。美央子は泣いていた。涙とマスカラが黒く滲んでは、瞬きをするたびに下まぶたを汚す。

美央子

そう声を出そうとしながらも、喉に張り付いたまま声が出なかった。

「美央子」

もう一度声を出す。今度は、かすれることなく言葉となった。背中に触れようとした手は、どこにも届かず宙を掻いた。美央子の肩が小刻みに揺れる。

ぽとりと、もう片方のピンヒールが脱げた。脱ぎ捨てられた二つの靴は、不揃いのまま床に散る。美央子の胸元が、吐く息とともに上下する。丁寧に縁取られた紅に染まる、形のいい唇を苦しげに歪めた。

「……どうして?」

虚ろな顔のまま、涙がぽたぽたと落ちる。美央子の目には、何も写らない。何かの亡霊を思う、抜け殻のようだった。柊は、まっすぐに美央子を捉えていた。その目は、カメラ越しに被写体を見つめる眼差しと恐ろしいくらいに似ていた。

「どうして美穂子なの?どうして美央子じゃなかったの?」

絞り出すような、切実な声だった。


 私たちは十七歳だった。放課後の鳴り終わるチャイムとともに、私たちは部室にこもった。描きたいものを探し続ける私と、撮りたいものを探し続ける柊。いい資料を見つけた、といっては集まり、いい写真が撮れた、といっては集まった。それなりの進学校という箱庭の中、決められた毎日と大人未満の人間関係に、私たちは退屈していた。

「ありのままに、ただ見るんだ」

「ただ、その中身と目を合わせるだけ」

カメラを構えた柊は、いつもそう言いながらシャッターを切った。

「柊くんは、いつも私を見ていない」

美央子の言葉を思い出す。きっと美央子がどんなに媚態を示しても、愛らしさを演出しても、柊はその中にしか興味がないのだ。それは、美央子自身が一番よくわかっていた。

「美穂子。お前を撮らせて」

そう告げられたのは夏休み明けだった。何かと柊を気にかける美央子を見ていた私は、首を縦には降らなかった。

「なんで私?」

そう尋ねれば

「なんとなく」

憮然として答える柊に、肩をすくめた。誰しもが惹かれる美央子に目をくれず、写真に没頭していた柊はある意味も物珍しかった。もしかしたら、その事実が私には楽だったのかもしれない。それから柊は、勝手に私を撮り始めた。化粧もせず、服装も垢抜けず、派手でも地味でもない少し変わり者だった私をカメラにおさめ続けた。それを、美央子がよく思うわけがなかった。

「二人はきっと、似ているんだよね」

美央子は口を開くたびにそう言った。何かを言い聞かせているようだった。皆が憧れている先輩に好意を告げられ、どうしようと悩みながらも答えを出しきれなかったのは、いつも柊を気にかけていたからだ。そのことを、どこかで私は知っていた。

  

 時計は、午前二時を回っていた。

「俺が送ります」

と、頑なに美央子を抱きかかえるように、タクシーに乗せる佐伯に戸惑いながらも頭を下げた。

「佐伯なら大丈夫だよ」

柊の言葉がなくとも、どうみても安全そうな男だった。念のためと改めて名刺を渡し、頭を下げた佐伯に頷いた。未央子が心配だった。けれど、今、二人きりになることは避けたかった。一人で帰るからと言いだそうとする私を静止するかのように

「方面、同じだから」

そう口をひらいた柊に黙って頷いた。

 九月半ば。夏は通り過ぎた。肌を吹き抜ける風は、どこか寒々しく夜の深さに途方にくれた。

「あの子、変わらないな」

 不意に柊が口を開いた。

「目の前の視線を全て、自分にむけていたいのはどうしてだろうな」

夜道に響く。肯定することも、否定することもできなかった。

美央子は、子供の頃から可愛らしかった。ありがとうと言って笑った時に細める目も、小首を傾げる仕草も、欲しいものを目にした時、爛々と輝かせる野生動物のような強さも。その可愛さに惹かれ続けたのは私に限ってのことではないはずだ。

美央子ちゃん、美央子ちゃん。

夜道の電球に群がるような小さな生き物たちを前に、美央子は何を思っていたのだろうか。彼女を覆い尽くした甘い砂糖菓子のような声は、彼女を食いつぶしてしまったのか。

どうして美穂子なの。

その言葉は、私が一番、この胸に唱えてきたのかもしれない。

私は、美央子とは対照的に、人付き合いが苦手だった。相手の興味の焦点が自分に移って行くたびに、どこか居心地が悪かった。ろくに人間関係を気づけない自分に嫌気がさした。寂しかった。

どうして美央子なの。どうして私じゃないの。

どうして私は、私なのだろう。

そう率直に声に出す事も、胸の内にこっそりと吐き出すこともできないくらいに、私は臆病だった。母の卵子という命を分け合った片割れの双子だという自意識が、寂しさから派生した小さな歪みすら見えないようにしていた。

美央子はいつだって正直だった。その正直さに宿ったものが、全ての視線を自分に向けていたいという欲求だったのだろうか。


 タクシーの窓から流れる夜景たちは、できそこないの何かのようだ。

「これ、できそこないのなにか」

窓を指差す私を見て、佐伯は抱きかかえる腕に力をこめた。くたりと、そのまま身を預けた。一体今、佐伯はどんな顔をしているのか。そう思いながらも、私は顔を下に向けたまま、動くことを放棄した。体が熱い。たらたらと、情けないくらいに頰を何かが濡らす。見られたくない。ひくつきそうな喉を抑えながら、下唇を噛む。何も声を発しない佐伯の腕もとに、いかにも高そうな時計が光る。私が病んでいると言うのなら、この男も間違いなく病んでいるのだろう。醜態を晒し切った私を抱きかかえる物好きな男。オーダーで作られたであろう、体に張り付くようなスーツの下に、この男はどんな心を隠しているのか。

「美央子ちゃん。相変わらず綺麗だろ」

そう紹介された時、佐伯は照れたように頭を下げた。よくある光景だと思った。

 小さな頃から、私は外見の恩恵を受けてきた。外見といえど、私たちは一卵性の双子なのだ。同じ顔をもちながらも、よく笑う私と笑わない美穂子。それは、一重に表情の違いだった。

「美央子は愛嬌があるわね。可愛いわね。笑顔がいいね。」

いつしか、それは私の代名詞となった。

確かに私はよく笑った。ケラケラ笑っていた私を、庇護する愛らしい存在だと認識するように、目を細める大人たちが嬉しかった。自分は寵愛を受けているのだ。そう認識する瞬間が、継ぎ接ぐように私を作り上げていった。私は、単に子供らしさを演出することがうまかったのだ。  

 美穂子は、あまり笑わない子供だった。だからこそ、余計に私の可愛らしさは大人たちの目を惹いたのだろう。ただ、それだけだった。

 タクシーは、走り続ける。どこに行くというのか。家に連れ込まれようと、下心を当てつけられようと、今更どこでもよかった。佐伯は、相変わらず言葉を発しない。数時間前。わかりにくい媚を含みながらも、私はにこやかに笑っていた。十年ぶりの同窓会。いつもと同じように口角をあげ、ゆっくりと瞬きをし、目の前の男をじっと見つめた。それから数時間もたたないうちに、荒み切った私の姿を見て、この男は何を思っているのか。時折、窓の外から強いネオンが入り込む。そういえば私は、佐伯の下の名前すら知らない。遠くからクラクションがうっすらと聞こえては、ゆっくりと遠のいて行く。その間も離れることなく、佐伯は私を抱きかかえていた。手を組み替えることも体を動かすこともなく、ただ私の体をじっと支えるように佇んでいた。


「ダンゴムシくんって知ってる?」

唐突に柊は言った。こんな時に何を言い出すのか。美央子の悲鳴のような泣き顔が、頭から離れなかった。

「は?」

鋭い眼差しで一瞥する私に、柊は真顔だった。

「どこか佐伯に見覚えはない?」

「柊の友達でしょ?」

高校時代に、ろくな人間関係を構築してこなかった私に何を言うのか。けれど、言われてみれば不思議だった。佐伯に初対面の感覚がないのはどうしてなのか。柊は、わざとらしくため息をついた。

「じゃあ、圭之介。こばやしけいのすけ」

「知らないよ」

「小学生の頃かな。美穂子が絵に没頭する間、美央子ちゃんとひたすらダンゴムシを集めていた男の子」

記憶を辿る。私が絵を描くときは、たいてい二人で遊んでいた。思い出せない。

「それにしても、ダンゴムシくんってすごい名前だよな」

笑いをこらえる柊の言葉に、弾かれるように頭に懐かしい映像が流れた。

土にへばりついた石をどかし、うじゃうじゃと地面を動くダンゴムシを必死で集める男の子に近寄って、一緒にダンゴムシを集め始めた美央子。

「みほちゃん!これまあるくなるよ」

美穂子のはち切れんばかりの明るさに、男の子の顔にあかりが灯った。

美央子はすごいすごい!と、一緒に遊び、男の子をダンゴムシくんと呼び始めていた。張り詰めていた全身の力が抜けた。あの頃の、美央子の照り返すような明るさを見た男が、ここにもいたのか。

「佐伯なら安心だろ」

柊がにっと笑った。


 タクシーが止まった。

「ここでいいです。ありがとうございます」

口を開いた佐伯が、運転手に礼を言う。私の頭を動かさないように右手を抜こうとする仕草に、そっと頭を上げた。私が起きていることに戸惑うように一瞬静止し、再び佐伯は動きだした。会計が済むと、タクシーの扉が開いた。真新しい空気が車内に入り込む。ゆっくりと顔を上げた。見慣れない景色。間違いなく実家の前ではなかった。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫も何もない」

苛立ちように言い放った私に

「思ったより大丈夫そうですね」

そう頷き、笑った。ふらふらとする体を支えられながら外に出た。懐かしい香りがする。海だ。

 夜が明ける瞬間を引き連れ、移動してきたようだった。夜を背にタクシーは走り続けたのだ。私たちは、朝と夜の間にいた。数時間前まで身を置いていた方面はまだ薄暗かった。ぼんやりと、白く光る月が見える。猫の目のような三日月だった。

「西はまだ夜ですね」

東の空は明け始めていた。群青色がうっすらと薄まり、穏やかなモーブ色の空が広がり始める。透明な淡さは、朝の空気と同化するように波音を響かせた。佐伯はどこからか、ビーチサンダルと水を持ってきた。

「どこから?」

と聞けば、笑って数メートル先を指差した。ご自由にどうぞ。と、書かれた看板の下にはビーチサンダルが何足か転がっていた。足がずきりといたむ。どこかでひねったようだ。そういえば、店で私は裸足だったかもしれない。

「足、いたみますか?」

その言葉に首を振る。本当はとても痛かった。

「痛いと思いますけど」

という佐伯に

「じゃあ聞かないでください」

そう言い放つと、ピンヒールを脱いだ。かかとのヒール部分が欠けていた。むき出しになった銀色の鉄のような何かは、弱さをまとわせた狂気のようだった。ビーチサンダルなんて何年ぶりだろうか。そっと足先を通す。男物であろう、黒いビーチサンダルに、真っ白な肌が不似合いにおさまった。

「似合いますよ」

という佐伯をきっと睨む。佐伯は笑っていた。気弱そうに見えて、そうでもないのかもしれない。今は、そのフランクさがありがたかった。高校の同級生で、数多くいた生徒の中の彼と私。名前を言えば、すぐに認識されるような立ち位置だった私と、私の記憶から抜け落ちた男。どうしてこんなにも構えずにいれるのか。

「私に、ひいていないの?」

ポロリと、口からこぼれた。

「なにが?」

じっと見つめる佐伯に、口籠る。

「面倒な、病んでいる女だって思わないんですか?」

「そう言う部分もあったんだなってかんじですね」

確かにそうだな。と、自分でも思った。そして、私にとってその事実は自分の大部分を占めているのだ。佐伯が思っている以上に、その要素は私そのものだった。

「そう言う部分じゃなくて、全部そうかも」

「じゃあ、そうなんですかね」

否定しない佐伯に拍子抜けする。

「どちらにせよ、美央子さんは昔から綺麗でしたけど」

おし黙る。静かに、波音が聞こえる。

綺麗って何度言われてきただろう。私は自分をよく見せることが、人より上手かっただけだ。現に私と同じ顔はもう一人いる。美穂子。

 美穂子の目には、私はどんな風に映ってきたのだろうか。

もの心がつき始めた幼かったあの日。

「どちらがお姉ちゃんか、決めよう」

そう言い始めたのは私だった。母が読み聞かせてくれた、うさぎさんのおねえちゃんという絵本に触発された私は、お姉ちゃんと妹。という構図にただ憧れた。母に尋ねれば、まず私が母の腹から掬い上げられ、そして、すぐに美穂子が取り上げられたと知る。

「じゃあみおちゃんがおねえちゃんだね!みほちゃんのことはおねえちゃんがまもってあげるからね」

そう胸を張る私に、美穂子は嬉しそうに頷いた。あまり笑わない美穂子の笑顔が嬉しくて、ずっと一緒にいよう。子供ながらに、そう決心した。

 私たちは、一つの卵から生まれた。


 すーっと細く長い息を吐く。吐かれた息は空気に混じってすぐに消えた。九月終わりといえど、朝の海はやはり少し肌寒い。

「私は」

言葉が詰まる。ビーチサンダルを履いた私。醜態を晒した私を海に運んだもの好きな男。

「私は、綺麗じゃない」

砂利をける。向こうに転がる投げ捨てられたピンヒール。

「よく見せることが少し上手だっただけ」

佐伯は、どんな顔をしているのだろう。

「そうやって生きてきた」

「でも、結局」

言葉が出てこなかった。

結局、私は乾ききった大地のようだった。乾いているのだ。延々とひび割れたカラカラの地に怯えながら、自ら水を差しては、潤おそうとあがく。

 私はずっと、美穂子が羨ましかった。外見の美しさではなく、個性で成り立っている彼女が羨ましかった。子供の頃から、美穂子は変わらなかった。瞬きすらせずに何かを見据えては、没頭し続けていた。あの澄み切った熱量が、私は欲しかったのかもしれない。美穂子は本当に絵がうまかった。誰しもが美穂子の描いた絵を見て、ひと呼吸をおき、もう一度息を飲むくらいに。

 才能という言葉を知った、忘れもしないあの日。美穂子の描いた絵画が全国のコンクールで優勝をした。地方の田舎町が沸き返るような、めでたい知らせに大人たちは浮き足立った。

 美穂子の描いた絵は、私たちが二人で作り上げた花冠だった。二人で出かけ、色とりどりの花々を集め二人で組み合わせ合い、日が暮れるまで作り続けた。夢のように美しい花冠だった。互いに頭に乗っけては、お姫様みたいだと喜んだ。

「これを絵にしよう」

二人ではしゃぎ、同じ場所で同時に描いた花冠。子供らしい花冠を描いた私とは対照的に、美穂子の描いた花冠は、柔らかな花弁にひらかれたように雌しべが何本も踊った。目に焼きつくような色彩と繊細さをまとった葉花は、摘み取られたことすら知らないように、生き生きと茂っていた。

どんな角度から見たらこうなるのか。言葉が出ずに、息を飲んだ。

本当に感動をした時、人は言葉を発しない。それを、私は美穂子から知ったのだ。

「美穂子は才能がある。すごい才能がある」

顔を合わせれば、大人たちは言い続けた。

「それに、器量好しだしな」

感心するかのように言ったおじさんの言葉に、私はショックを受けた。可愛い。器量が良い。その言葉は私のもののはずだった。そんなことを思う自分を醜いと思った。何かが一気に引いていくかのように、様々な言葉が美穂子の元へと連れだった。

「美央子はいい子ね。可愛いね」

その聞き慣れた言葉に張り付いた深い影は、私の中に潜り込んだ。

 美穂子が絵筆を握るか細い手のひら。どこまでも曲がる親指も小指の爪の形まで、私たちは被さるくらいに似ているのに、その手から作り出されるものはまるで違ったのだ。

ぽたぽたと頬を濡らす。雨だ。雲は、出ていない。

どんなに綺麗だと庇護されても、どんなにみおちゃんみおちゃんと呼ばれても、どうして私は、今でも自分を探しているのだろう。

 初めは小さなことだった。嬉しいとはしゃぎ、悲しいと言っては泣き、目の前にあるものをひたすら追いかけ回し飛び跳ねる私を、大人たちは楽しそうに見ていた。

ありがとう。その言葉に人の顔にあかりが灯る瞬間も、声をかけるたびに華やぐ瞬間も全て、私はただ嬉しかったのだ。

「みおちゃんがいてくれると楽しい」

普段は笑わない美穂子が、そう言って強く握った私の手。大袈裟なくらいに反応すればするほど、跳ね返るように降り注ぐ反応も、何もかも私には嬉しかったのだ。

頰を流れる水路は、潮風の下で乾いてく。塩辛い水が、延々と私の肌をひりひりとさせた。この男は、私のことをどのくらい知っているのだろう。佐伯が、ゆっくりと息を吐いた。

「人は美しいものに惹かれるし、男は単純だから勝手に勘違いをする」

「ただそれだけです」

薄暗かった西の空も、うっすらと光をまとっていく。力強い陽色の閃光が東の水平線から差し始める。佐伯が、ピンヒールを拾って来た。

「下の名前は?」

まばゆいが赤が溢れていく。染まる水平線を見つめたまま、佐伯に尋ねた。

「圭之介です」

「けいのすけ」

記憶の底で、何かが懐かしく響き渡る。瞬きをする、何かが立ち上るかのように、渦巻いては点と点が繋がっていった。一つの線となって浮かび上がる。

がくん、とうなだれた。どうして気づかなかったのだろう。幼い頃、美穂子が絵に没頭する間にひたすら遊んでいた

「ダンゴムシくん」

そう言うと、佐伯は顔をくしゃくしゃにして笑い始めた。

「あの時、僕の本気の一人遊びを、あんな風に一緒に楽しんでくれたのが嬉しかった。そして、美しいものに惹かれ、勝手に勘違いをしました」

「親の離婚で苗字は変わって。転校した後にもう一度地元へ戻ってきたら、その子は神妙な顔でミスコンに出ていたんだ」

そう笑った。顔が火照り、うなだれるように全身の力が抜け落ちた。私は、諦めたように笑った。

「けいのすけ」

その名前を呼ぶのは、初めてだった。

「綺麗な人ってどんな人?」

「自分に正直な人」

太陽が昇って行く。全ての夜が明け始めた。



「美央子は、いつでも正直で」

振り絞るように声をあげる。

「羨ましかった」

「私は何も言えない子供だったかったから。ただ絵を描いていただけ」

「知ってる。二人とも、根っこはよく似ているから」

柊は笑った。きっと、私も美央子も、奥底に飼っていたものは同じなのだ。

美央子ちゃん、美央子ちゃん

そう呼ばれ続ける美央子は、時折何かからもがれているようにも見えた。誰かに求められるほどに、自分を絡め取られるように何かを消耗していた。自分は、愛される存在だと認識していなければいけない。その恐怖心は、私にだってなかったわけじゃない。けれど、私は認めることが怖かった。私はずっと、美央子が羨ましかったのだ。

「美穂子はいいな」

「絵がかけて」

泣きそうな顔で言う、美央子の正直さが好きだった。


 今年の冬は、暖冬だと言う。

虫の生態系が崩れてしまうと嘆く圭之介に、変わらないな。と、笑った。あの頃、ダンゴムシを追いかけ回していた少年は大人になり、飛び跳ねるように遊んでいた少女は、もうすぐまた一つ歳を重ねる。ガサゴソと、圭之介が鞄を探る。小さく折りたためられた新聞が顔を出す。丁寧に広げ、私に差し出した。

「美穂子ちゃんが、新聞で連載を始めたの知ってる?」

「新鋭の画家としてさ」

「へえ」

つまらなさそうに答える私に、圭之介は笑った。

「美央子のことが書いてあるけど。」

飛びつくように、ひったくった。


花冠           手塚美穂子


 もの心がつく時。それは一体いつなのだろう?

浮遊する心を抱えたまま生まれ落ち、五感を開くことを知り、時を重ねていく。

一つの卵を分け合い、この世に生を持った私たちは、それぞれに名前を持った。

美央子と美穂子。いつだって私の手を引くように扉を開けたのは姉の美央子だった。一人遊びに没頭する私を興味深そうに笑い、私の手を引いて、花冠を作った。そして、共に作った色とりどりの美しい花冠が、私を絵の世界へと招き入れた。

姉は、いつだって全ての真ん中にいた。その位置にいるからこその苦悩を、私は気づくことなく大人になった。皆に好かれる明るさがいつでも眩しかったが、姉から見た私の花冠も同じように眩しかったのだと、知ったのはつい先日のこと。

私たちは、やはりよく似ていたのだ。

頭のてっぺんから爪の先まで、映し身のように存在してきた私たちの頭に輝くのは、それぞれの花冠である。

子供時代も、大人になった今もそう教えてくれるのは、間違いなく姉だった。

私は、私のままでいい。

私たちの頭上に咲く、花の冠は、美しい。


「会いに行けば」

圭之介の言葉に、黙って頷いた。

私たちは、一つの卵から生まれ落ち、それぞれに違う体を持った。私たちが一つだったあの頃、それぞれが握りしめた小さな種は、私たちの花冠となった。

今年の誕生日は、美穂子と祝おう。夜通し話そう。美穂子の絵を、見に行こう。


もうすぐ、春が来る。










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