マイ・スウィート・ダーリン
インディーズ時代から応援していた歌手が有名になると、うれしい反面どこかさみしく感じてしまうことがあります。そんな寂しさをお持ちの方にぜひ読んでいただきたい作品です。
山野美佳は、市役所勤務の公務員だ。朝は5時に起きて家の掃除をし、朝食を作り、洗濯機を回す。朝食を終えコーヒーを一杯飲み、朝のニュースを見てから洗濯物を干し、ゴミをまとめて7時30分には家を出る。
満員電車に揺られながら市役所につけば、特に誰と話をするわけでもなく黙々と事務作業に勤しむ。家には午後6時頃に帰り、夕食を済ませたら就寝時間である午後10時までは自由時間だ。
自由時間はほぼ読書に充てる。友人のいない彼女にとって読書は最高の趣味であった。恋愛ものや推理小説、ホラーに至るまでありとあらゆる本を読み漁ってきた。ただ、読むのはあくまで物語であってノンフィクション作品には興味がなかった。
午後8時前にはコーヒーを入れて、部屋の照明を少し暗くし、クラシックを流して部屋を外の雑音から切り離す。より物語の世界に入り込むためだ。一日の疲れが心地よくなってきたら、眠気が襲うまで読書を堪能する。
これが美佳の一日であり、特に午後8時から10時までの2時間を何よりも大事にしていた。この時間のためにそれまでの15時間を過ごしている。読書を始める午後6時からの2時間もいわば準備である。
最近、美佳がはまっている本がある。神野真矢著、『Sweet Darling』である。片思いの女性の恋を描いたラブロマンスで、現実に恋愛をしたことがない美佳にとって理想の物語であった。
この本は書店で購入したのではなく、今年実家に帰省した際に見つけた本である。これ以外にも神野真矢の作品は数多く持っているが、どれも実家から持ってきたものだ。
彼女は神野真矢のファンであるが、書店で探しても彼女の本は見つからず、ネットで検索しても出てこない。おそらく隠れた名作家なのであろう。
「美佳だけが知っている」というのも、はまった要因の一つかもしれない。とにかく神野真矢の作品は、美佳の理想をドンピシャで描いており、心の代弁をもしてくれているような不思議な感覚にさせてくれる。
翌日、美佳はいつものように市役所の事務室の机に座った。また、今日を『Sweet Darling』を理想の状態で読むために生きるのだ。
そんなことを思いながらパソコンにデータを入力していると、同僚の声が聞こえた
「私、最近読書にはまってるのよね。」
「遥って本読むんだ。」
「今まではドラマばっかで、活字は苦手だったの。けど、スウィートダーリンって本が面白くてね。」
「へえ、私にも教えてよ。」
「良かったら貸すわよ。」
美佳は驚いた。まさか美佳しか知らないと思っていた神野真矢の作品を、まさに今彼女がはまっている作品を同僚が口にするなんて思ってもみなかったからだ。
彼女は常々、好きな本を語り合うことのできる友達が欲しいと思っていた。しかし、検索しても出てこないような著者の本だと諦めていた。
本当に神野真矢の作品か、ほかにも同じ題名の本があるかもしれない。高ぶる気持ちを抑え、冷静さを取り戻した美佳は再び同僚の会話に耳を傾ける。
「どんな内容なの?」
「片思い中の女の子が主人公なんだけどね、企業のOLで、同僚の男性社員と幼馴染との間で恋が揺れ動くのよ。」
「なにそれ、ありきたりじゃん。」
「一回読んでみるといいわよ。オーソドックスだからこそはまるのよ。」
内容は多分一緒だ。やはり美佳の持っている『Sweet Darling』だ。美佳はその喋ったこともない同僚たちに親近感を覚えた。
「だれが書いてるの?」
「確か......、かみおまやだった気が......。」
(「かみのまや」だ)
心でそう突っ込みながら、やはりまだ自分しか本当の神野真矢作品の良さを知らないと思った。
(しかし、彼女はどこでその本を手に入れたのだろうか。書店で探してもなかったはず。)
美佳は最近忙しく、あまり書店に行けてない。もしかしたら、今行ったら本が並んでいるかもしれない。そう思った美佳だが自分しか知らない良さというのもあり、もし神野真矢作品が書店に陳列していたらそれが崩れてしまうのではないかと思い、書店へ行くことが少しためらわれた。
その日の夜もいつものように本を広げていたが、今日あったことを思い出してしまい読書に集中できなかった。
(もし、明日も本の話題で盛り上がってたら聞いてみよう。)
そう心に決め、彼女は眠りについた。
翌日、市役所のデスクに座ると、昨日話していた同僚だけではなく、なんと係長までもがその本を話題にしていた。
美佳は驚きとともに、どこかやるせない気持ちを抱いていた。おそらく広めたのは昨日の彼女である。
(もともと、私が最初に知っていたんだから。私が一番のファンなんだから。名前もうる覚えの人に本の良さを語ってほしくない。)
そこには既に作品の良さを共に語り合いたいという思いはなく、ただやり場のない怒りだけが美佳の心を支配していた。美佳には世間話をするような仲間もいないので、彼女の気持ちには誰も気が付かなかった。
その日の夜は眠れなかった。美佳は自分の気持ちがわからなくなっていた。作品について語り合いたい気持ちもある。その一方で自分の愛する作家の本だ、適当な人にわかったような評価をされたくないとも思う。美佳の作品への愛が強いが故の苦悩だった。
日がたつにつれて、『Sweet Darling』は市役所では知らぬものがいないほど有名になっていた。皆が本によって一体となっていく中、美佳だけが疎外感を覚えていた。市役所のいたるところで、皆が本の感想を言い合っている。どれも美佳には不満がある内容だった。
最近はまともに眠れた日がない。自分でも異常なほどに神野真矢の作品に執着していることを感じていた。
(私しか知らない、私だけの本だったのに.......。大体、人から勧められたからって、みんなすぐにはまるなんて変だ。こんな奴らに神野真矢の良さがわかるわけがない、これは私だけが良さを知っている本なんだ。私以外が知ったような口をきくな。)
睡眠不足からか、正常な思考を失った美佳はとうとう早退した。あの空気から抜け出したかった。誰も本当の良さを知らないのに、皆うわべだけで物語を語る。美佳にはそれが許せなかった。
帰り道、ふと前に通ってた書店に入る。美佳の本に対する嗅覚が、彼女を無意識のうちに立ち寄らせた。
書店の香りは美佳の荒ぶる心を落ち着かせてくれた。しばらく書店には来ていなかったため、世間の流行などは分からない。ただ美佳には神野真矢の作品だけで十分だった。
ふと、ベストセラーの作品のコーナーに目を向けた。
ー神尾マヤ著、『スウィート・ダーリン』ー
彼女は愕然とした。皆が話していたのはこの本だった。
慌てて本を広げて見る。内容こそ似ているが、神野真矢のものとは別物だった。
美佳は早々と家に帰り、神野真矢の『Sweet Darling』を手に取り、抱きしめる。その瞬間、この上ない安心感に包まれた。自分だけの作品が奪われなかったことに安堵したのだ。
「実家の私の部屋でしか見つけることができなかった。やっぱり、これは私しか知らない。私だけの、かみのまやの物語......。」
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