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その村には人魚が沈んでいる  作者: 小波
第一章 生け贄の花嫁
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8.

 黙りこくった蓮子を連れて、俺は母屋へ足を向けた。焼けつく日差しと蒸した空気は屋敷の中に入ったとたん、まるで嘘のように消え失せた。かわりに屋敷を支配するのはたゆたう陰気な暗がりである。それは目的へ近づくごとに濃密な悪意を帯びるようだった。

 長い廊下を渡る際、すでに沈黙は二人の間で暗黙の了解と化していたが、俺でさえ不安を覚える薄気味悪い廊下の長さについに耐え切れなくなったらしい。蓮子が上ずった声を上げた。


「ねえ」


 自然と早足になっていた歩幅を、蓮子の歩く速度に合わせてやりながら答える。


「何だ」

「どこまで行くつもりなの。もうこの屋敷から出て行きそうよ」


 言い得て妙な蓮子の言葉に、俺は小さくくすりと笑った。こいつの言うことはまんざらでもない。


「もう少しだ」


 俺は目的地を顎で示した。暗い廊下の先に灰色の壁が認められる。


 行き止まりだ。

 蓮子は明らかにほっとして廊下の突き当りを眺めていた。多分、思ったのだろう。自分達のいる世界とは違う、生きているものが住まない領域──影がうごめき、負の意思を持つ何かが支配している世界に、いつの間にやら迷い込んでしまったのではないかと。

 俺と同じだ。

 俺は多少の同情を持って、祖母の座敷を指し示した。


「奥に全面に透かしの入った障子の座敷が見えるだろう。あれがお婆様の部屋になる。一人で行けるか?」


 蓮子は覚悟を決めた表情で自分の行く先をじっと見つめた。それは、まるで命を主家へと捧げた武士のようだった。


「行くわよ」


 短く答える。俺からの同情などまるで期待していない声だった。俺は続けた。


「今までのように猫をかぶっていればいい。素直に、従順にだ。それ以外のことは考えるな」

「わかってるわ」


 くだらないことをいちいち言うな、といった声音で蓮子は進もうとした。反射的に俺は口を開いた。


「蓮子」


 ゆっくりと、そのつややかな髪を揺らして蓮子が振り向く。


「何?」


 俺は首を振った。


「何でもない。行け」

「……わからない人ね」


 蓮子は軽く肩をすくめた。


「何が言いたいのかはっきりしなさいよ。昨日からこんなことばかりだわ。あなただけじゃなく、新宅の人達も」


 言い捨てて、新宅からずっと抱えていた桐の箱を俺に突き出す。


「何があったのかは知らないけれど、私まで変なことに巻き込まないで。迷惑だわ」


 俺が黙って受け取ると、再び座敷に向かった。


「よくわからない人ばっかり。……ここにいる人達は、みんな」


 ひとりごとらしい小さなつぶやきが、蓮子の立ち去った後に残った。


     *


 直接頭に響き渡るような蝉の鳴き声に耐えながら、俺は裏庭を急いでいた。早く離れへもどろうと足早に細い道を歩く。ちょうど裏木戸を開いて出て来るはつさんの小柄な姿が見えて、俺は軽く会釈した。はつさんがけげんそうな表情を作る。


「おや、蓮子さんはどうしました?」

「お婆様のところです。じき、もどると思いますが」


 俺がそう答えると、はつさんは小首をかしげて続けた。


「先ほど奥座敷でお会いして、離れへ出る場所を教えて差し上げたので、もうご一緒かと思ったんですよ。それじゃあ、そろそろいらっしゃるでしょう」


 ふと、俺を見上げていたはつさんの視線が動く。


「あ、ほらほら、いらっしゃいましたよ」


 言われて俺が振り向くと、離れへと続く渡り廊下を進む蓮子の姿が見えた。蓮子も気づいて立ち止まる。

 古い木枠のガラス戸を苦心しながらやっと開き、蓮子ははつさんに頭を下げた。


「ありがとうございました。本当に助かりました」

「いえいえ。西方の座敷は入り組んでるから、迷われるのも当たり前ですよ。……貢生さん、どうしてお迎えに行かなかったんです」


 矛先が俺に向けられる。頭をかくと、はつさんは仁王立ちになって俺をにらみ上げた。


「あんまり遅いので、そろそろ迎えに行こうかと思っていたところです」


 下手な言い訳に、はつさんは小鬼のような表情を作った。


「まあ、のんきなことをおっしゃって。そんなことをしている間に、蓮子さんにもし何かあったらどう責任を取るおつもりですか。──いいですか、お嫁さんに心細い思いをさせるなんて、旦那様として失格ですよ。そもそも貢生さんは昔から……」

「わかった、わかりました」


 長くなりそうなはつさんの説教に俺はあわてて謝った。こうなると止まらないのだ。蓮子の前で子供の頃の話まで持ち出されてはかなわない。


「わかりました。今度からは気をつけます。申し訳ありませんでした」


 両手を上げて俺が言うと、はつさんは鼻息も荒く言葉を返した。


「私に謝ってどうするんですか。謝る相手は蓮子さんでしょう、蓮子さんに謝って下さいな」


 勢いよくぽんぽんと言われ、俺は渋々蓮子に向かって頭を下げた。


「すまなかった。謝る」


 蓮子のくすくす笑いが聞こえる。


「はつさん、もういいですよ」


 笑いを含んだ蓮子の言葉にはつさんは再び俺を見上げた。


「蓮子さんのお許しが出たことだし、今回だけは多めに見ましょう。今度からはこんなことがないよう、夕飯までの間にせめてお屋敷の中くらい案内してあげて下さいね。……いいですか、くれぐれも粗相のないように。わかりましたね」


 最後にきっちり念を押されて俺は渋面を作りながら、木小屋へと立ち去って行くはつさんの後ろ姿を見送った。

 声を上げて蓮子が笑う。


「あなたも、はつさんにはかなわないのね」


 俺もつられて苦笑いした。


「俺の親代わりだからな。俺のことなら何でも知っている」


 言った後、真顔になって俺は蓮子の顔を見た。


「西の座敷で迷ったのか?」


 俺の問いかけに、蓮子は思い出したように憤然としてうなずいた。


「そうよ。部屋を出て、長い廊下のどこだかで一度曲がったでしょう。帰りにどこで曲がればいいのかさっぱりわからなくなっちゃって……。お座敷と廊下をうろうろしてたら、ちょうどはつさんが通りかかったのよ。全く、目印でもつけておいてくれなきゃ帰り道なんてわかりゃしないわよ。あの時はつさんに会わなかったら今でもあそこで迷ってたわ」

「よかったな」

「そうよ。本当に助かったわ」


 蓮子の答えに俺は皮肉な笑いを浮かべた。


「そうじゃない。……はつさん以外のものに出会わなくてよかったな、と言ったんだ」


 蓮子が息を飲む。瞳に不安の影がよぎった。が、怒りで影を蹴散らして、蓮子は低くつぶやいた。


「また思わせぶりなこと言って」


 怒気をはらんだ蓮子の声に俺は再び苦笑いした。そんなつもりはないのだが、どうも言葉のはしばしにからかいの素振りが出てしまう。


「悪かった」


 ガラス戸を閉める蓮子に言って、ふと俺は改めて尋ねた。


「お前、お婆様の顔を見たか?」


 蓮子は閉じかけた引き戸の間から、きょとんとした顔をのぞかせた。


「暗くて、座敷の奥の方にいらっしゃったから、お顔なんてよくわからなかったけど……。それが?」

「……いや」

「また」


 今度こそ目を吊り上げる蓮子に俺は早々に背を向けて、離れへと入る玄関へ向かった。

 日差しがかげり、夕暮れらしくヒグラシの物悲しい鳴き声が響く。きついネクタイをやっとゆるめて窓から中庭に目をやると、昨日と同じく青い松葉が薄闇をはらみ始めていた。

 背広の上着をその場に脱ぎ捨て、文机の横に腰を下ろす。俺は庭からかすかに流れる涼しい風に頬をなぶらせた。

 静かだ。

 久しぶりに喧騒から離れ、俺は珍しくくつろいだ気分になっていた。考えなくてはならないことは山のようにあるのだが、今はゆったりとしたこの雰囲気が妙に心地よく感じられる。


「はい」


 つっけんどんな言葉とともに俺の前に差し出されたのは、朱塗りの盆に載せられた二つの麦茶のグラスだった。作りつけの冷蔵庫から勝手に出して来たものらしい。その後、蓮子がガラス皿に盛られた水蜜桃を文机に置いた。薄紅色の切り口が、果汁を含んできらきらと光っている。

 グラスを受け取り、氷を鳴らして口をつける。舌がしびれるほど冷たい麦茶が口腔を湿らせて喉を通った。


「気がきくな」


 俺はからかうように告げた。ぶすっとしたままの表情で蓮子は残ったグラスを取ると、切られた桃を自分の爪楊枝で一切れちゃっかり確保した。


「一人で飲んで、あなたに出さないって訳には行かないでしょ。──桃はさっきはつさんに言われたの。冷蔵庫の中に入れておきましたから、好きな時にお召し上がり下さいって」


 仕方なく、といった口調の蓮子に俺は微笑んだ。全く、可愛くないやつだ。

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