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その村には人魚が沈んでいる  作者: 小波
最終章 人魚の見た夢
36/37

5.※

「あ……あ……あ」


 俺の体はがたがたと震え、声にならないうめき声を上げた。

 急に体が引き上げられて俺は崖の上にもどった。隣で見た顔の青年が加世を上げるのを助けている。

 はつさんが死んだ。

 その事実に、俺は思考力を奪われていた。自分の縄が解かれるのも待てず、周囲の制止も振り切って、にじり寄るようにして崖下に近づく。


「はつさんッ──!!」

「だめよ、貢生さん!!」


 必死の声に振り向くと、涙にまみれたざんばら髪の愛しい存在が目に映った。血染めの右手をかばいながらもすっくとその場に立ち上がり、黒い双眸で俺を見すえる。


「蓮……」

「動かないで!」


 厳しい制止の言葉。


「お願い。あなたの怪我は本当にひどいの。無理すれば、もう一生足が動かなくなるかもしれないって……。お願いだから動かないで」


 泣き出しそうな蓮子の声に、俺は口元を笑いでゆがめた。俺の怪我など、もうどうでもいい。


「──これで終わりにしよう」


 その時崖下から響いた声に俺と蓮子は顔を上げた。蓮子がとっさに公彦へ叫ぶ。


「公彦さん、今、縄を投げるから早く上がって!! すぐに崩れるって言ったじゃない!」


 今にも壁から抜けてしまいそうな、細い木の根の張った力が、その横倒しになった巨岩の完全な落下を押しとどめていた。土にまみれた公彦が持った猟銃を支えにして、石のくぼみに座り込んでいる。その向こうには石上堂の残骸が散らばっていた。

 公彦はなぜか微笑んでいた。ゆっくりと首を横に振る。足元に光る御神刀と、はつさんの無残な遺体を従え、公彦は静かな声を出した。


「貢生。蓮子ちゃん、聞いてくれ。今、ここで話してしまおう。オレが知っていることを全て」


 はっきりとした公彦の口調が周囲の制止を押しとどめる。

 公彦は落ち着いた表情で続けた。


「オレはずいぶん昔から、それを知っていたように思う。オレは親父について何度も東野に出入りしていたし、操さんが東野では父親と二人暮らしだったことも知ってる。だが確信が持てなかった。相手の話とつじつまが合っても、実際には写真一つ見せてもらう訳でもなかったから、長い間確信が持てなかったんだ。……だが先日、蓉子の葬式の時にくわしい話を聞いて、やっとこの人だと確認出来た」


 言葉を切って、言い放つ。


「操さんの恋人の話だ」


 俺は大きく息を飲んだ。体ががたがたと震え出す。


──母親の、死んだ恋人?


 だとすればそれは俺の、本当の父親の話だということになる。


「十年前行方不明になった、東野の村長の一人息子。蓉子、蓮子の義理の父親にあたる高志(たかし)さん。──貢生、お前は東野高志の子供だよ。お前は、本当は、東野の人間だったんだ」

「な──……!?」


 俺の叫び声より、蓮子が息をのむ音の方が切実だった。


「お養父さんの……本当の子供!?」


 蓮子の必死の問いかけに、公彦の微笑みは穏やかだった。


「ああ。蓮子ちゃん。十年前、行方不明になった君と蓉子のお養父さんには、実の息子がいたんだよ。──オレは東野で聞いたんだ。高志さんには、将来を誓った恋人がいたんだ。だがそれは両親に反対されて、だから高志さんは結婚せずに、君たちを引き取って育てたんだ。……そう考えると時期的にも全てつじつまが合う。貢生、お前の両親の間にお前以外の子供が出来なかったことを考えると、多分孝一郎さんは子供が出来ない体だったんだ」


 今は俺以外には誰も知りようのない秘密を、公彦はきっぱりと言い切った。背後の村人の間からこらえ切れないどよめきが聞こえる。

 公彦は厳しい声音で続けた。


「しかし引け目を感じることはない。むしろお前は、自分が東野の人間だったことを誇りに思うべきだ。東野の人達は立派な人達だ。……それに比べて──」


 公彦はわずかにうつむくと、自嘲の響きを交えて言った。


「オレも子供が作れないんだよ。どうやらこれは遺伝のようだ」

「え……」


 俺はあまりの衝撃に足元が崩れ落ちるようだった。

 十年前、俺は心に決めた。何があっても必ずこの村を滅ぼすと。命に代えてもこの呪われた血を滅ぼしてみせると。しかし今の公彦の言葉が本当だとしたら。もしもそうなら、今まで自分がして来たことは……。


「だって、それじゃ、姉さんは──」


 愕然として見開かれた蓮子の黒い双眸に、公彦は苦悶の表情で答えた。


「オレは蓉子と寝たことはない。蓉子の子供は、親父の種だ」


     *


 蓮子は絶句し、俺はただ言葉もなく公彦の顔を見ていた。公彦はむしろ淡々と続けた。


「オレは本当に気づかなかったんだ。親父が蓉子に手を出していたなんて。何も知らないオレに蓉子が打ち明けられるわけがない。──一昨年の今頃、オレは仕事で三日ほど家を空けたんだ。新婚早々出かけるなんて、と周りにずいぶん言われたが、オレは蓉子といるのが辛かった。どうやら蓉子には惚れた人間がいたようだし、オレにも忘れられない人がいたから」

「え……」


 蓮子は目を見開いた。そして、憔悴の影を色濃く感じさせる声で尋ねる。


「公彦さんの好きだった人って……?」


 俺はわずかに眉をしかめた。──言ってしまえ。いまさら、隠すこともない。

 思った俺に答えるように、公彦はささやくように漏らした。


「名前は操。……貢生の母親だ」


 蓮子が再び目を見開いた。語りきれない公彦の思いに俺は奥歯を噛み締めた。俺がその思いに気づいたのは、いつ頃からだっただろう。いつも向けられていた母への視線。

 顔をそむけて公彦は続けた。


「……帰って来てから、どうも二人の様子がおかしい。それまで何一つ文句を言うことのなかった蓉子が、夜、一人にするなとオレに言うんだ。親父は親父で、オレと顔を合わせようとしない。何かあったとは思ったが、オレは自分のことだけで手一杯だった」


 俺も、蓮子もただ無言だった。


「蓉子の妊娠を知った時、オレは生めと言った。そうすればオレの子として育てると。──そうとしか言えなかった。あの時にオレは思った。全てから逃げ続けて来た、これは当然の報いだと。そして、自分のことにしか目を向けなかったオレに、何も言わずに蓉子が自殺した。それも当然だと思った」


 公彦は小さく微笑んだ。

 燃え上がるような夕焼けは、全てを朱に染めていた。公彦の低い声音が響いた。


「……貢生。オレはお前に言ったな。『お前は村から逃げたんだ』って。……オレもそうだ。オレは西浦のしきたりに逆らえず、当主に操さんへの思いを差し出した。──お前に西浦を変える話をされた時、オレは思ったよ。もしもオレ達が協力して村を変えることが出来たなら、こんなことにはならなかったんじゃなかったか、ってね。御神体への迷信や、村のことわりを変えられなかったのはオレも同じだ。オレも逃げたんだ。村が根底から腐っているのを知りながら、オレは何もしなかった」

「……どういうことだ」


 俺がぼんやり尋ねると、公彦はつぶやくように返した。


「操さんが沼に飛び込んだ時、オレも後ろからそれを見ていた。あの時も、オレは見ていることしか出来なかったんだ」


 十年前、俺の母親は恋人……東野高志の無残な姿のなきがらと、制止する間も与えずにここから空へ飛び出した。

 立ち尽くす父のかたわらで、目の前で起こった出来事に呆然としていた俺は、背後の藪をかき分ける音に発作的に振り返った。

 そこには何の表情もなく、ただ情景を凝視する若い公彦の姿があった。何も映さない双眸に触れてはいけないものを感じて、俺はそのまま脇を通り抜け、一人母の消息を求めた。


「オレが孝一郎さんに伝えたんだ。操さんが駆け落ちしたと」


 公彦はさらに言葉を続けた。良心の呵責に耐えかねた、暗く激しい饒舌の嵐。


「あの時、孝一郎さんが偶然早く帰って来たことを、おかしいと思わなかったのか? オレがお前達を見張って孝一郎さんに連絡したんだ。孝一郎さんは知っていたよ──オレが昔から操さんに思いを寄せていたことを。当然だ、あの人は狂うくらいに操さんに惚れていたから、オレの思いを見抜くことなんて簡単だった。あの人は言ったんだ。操さんを見張れ、何かあったら自分に伝えろと。よそ者二人が操さんに会い、不穏な雰囲気になっていることを知ったオレは、すぐに孝一郎さんに使いを出した。そして、ずっとつけていたんだ。お前達を──操さんを」

「……俺は……」


 公彦の告白に、俺は思わず口を開いた。


「俺は、この村が嫌いだ。この村にいると俺は自分を憎んでしまう。自分さえいなければと思う。自分さえいなければ、母さんはもっと楽だったんじゃないかと──物心ついてから俺は、ずっとそう考えていた」


 俺の絞り出すような告白に、蓮子は悲哀に満ちた表情を浮かべた。公彦はどこか悲しげに、だが愛しそうな目で俺を見た。


「もういい。もういいんだ。貢生、もう西浦のために誰も死ぬことなんかない。もう、そんな人間はオレだけで十分だ」


 公彦はその場に立ち上がり、銃口を上に持ち替えた。自分の喉元を銃口にのせ、覆いかぶさるように押し付ける。


「公彦!?」


 俺の切羽詰まった声に、公彦はむしろうれしげに言った。


「昔から、オレはそういうお前の声を聞いてみたかった。ガキの頃からずっとお前は我慢するのが癖になってて、取り乱すってことがなかったからな。兄として、やっと願いがかなったぜ」


 足の先を引き金へと伸ばす。


「──オレはやはり、骨の髄まで西浦の人間だったようだ。オレには西浦を変えることは出来なかった。だが、オレには出来なかったことでも、お前ならきっと出来るはずだ」

「公彦さん!!」


 蓮子の制止に公彦が顔を上げ、ふと微笑んで見せる。


「蓮子ちゃん」


 公彦は言った。限りなく優しい声音で。


「蓮子ちゃん。東野の人達は本当に君のことを心配していたよ。──これだけは信じていいと思う。蓉子の葬式の時、君のおじいさんは親父に土下座して言ったんだ。どうか、蓮子をよろしく頼むと」

「うそ……」


 蓮子は潰されたような声を漏らすと、黄昏の中で立ち尽くした。


「だってあの人達は、私と姉さんを都合のいい生贄だと考えて……!」


 何かを必死でこらえるように訴える蓮子を見上げながら、公彦は静かに言葉を紡いだ。


「あの人達は君に大事な懐剣を持たせてくれたんだろう? 高志さん亡き後、君達がどんなに心の支えになっていたか──もしも蓉子が戻って来るなら、東野などどうなってもいいとまで言ったんだ。だが、しかしまだ蓮子がいる。蓮子だけは、不幸にしてしまった蓉子の分までどうか幸せになって欲しい。だから頼むと、そう親父に言っていたんだ。……おじいさん達を責めないでやれ。あの人達も東野の間で、板ばさみになって苦しんでいたんだ」


 言葉を切って、悲しげに微笑む。


「君の姉さんも君の姪も、助けてやれなくてすまなかった」


 その笑顔はあくまでも、俺の優しい兄のものだった。


「貢生。──蓮子ちゃんと幸せにな」


 そして公彦は躊躇無く、一気に引き金を踏み込んだ。

 俺はその場で掻いた土を両手に握り締めて絶叫した。


「き……み、ひこォ──ッッ!!」


 山間に銃声が響き渡る。

 まるで、今までそれを待っていたかのように、巨岩が轟音を上げながら容赦ないなだれを引き起こした。公彦達のむくろを乗せて、地鳴りとともに土に埋まった沼に向かって落下する。石上堂の残骸と、ちぎれた白いゆりの花が、ふりかかるようにその後を追った。

 そして土埃の中、長い西浦の歴史とともに──その象徴である懐剣と、生き証人だったはつさんをつれて──公彦はあっけなく土砂に飲まれた。

次回が最終回です。

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