4.※
「何だと?」
思いがけない加世の言葉に、公彦が面食らったように言う。加世は後退りながら続けた。
「嫌よ。私、この人だけは嫌。だってこの人怖いんですもの。この人にかかわるのだけは嫌!」
「加世、お前は何を言って……」
大叔父のあきれたような声。それにも構わず、加世は蓮子からさらに離れようとする。
その時蓮子の声が響いた。
「あなたが私を怖がる理由は、後ろめたさを感じているからよ」
一歩加世に向け足を踏み出す。
「あなたは自分がやったことを思い出すのが怖いのよ。……後悔するのが怖いんだわ」
蓮子の凛とした声に、加世は子供のようにわめいた。
「やめて! そばに来ないで‼」
「私は過去を思い出させる。あなたが忘れたい過去を。でもやったことから逃げ出したって絶対に逃げ切れるものじゃない。──あなたは人を殺したわ。大切な人のお母さんとおじいさんを。大切な人を悲しませたのよ」
「やめて‼」
加世は叫び、その場にうずくまってしまった。
皆が加世と蓮子の会話に気を取られている。──その隙に。
「何をしている」
冷酷な声。刀を握って伸ばした右手は、草履の足に踏みつけられた。
「そこに何かあるとでも?」
俺は歯ぎしりをした。祖母の双眸をしたはつさんは俺の指先を踏みつけて、刀が指し示す崖下を覗いた。
「これは……」
驚きの呼吸音が聞こえた。俺は無力感にうめいた。
「……やめろ」
「この機械は……」
ひび割れたつぶやき。
「沼に仕掛けたものと同じ……!」
崖下から覗く木の根を伝い、崖上に這い上がるようにして繋がれた幾つもの色の違う線。線の先では感応機器が、俺がそれを切り離すのを待ち構えているはずだった。
「お前はこれで私達を──」
小柄なはつさんの重さくらいなら、俺が全力を出しさえすれば何とか振り切れるだろう。一瞬はつさんの足が離れれば、線は指先のすぐ下にあるのだ。切る時間は十分にある。
後は、どうやってこの手を離すかだけだった。
「お前は最後の最後まで村にはむかうつもりだったのか……!」
絶望の響きを耳にしながら、俺はついに決断を下した。蓮子との距離を目ではかり、まだ蓮子が逃げおおせることの出来る位置にいることを確認する。
その時、大叔父が公彦から猟銃を奪い取った。その筒先が容赦なく蓮子の方へと向けられる。
俺は息をのんだ。大叔父の声が響いた。
「加世! もういい。どくんだ、わしがやる!」
「蓮子ッ、逃げろぉ──っっ!!」
俺は叫んで左手を離した。自身の体のつり合いが崩れ、右手を踏んだはつさんごと体が崖下へとずり落ちる。
目の前の観客──大叔父や公彦の怒号や罵声の中で、俺は空いた両手を使って踏まれていたはつさんを突き飛ばした。宙に浮いたままゆっくりと、指先でさぐった束を切り裂く。
これで、全てが終わる。
──蓮子。
俺は微笑んで思った。
もう一度会えて良かった。
これでもう何も思い残すことはない。だが、出来るなら──もしも自分がこれ以上、何かを望んでもいいのなら。
できるなら、俺がいたことを心の隅で覚えていて欲しい。
次の瞬間、俺は爆風の中にいた。爆音を聞くことはなかった。目の前に映る光景の全てが無声の映画のように思える。
一度離れたはずの地面──巨岩が自身の下にある。ゆっくりと山肌が崩れ、沼へと沈み込んで行く。俺が仕掛けた爆発は、俺と堅三の思い通りに見事に石の落下を招いた。
土まみれの根の間からはつさんの白い足袋が見えた。公彦が雑木の枝にしがみつき、何かを叫んで俺の方へとその右腕を差し出している。
俺の目の前で俺より早く大叔父が滑り落ちて行く。驚愕の表情が目に焼きついた。永遠のように感じる一瞬。
そこまでで、俺の意識がはぜた。
*
俺は穏やかな暗闇の中で、たゆたう安寧に身をゆだねていた。溶け込んだ闇は永遠で、何も見えず、何も感じない。
「……生……」
俺はこのまま眠りたかった。深い安寧をかき乱す、かすかな揺らぎがうとましい。もうこれ以上自分が手にした静寂を乱さないで欲しい。
その時揺らいだ混沌が、形を整えて音に変わった。
「……う……生さん!」
いとおしい女の声。
闇に同化した俺は、その声が思い出す感情に自分の意識を見出した。
「……貢生!!」
今度は聞き覚えのある男の声。
やっとまぶたの存在を確認し、俺はこじ開けようとした。今まで感知しなかったまぶたの裏の色彩が、赤く燃え上がっているように思える。先にうごいた唇が俺の意識があることを伝えた。
「……な……?」
「貢生!」
俺はやっとまぶたを開いた。鮮やかすぎる夕焼けを背に、泥にまみれた公彦が見える。
「目を開けろ! 早く!」
──俺は生きていたのか。
感慨を噛み締める暇もなく、公彦の必死の声が聞こえた。
「早く起きろ! すぐにまた崩れる、早く!!」
「くず……れ……?」
俺はぼんやり顔を上げ、視線を公彦から背後に移した。赤い情景の高みにのぞく、削れた土壁の上で右往左往する人影。
「ここは危ない、まだ動いてるんだ。はつさんはもう上がった。後はお前とオレだけだ、早く!!」
言葉とともにぐいと起こされ、俺はきしむ全身にうめいた。体中を打撲しているようだ。
「先にお前が上れ。足に気をつけろよ」
言いながら、公彦が力ずくで俺を真上にいる人々の方へ突き出した。
「大丈夫だ、縄を下ろせ! あまりこっちに近づくなよ! ……離れるんだ、蓮子ちゃん!」
はしご状に編まれた縄がぽとりと俺の前に落ちた。公彦の手がそれをつかんで、せっせと俺に縛りつける。俺はただぼんやりと公彦の器用な指先を見ていた。
不意に体に負荷がかかって、自身が宙に浮く感触を縄目ごしにかみしめる。それは網に捕らわれた獲物のような気分だった。
少しずつ崖上の景色が近づく。俺が見上げても危ないくらいに身を乗り出して叫んでいるのは、まぎれもない婚約者の姿だった。
「貢生さんッ──!!」
「蓮……」
つぶやこうとした唇が震えた。
──自分は既に死を覚悟して、それに身を投じたはずではなかったか?
「もう少し、もう少しだから!」
必死で叫ぶ蓮子の声が耳に入る。俺は思わず顔をそむけた。
なぜ自分は生きている? 本当にこれでよかったのか? 俺が今までしてきたことは──
その時、俺の真上にあった土のかたまりが揺らいだ。自身の体ががくんと揺れて、頭からまともに土ぼこりをかぶった。轟音とともにかたまりが崖下へ崩れ落ちて行く。
蓮子の脇に力なく座り込んでいた加世が、何の抵抗もなく落ちた。蓮子がとっさにその腕を掴む。
「加世さんッ!!」
動けない俺の目の前で、黒く乾いた血痕にまみれた加世の両足がぶらぶら揺れた。生気のない声が答える。
「……離して……」
俺がいるすぐ上の空間に加世がぶら下がっている。俺は両手を伸ばし、体中の痛みにうめきつつその足をつかもうとした。が、指先はむなしく空を切るばかりだった。
「離さないわよ」
蓮子の張り詰めた答え。その右手に巻かれた包帯が見る見るうちに真っ赤に染まる。
「死んだって離さないから‼」
手のひらを侵して垂れる血で今にも滑り落ちそうな様子に、俺は声をあげそうになった。先ほど周囲にいた村人は、皆俺の体を引き上げているらしく、そこに確認することが出来ない。
不意に二人の背後から、土を踏みしめる音がした。
「東野の……娘……」
機械のような抑揚のない声。俺は見上げて息をのんだ。柿色の着物の裾が目に入る。
「お前は、この村の……」
はつさんの泥だらけの顔が突き出た。振り上げられた右手には、蓮子がすり替えた本物の御神刀が握られている。
「疫病神だ!!」
悲鳴にも似た絶叫に、俺は思わず目を閉じた。
「やめろォ──っっ!!」
その時、崖下から低い銃声が響いた。
俺は自分の目を開けた。真っ赤な空を背景に、のけぞったはつさんの細い喉には大きな穴があいていた。次の瞬間、血しぶきを上げながらはつさんの体がぐらりと揺れる。
その黒い目が俺の顔へとふっと向けられた。ひゅうひゅうと喉を鳴らして、しわだらけの唇がかすかに動く。
まるで時の流れがそこだけ遅くなったかのように、小柄な肢体が俺の前を、握り締めた御神刀とともに崖から離れて落ちて行った。




