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その村には人魚が沈んでいる  作者: 小波
最終章 人魚の見た夢
33/37

2.

 黄昏は内に波乱を秘めて、確実な速さで訪れた。


「連れて来たぞ」


 聞き覚えのある太い声が俺に呼びかけるその前に、すでに二つの足音と、二人以外の人間のひそやかな物音を聞き分けていた。


「公彦はどこだ‼」


 落ち着きのない怒鳴り声。俺は右手に刀を持って公彦と断崖に立っていた。大叔父とはつさんの、こうしてみると意外に良く似た兄妹が、林に守られた細い道からならされた土地へ足を入れる。

 自分をにらむ鋭い目つきに、はつさんがまだ祖母である状態からもどった様子が無いことを知る。俺はひそかに吐息を漏らした。

 せめてはつさんの状態だったら俺の言葉も通じるだろうに。だが、それはいまさら言っても仕方の無いことだった。


「ここにいます」


 俺が一言答えると、大叔父はまず公彦の無事を確認した。そしてその安堵の顔を厳しい表情に一変させる。


「貢生、馬鹿なことを考えるな。これ以上罪を重ねて一体どうしようと言うのだ。こうなった以上、一刻も早くわしに当主を引き継いで、皆の前で罪を改めろ」

「貢生」


 はつさんの声の冷酷な響きに、俺はけだるい不快感を覚えた。祖母に似ていた妹の声音。子供の頃から抱いていた劣等感を思い起こさせる。


「観念せい。哀れな奴だが、これも天罰だ。あきらめて御神体の生贄となれ」


 俺は静かな声音で訴えた。


「わかりました。僕は逃げも隠れもしないし、何の抵抗も致しません。──ただ一つだけ、お二人にお願いがあるのです」


 大叔父達は顔を見合わせた。


「何が望みだ」


 重々しい大叔父の答え。俺はおもむろに口を開いた。


「ここに来て、お二人の目でもう一度、御神体の住む沼をご覧になって頂きたい」


 どうやら予想外らしい展開に、二人は戸惑った様子を見せた。互いと俺を見比べる。そして大叔父がゆっくりと俺の前へと進み出た。


「わかった。言うとおりにしよう。だが、その前に公彦と話をさせてくれないか」


 俺は公彦に目を向けた。公彦は変わったことなど何もないように、平然とその場に立っている。


「いいでしょう」


 俺がそう答えると、公彦はまるで近所を散歩するかのごとく、ふらりと俺のそばから離れた。不自由な右足のせいで一歩、俺の足が出遅れる。俺の腕が公彦に届かないわずかな距離を見計らい──

 薄暗い山道の向こうから、顔なじみの村人達がばらばらと現れた。働き者らしい無骨な手には使い込まれた猟銃を構え、ぴたりと俺に狙いをつけている。


「お前の負けだ。覚悟を決めろ」


 高らかに宣言する大叔父に、俺は口元の両端を吊り上げた。大叔父の考えつきそうなことだ。


「そのようですね。──ですが、まだ俺には切り札があります」


 俺は右手の御神刀を振り上げた。その場にいたものが一斉に息を飲む。俺は空への入り口に、一歩一歩確実に近づきながら言葉を放った。


「俺はすでにこの刀で定められた正統な当主であるはずだ。俺が何の引継ぎもせず、これを谷底にでも放り込んだら村は一体どうなると思う? ……当主を撃てる者がいるのか。いるなら俺を撃ってみろ!」


 俺が崖から腕を突き出すと、村人達の間にどよめきが広がった。大叔父が歯ぎしりして怒鳴る。


「止めろ! わかった、何が望みだ」


 俺はおごそかに言い放った。


「ここに来るんだ。ここに来て、沼の本当の姿を確かめろ。俺達がどれだけ馬鹿げたことを続けて来たかということを」


 村人達の視線が自身に集まっていることを知り、大叔父はたじろいだようだった。だが、その時に場の消極的な空気を打ち負かす声が響いた。


「わかった。何があるのかは知らないが、そこまでお前が言うのであれば私が確認しよう。そこをおどき」


 はつさんの声だった。険しい山登りにも関わらず、はつさんは息一つ乱してはいなかった。一歩前に足を踏み出すと辺りを睥睨して言い放つ。


「何をおどおどしているのだ。情けない、裏切り者に当主の資格などあるものか。──さあ、おどき! 私が何事もないということをこの目で確認してやろう」


 俺は哀れみの思いを込めてはつさんの無意識の演技を眺めた。

 村人たちはわかっていても、誰一人指摘しようとはしない。はつさんが昨夜と同じ柿色の、決してお婆様が着ることのない普段使いの着物でいることを。

 不意にはつさんは俺を睨み上げ、大声を出して俺をなじった。


「その目! 操にそっくりだ! 私を恨んでいるのだろう。さぞかし憎んでいるのだろう!? とうの昔に分かっておったわ。お前のその目が昔から気に入らなかったのだ。何もかもを知っているような、そのくせ何も言わない目! 内心ではこの私を小馬鹿にしているのだろう!?」


 俺はつとめてゆっくりと自身の首を横に振った。これまで行って来た通り、腹の底から吹き上がる感情を絶対に表に出さないように。ここまで相手を追い詰めて、やっと隠されたはつさんの本音を耳にすることが出来た気がした。

 俺は御神刀の切っ先で、夕暮れの色に染められつつある赤い空への入り口を示した。はつさんは思い切り良く俺に近づき──振り上げた御神刀を一瞥すると、丸腰を誇示するかのごとく胸を反らせて俺を見上げた。


「私に刃を向けられるならここで試して見るがいい」


 俺は静かに言葉を返した。


「いいえ」


 悲しい微笑が唇に浮かぶ。


「あなたは俺の育ての親です。何があってもそんなことは出来ません」

「……今さら殊勝げな口をききおっても、もう遅いわ。この親不孝者めが」


 吐き捨てるような言葉の全てが胸に突き刺さるように痛い。俺の横を通り抜ける時、はつさんは小さい体をなおもかがめ、穢れのように避けて通った。


「さあ」


 俺は静かに伝えた。


「気をつけて御覧下さい」


 それは心からの思いだった。

 はつさんはまずその高さに腰をかがめると、頭だけをまるで亀のように出し、神の住む沼を見下ろした。そしてしばらく眼下に広がる情景を眺め──おそらく、その意味がよく飲み込めず、考え考え位置を確認していたようだ──そのままの形で硬直した。

 皺だらけの喉がごくりと動いて、小さな体が小刻みに震え出す。


「こ、これは……」


 その声はか細く、まるで病人が漏らすうわごとのようだった。


「こ、こ……これは……まさか、もしや……!」

「そうです」


 俺は決然と言い放った。


「これは神なんかじゃない。──この『御神体』と呼ばれた物は、ただの作り物だったんだ」


     *


 それは──

 長年隠されていた沼の底から引き出され、皆の目の前にその陰部をさらけ出していることも知らず、いまだに滑稽な動きを見せてくぼみを動き回っていた。

 いや、動き回るという表現は不適切であるかもしれない。魚のひれを模倣したらしい、青黒いうちわのようなものがむなしく空をかいている。沼のへどろに埋もれながらも所々にうかがえる、石の線路のような筋も見える。どうやらひれは線路に沿って沼を泳いでいたものの、水がなくなってしまったために溜まった泥に絡みつかれ、線路を行き来することが出来なくなったようである。どのような仕組みになっているのか、まるで羞恥に立ちすくむように、不器用な動きでひれだけをその場で上下させていた。


 そして何よりおぞましいものは、崖に向かって首を伸ばした人形のような白い顔だった。

 陶器のような、と俺は思った。──事実、それはよく出来た陶器の作り物だったのだ。

 ぬめった光沢を放つその顔は口の辺りが二つに割れて、しっかり噛み合うようになっていた。そして、赤い夕日に映し出された不揃いながらも鋭い歯。それは実際、獣の牙が中に植え込まれているらしく、陶器の顔とはまた異なった鈍い白色の光を持っている。

 こちらを見ている顔の下には様々な大きさの棒と歯車、それらの精巧なからくりを繋ぎ合わせた糸の束が、長く伸びた陶器の首と複雑な形で組み合わさっている。その下にあるものはどうやら、これで哀れな被害者達を押しつぶして来たらしい、一抱えもある大きな石だった。

 石にはめ込まれた太い棒や、不思議な形の置石は、俺のような素人目にもてこの原理をうかがわせる。全体を覆うように生えている黒ずんだ綿状の不気味な藻からは、いまだに不透明な水の雫がぽたり、ぽたりと垂れていた。


 そして、何より村が犯した罪に目を背けざるを得ないもの。

 それは累々と積み重なった、人と動物の骨だった。

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