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その村には人魚が沈んでいる  作者: 小波
最終章 人魚の見た夢
32/37

1.

 山間からのぞく夏空は夕暮れの気配を見せていた。やかましかった蝉の鳴き声も、忍び寄る夜の薄闇を感じてかいつの間にかまばらになっている。

 俺達は土をかけ終えた後、なでるように平らにした。

 堂のある土地は巨岩の上で、人を埋められるような大きな穴を掘れる場所ではなかった。だから俺達はほんの少しだけ山の中に分け入ると、木々の間から山の稜線が見える場所に懐剣を突き立て、母を埋めるための穴を掘った。

 西浦から──本家の屋敷から全く出ることのなかった母は、どんなにかあの稜線を越えることを夢見ただろう。

 母のいびつななきがらを冷たい土の枕に寝かせ、とこしえの眠りにつかせる準備をしている間中、俺達は口を聞かなかった。

 ついに限界を越えたのか、俺の足はしびれたように感覚がなくなってしまっていた。ただ動くのに邪魔になるだけで、激痛に振り回されることはなかった。自由になったはずの公彦はよほど衝撃が大きかったのか、逃げる素振りも見せなかった。意識を失ったままの加世を連れ、まるで殻に閉じこもるように石上堂の中にいる。


「……操さんは、どうしてこんな目に会わなくちゃならなかったの」


 憔悴しきった蓮子の言葉に、俺は袖で汗を拭った。たたずむ蓮子へ目を向ける。屋敷で頭の元結いを切り、長い黒髪を束ねただけの汗にまみれた長襦袢姿だ。高価だろう薄桃色の肌着は土とほこりにまみれていて、あちこちにとんだ血しぶきが凄惨な模様を作っている。俺の袴も言わずもがなで、上等の生地は見る影もなかった。


「俺は母親とよく似ているそうだ」


 乾いた血と土が手のひらでごわつく。俺は淡々と言葉を続けた。


「だから、皆気づかなかったんだ。俺が西浦孝一郎の本当の息子ではないと。……母の恋人の子供だと、誰も思わなかったんだ」


 蓮子は瞳を大きく見開き、ただ俺の顔を見た。頬を強張らせ、首を振る。


「だって、そんな……。そんなことが、どうしてあなたにわかるのよ」


 俺は視線を落として続けた。


「はつさんが祖母に手をかけた理由。それは……」


 あの時、錯乱したはつさんが、祖母のなきがらを始末しながら漏らしてしまったひとりごと。


「父は、子供が作れない体だったんだ」


 あの日、屋敷に残されたはつさんは、本物の祖母にののしられた。このような事態を引き起こした責任は、他村のものを勝手に引き入れたはつさんにあると。そしておそらく、祖母は漏らしてしまったのだ。一生じっと腹におさめて、墓の中まで持っていくべきだった秘密を。──父が、本当は本家の当主になれる人間ではないことを。

 俺の本当の父親は、母が命をかけて愛した恋人であったという事実。父は自分が子供を作れるような体ではなく、どうやら俺が自分の子供ではないと、どこかで感じていたのだろう。母に対する狂気じみた嫉妬や、大事な一人息子であるはずの俺への冷たいまなざしも、そう考えると理解出来る。

 本家のためと言われ続けて今まで生きて来たはつさんが、必死に耐えていたものは一体何だったのか。西浦本家の本当の血筋は、とうの昔に絶える定めになっていたのだ。……それを知ってしまった時、はつさんの中で何かが壊れた。

 時は満ちていた。

 もう半時もすれば、辺りは茜色の黄昏に包み込まれることだろう。そうなれば、夜の訪れは間近だ。

 俺は静かに蓮子に告げた。


「……もういいだろう。お前は早く逃げるんだ」


 蓮子が怪訝そうな顔をする。


「え……?」

「昨日教えた道から逃げろ。今なら間に合うかもしれない。このくだらないいざこざに、お前まで巻き込まれることはない。だから──」

「冗談じゃないわよ!」


 あえて伝えた終幕を蓮子は一言ではねつけた。思わず苦笑する俺に、蓮子は感情の高ぶりもあらわに激しい言葉を投げて来た。


「貢生さん、あなた、言ったじゃない! 俺も必ずこの村を出る、生きて、逃げ延びてやるって。私と一緒にここを出るって、だからあきらめるなって‼」


 蓮子の背後に広がりつつある黄金の薄闇を眺めながら、俺は勇気を振り絞った。


「俺はまだ、死なないよ。言っただろう、やることがあると」

「それは……」


 蓮子が言いかけ、口をつぐんだ。その表情に困惑が入り混じる。ただそれだけの顔なのに、俺にはこれ以上ないほどいとおしかった。


「やることって、一体何なの」


 感情を抑えた低い声。俺は答えた。


「あれを皆に見せなくては」

「だって……おじ様に言ったじゃない。はつさんを連れて、絶対に一人でここまで来いって。それが公彦さんと引き換えだって」


 俺は小さく微笑んだ。どうやら上手に笑えたようだった。


「大叔父はそう言った方が、村の人間を大勢連れて来るからだ。出来るだけ他の人間を巻き込まず、俺は二人をこの場所に呼びたかった。だが、俺達以外の者にもしっかりとあれを見せつけて、村の人間に儀式の無意味さを強く知らしめなければならない。──ああ言っておけば大叔父は俺達のことを警戒し、俺達に気づかれないように、他の人間をここの周囲に配置しておくことだろう。その、少しの距離が重要なんだ」

「どういうこと?」


 蓮子の不安げな言葉尻に、俺はゆっくりと首を振った。


「お前はここにいてはいけない。お前がいると邪魔なんだ」


 蓮子の表情が泣きそうに引き歪む。なけなしだった俺の勇気は、それを正視することだけで使い果たされてしまった。


「……そう」


 蓮子は自分自身に言い聞かせるようにうなずいた。


「私がいると、邪魔なのね」

「そうだ」


 冷淡で、無慈悲な即答。


「私がいると、やらなくちゃならないことが出来なくなるのね」

「そうだ」

「……わかったわ」


 蓮子の答えに、俺は思わず息をついた。だが蓮子は俺を睨みつけ、最後に鋭い言葉を返した。


「一つだけ教えてちょうだい。あなた、昨日土蔵で小さな刃を口から出したわね」


 思いもよらない蓮子の質問に、俺は不意をつかれてうろたえた。


「ああ。……それが何だというんだ」

「あなた、まだ何か持ってるでしょう。いざと言う時のために、あらかじめ用意してあるものを。それを全部私に渡して。絶対にそんなものを使わないって、私に約束してちょうだい。そうでなければ私はここを一歩だって動かない」


 全てを見通す蓮子の視線に俺は一瞬、言葉に詰まった。そして再び息をつき、胃の腑の辺りを右手で押さえる。

 昨夜の時と同じ手順で手のひらに吐き出したカプセルを、俺はあきらめて蓮子に渡した。


「一つだけ? もうないの?」

「ああ」


 蓮子はカプセルをつまんで透かし、躊躇なく林の中に放った。そして俺の顔を見上げる。


「中身は何だったか、なんて聞く必要も無いわね。きっと苦労して手に入れたものなんでしょうけど、そんなもの絶対に使わせない。──お願いだから約束して。何があっても自分から死ぬことを選ばないって」


 大きな瞳が見る間に潤む。


「私、待ってるから」


 俺の心を縛る声。

 俺達はどちらからともなく相手に近づき、唇を重ねた。不自由な右足のために、前のめりになる俺の体を蓮子の腕が支えてくれた。


「行くんだ」


 すぐさま俺は体を離すと、自分を見上げる蓮子の瞳に思いを断ち切って続けた。


「ここは危ない。一刻も早くここから離れてくれ。……頼む」


 最後の言葉は哀願だった。

 蓮子は黙ってうなずいた。

 長襦袢の背は振り返りもせず山林の中を駆け下りて、すぐに視界から消え失せた。俺は感謝の念に満たされ、しばし幸福な思いを胸に夕暮れのあえかな移ろいを見ていた。


──ありがとう。


 俺は微笑んで思った。

 ほんのわずかな間でも、蓮子は夢を見させてくれた。この村を出て二人で暮らす、ささやかで幸せな幻を。──母が恋人と見た夢を。

 俺は完全に足音さえも聞こえなくなったことを確認し、邪魔な右足を引きずりながら、石上堂まで体を運んだ。

 辺りはセピア色にたそがれ始めていた。公彦が堂の前に立ち、木々の間から覗く崖の先を無言で見つめている。


「母さんを埋めて来た」


 俺がそう伝えると、公彦は影のある笑みを浮かべた。


「蓮子ちゃんは?」

「逃げた。……もう会うことも無いだろう」


 俺が静かに答えると、公彦は軽く肩をすくめた。


「そうか」


 そして、光を失いつつある空をゆっくりと見上げる。見慣れた動作に、俺はふと郷愁にかられる思いがした。子供の頃に何度も見かけた、帰りの時間を確かめるために空を見上げる公彦の横顔。それはいつも頼もしかった年の離れた兄のものだった。


「もう時間だな」


 耳に懐かしい、帰りの言葉。

 俺は黙ってうなずいた。

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