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その村には人魚が沈んでいる  作者: 小波
第二章 祭り
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10.

 急に感情がなくなったように、公彦は抑揚のない声で続けた。


「土蔵には誰も入らなかった。あの匂いとわめき声でな。堅三に連れられて、オレ一人が確認した。目の下のほくろ──あれを見てもまだ信じられなかった。土蔵からあの人を連れ出すのは、堅三が一人でやった。途中で開けた扉から叫び声が漏れちまって、黙らせるために堅三が手ぬぐいを取りに行った時、お前達に気づかれないかと内心冷や冷やしたぜ」


 西の座敷で蓮子が見つけた、土蔵から出る堅三の姿はきっとそれだったのだろう。あの時、すでに中には公彦がいて、その周りを村の人間が十重二重に取り囲んでいたのだ。

 俺は微苦笑して言った。


「たかが俺一人に、ずいぶんな手間だな」

「まあな。お前がこの村の全てだからな」


 そっけなく返事をした後、公彦も唇を笑いでゆがめる。


「お前が、じゃない。御当主様が、と言うべきかな」


 背中を向けて障子を開く。東の空が白々と明るく、深い藍色の空が見えた。もう夜明けが近いのだ。


「ここの見張りは外でする。しばらく二人きりにしてやる。存分に名残を惜しめ」


 俺はそっと手を伸ばし、蓮子の黒い頭を撫でた。絹のようななめらかな感触。左手の包帯が痛々しい。


「大先生に見せたと言ったな」


 最後につぶやくように尋ねる。出て行こうとした公彦はつまらなそうに振り向いた。


「ああ。お前の怪我は全治二ヶ月だそうだ。……そんなこと知ったって無駄だろうが」

「加世のことを何か言っていなかったか?」


 公彦は瞳を細めて答えた。


「いや。加世が帰っていないか、九十九にも連絡を入れたんだが、大先生も洋輔も何もわからないと言っていた。お前の手当てに来てもらった時も特には……」


 小さく鼻を鳴らして笑う。


「今の女に、母親に、昔の女も心配か。気の多い男だな」


 そのまま障子が閉じられる。俺は蓮子の髪を撫でながら、自分の腰にかけられている夏用の薄い布団を見た。蓮子の左手と同様に、俺の足も白い包帯が厳重に巻きつけられている。麻酔が切れてきたらしく、ゆっくりと、だが確実に痛みがもどりつつあった。


「……行ったの?」


 不意に小さな声が聞こえて、俺は飛び上がりそうになった。あわてて髪から手を離す。


「起きていたのか? 心臓に悪いやつだな」


 蓮子はゆっくりと顔を上げた。顔色が悪く、疲労の色が濃い。

 俺は言った。


「朝までまだ時間がある。俺がどくから、少しでも眠った方がいい」

「大丈夫よ」


 蓮子は答えた。静かな声だった。俺は奇妙に落ち着かず、すぐに次の言葉を続けた。


「手の怪我は大丈夫なのか?」


 蓮子はくすっと笑って見せた。左手を上げ、じっと眺める。


「五針縫ったわ。まだ麻酔が効いてるみたい。……私なんかより、貢生さんの方がひどい怪我じゃない」


 沈黙が落ちた。

 やたらと喉にからむ言葉を無理やり出そうとした瞬間、蓮子が真剣なまなざしで俺を見た。長いまつげをしばたたかせて、漆黒の瞳が悲しげにうるむ。血の気のない唇が動いた。


「……私、あなたが好きよ。貢生さん」


 俺は一瞬、息が止まった。体中に響き渡るような自分の心臓の音を聞く。

 蓮子は無理やりに笑ってみせた。


「今言っておかないと、何だか二度と言えない気がして。──私はあなたに会えてよかった。本当よ、貢生さん」


 濡れた瞳からあふれた涙が頬を伝ってこぼれ落ちる。


「あ……」


 俺は思わず口を開き、それを右手で強く押さえた。両の拳を握りしめる。


「……お、れは……」


──言えない。


 俺は奥歯を噛みしめた。

 言えない。今の自分には、蓮子に答える資格が無い。

 今この思いを口に出したら何もかもが壊れてしまう。過去の決意も計画も、血を吐くような忍従も。十年前、俺は心に決めた。何があってもこの呪われた村を滅ぼしてみせると。今この世に未練を残したら、俺は全てを捨てられなくなる。全てを捨てる覚悟が無ければこの計画は実行出来ない。

 蓮子は俺の表情に何かを悟ったのだろう、あふれた涙を乱暴にぬぐった。かすれ声で笑いながら言う。


「ごめん。ごめんね、迷惑よね、こんなの。こんな……私」


 だめだ。

 俺はついにこらえきれずに目の前の蓮子をかき抱いた。


「貢生さ──」


 強く。自分の感情のままに、ありったけの力を込めて、蓮子の体を抱きしめる。蓮子は黙ってただ俺の腕に体を任せていた。熱い涙がとめどなく、俺のシャツの胸元を濡らした。


「頼む。今は何も言わないでくれ」


 俺はあえぐように懇願した。


「もう少し……もう少しだけ待ってくれ。そうしたら……」


 そうしたら。

 俺は次の句を飲み込んだ。


──自分は蓮子がくれた思いに答えることが出来るのか?


 俺はただ息を殺して、自分の腕の中でしゃくり上げている蓮子の体を抱きしめた。今は答えることが出来ない。それだけは確かだった。


「……一つだけ聞いてもいい?」


 感情の波が収まった後、蓮子が子供のように尋ねた。俺は少しゆるめた腕で、自分の胸にかかる重みを噛みしめながら尋ね返した。


「何が聞きたい?」

「あの……」


 どこか恥ずかしそうな様子で蓮子が胸に顔をこすりつける。


「加世さんのこと、どう思ってるの?」


 俺は口元をほころばせた。


「昔のことだ」


 蓮子の髪に頬を寄せ、ささやくように言葉を続けた。


「多分、俺だけがあいつのことをわかってやれると思っていた。俺達はずっと一緒にいたから」


 俺は少し息をつき、二度と誤解を招かぬように言葉を整理して言った。


「自分に素直で、でも少しわがままで。後には引けない性格のせいか、よく後悔もしていた。本当に長いつき合いだったし、俺が助けてやれると──」


 言いかけて、ふと苦笑する。そして素直に俺は思っていたことを口にした。


「いや。……俺もあいつに助けてもらえると思っていたんだ」


 俺は思い出していた。公彦と加世と三人で遊んだ子供の頃の思い出を。素直に懐かしいと感じて微笑む。俺にも懐かしいと感じられる、心温まる思い出があったのだ。


「俺の気持ちは伝えてあったし、いつかわかってくれると思っていた。昔からあった縁談にも悪い顔をしていなかったから。ずっと一緒にいられると思っていた。本当に、好きだったよ」


 蓮子の前で、思いを素直に口に出せたことがうれしかった。


「好き……だった」


 蓮子の声の不思議そうな響き。俺は穏やかにうなずいた。


「ああ。でも、もういい。俺にも色々なことがあったんだ。あいつはあいつで、きっと加世なりにずいぶん苦しんだんだと思う。だから、もういい。……もういいんだ」


 俺は静かに言葉を終えた。あれはもう、自分の中から通り過ぎてしまった思い出だ。そのまま俺はつぶやいた。


「──死ぬ覚悟なんて決めるなよ」

「え?」


 蓮子が俺の顔を見上げる。俺はその目を覗き込んだ。


「『もう二度と言えない』なんて思うな。覚悟なんて決めるなよ。俺は必ず村を出る。生きて、逃げ延びてやる。だからお前もあきらめるな。俺と一緒にここを出るんだ」


 言葉を止めて横を向く。頬が紅潮しているのがわかった。まともに蓮子の顔を見られない。


「お前が加世を忘れさせたんだ。……最後まで責任を取れ」

「貢生さん……」


 涙の呼び声。

 本当に蓮子の身を案じるのであれば、何があっても自分は蓮子をここから逃がさなければならない。しかし彼女が望んでいるのはここですべてを見届けるということだ。今の俺に出来るのは、彼女がしたいということを黙って認めることだけだ。そしてそれは自分にとっても、一秒でも長く蓮子といたいと望む思いに一致する。

 俺は再び蓮子の背中を自分の腕に抱きしめた。蓮子も俺の胸にすがる。

 今だけは誤解も隔たりも、俺達を裂くことは出来なかった。

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