9.
「貢生さんっ──!!」
ただその場所に立ちつくし、涙で顔をぐしゃぐしゃにした蓮子の姿が目に映った。俺は立ち上がろうとして、右足に走った激痛に崩れるように前に倒れた。
辺りに響き渡る音とともに、土蔵が柱ごと崩れ落ちる。俺は一度だけ振り返り、その場に伏せた格好のままあえぐようにつぶやいた。
「……行くぞ。俺には、やることがある」
「だって、貢生さん、あし……!」
泣き声の蓮子に言われて俺は力なく笑った。右足の腿の後ろから、ふくらはぎにかけての皮膚が赤くずるむけになっている。どうやら焼けた梁が落ち、うつ伏せの右足に当たったらしい。
「お前こそ手は大丈夫なのか。馬鹿だな、痛いだろうに」
俺は自分のそばにしゃがんだ蓮子の小さな手を取った。血にまみれ、ぱっくりと傷口が開いた手のひらはいまだに出血を続けていた。
「馬鹿だな……」
俺はもう一度言った。これ以上なく優しい声で。
その時、聞きなれた、だが今もっとも聞きたくはない声がした。
「ここにいる! 早く捕らえろ!」
俺はふと顔を上げ、はかない笑いを唇に浮かべた。視界に入った人物につぶやく。
「まだ、お婆様、か……」
村人達を引き連れた小さな着物姿の老女。割烹着は身につけていない。またその表情は、慈愛に溢れるはつさんのものとは似ても似つかないものだった。
「お前か、火をつけたのは! 何という……何ということを──」
烈火のごとく怒り狂う顔。俺は思わず既視感にうめいた。
──そっくりだ。あの時に見た父親の表情に。
空を染めていた赤い色。激しい母への罵声。まだ子供だった俺の脳裏に焼き付けられてしまった情景。……気が遠くなる。
「貢生さん!」
あの時も、全てが赤かった。
蓮子のよく通る声を最後に、俺は意識を手放した。
*
両親が仲むつまじく自分のそばにいることは、一度もなかったように思う。
物心ついた頃から俺が心得ていたことは、興奮しやすい父を刺激しないよう、父の前では物静かな少年として過ごし、沈みがちな母を少しでも微笑ませるよう、母の前では闊達な子供を演じて見せることだった。
母は、俺が公彦や加世と子供らしく遊ぶことを喜んだ。公彦もそれを知っていて、引っ込み思案な加世を連れ、時たま俺の父親に激しい癇癪を起こされながらも、友達のいない俺のために屋敷まで遊びに来てくれた。父と祖母は身分の卑しい下の子──公彦達と医者である九十九の家系や菩提寺など、特別な家以外の者を二人はそう言ってさげすんだ。本家の屋敷が村でもっとも高い位置にあったからだ──などと遊ぶと染まるといったような理由で、また母は寂しさゆえに、俺を外に出したがらなかった。
父はよく癇癪を起こした。それは伝わらない母への愛情を表現する、最後の手段だったのだろう。父は母を愛していた。まだ幼かった俺にまで嫉妬の視線を向けるほど、自分がさらった哀れな虜囚である母を愛し、束縛していた。
母は猜疑心の塊である父の誤解を招かぬよう、ここに嫁いでからは一度も屋敷の外に出ることはなかった。幼かった俺と同じく、西浦においては母も屋敷が世界の全てだったのだ。
捕らえられた籠の鳥は暴君になつくことはなく、少しずつ衰弱していった。父は思い通りにならない母にますます苛立ちを深めていった。それは自分が愛するものを追い詰めているという自責の念で、その焦りゆえに思いの伝わらない母を責め、責められた母が父に対してさらに頑なになるという、全く出口のないものだった。
母はもし俺がいなければ、自ら死を選んでいただろう。
俺はよく覚えている。父に責め立てられた後、涙をこらえて俺を抱きしめ、母が漏らしてしまった言葉。
──さん!
それは、父ではない男の名だった。
運命の日、母を訪ねて二人の人間がやって来た時、母は泣いた。悲しみではない、喜びの涙だった。母は死んでもいいと言った。もう十分だと。生きて再びあなたに出会うことはないと思っていた。だから、もういいと。自分に思い残すことはないと。
かわいそうな母。
かわいそうな父。
二人は、最後まですれ違ったのだ。
*
俺はぼんやり目を開けた。天井を見上げ、どこかで見たような景色だと考える。
決して自分の部屋ではない、だが似たような造りの座敷。寝かされている上等の布団と天井を走る太い梁が、屋敷の大きさを思わせる。
──大叔父の屋敷だ。
わかったとたん、俺は起こった出来事を思い出し、右足が動かないことに気がついた。あわてて上体を起こしかけ、顔にかかる黒髪に気づく。俺が寝ていた枕元に突っ伏すように寝ている少女。その左手には真っ白い包帯が巻かれていた。
「……蓮子……?」
「『そばにいさせろ』と言われてね。えらい剣幕だったぜ」
笑みを含んだ聞き慣れた声に、俺は全身を緊張させた。
「オレが医者に見せると言っても、物凄い目で睨みつけられて……ま、信用されないのも無理はないが。九十九の大先生がお前の手当てをしてる間中、お前から片時も離れなかったぜ。手の怪我だってお前の治療が終わった後だと言いはって、先生に診てもらったらそのまま、気絶するみたいにここで眠り込んじまった」
縁側へ出る障子の脇に長身の影が立っていた。周囲を探ると、見覚えのある十二畳の客間だった。
「さすがにオレも驚いたぜ。逃げ出すために、自分で土蔵に火をつけるとはな。一応体は調べたはずだぞ、どうやって縄を切ったんだ?」
俺はただ無言だった。公彦は大げさに肩をすくめた。
「まだ四時だ。七時になったら準備を始める、格好だけは改めて長老方の前に出てくれ。足の怪我は気の毒だが、手当てはしたから一日くらい持つだろう。自分で辞退の申し開きをして、──その後は」
大きなため息を一つつく。
「二人揃って御神体への供物だな」
「蓮子だけは……というわけにはいかないんだろうな」
俺がぼそりとつぶやくと、公彦はその口元を結んだ。
「ああ。これだけ色々知られた上で東野へなんか帰せるか。死んだとなったらまた東野がごちゃごちゃ言って来るだろうが、あっちは蓉子の時と同じく、飴をしゃぶらせりゃ静かになるさ。東野にしたって蓉子、蓮子は、うちと繋がりを持つための道具みたいなもんだからな。……オレの女房になるんなら別だろうが、そんなもん、こっちから願い下げだね。他の男に惚れてる女なんて」
俺は公彦の顔を見た。公彦は眉尻を上げ、おどけた調子で言ってみせた。
「『貢生さん、貢生さん!』ってね。万が一お前が死にでもしたら、後を追いそうな勢いだったぜ。こいつはお前と加世とのことはちゃんとわかって言ってんのか? ……ま、お前もまんざらじゃなさそうだし、二人だったら水の底でもそう捨てたもんじゃないだろう」
俺はただ食い入るように、公彦のよく動く口を見ていた。そして小さくため息を落とす。
視線をそらして、自分の脇で眠っている蓮子の頭を見やった。
「母さんはどうした」
静かに公彦に問いかける。公彦は鼻を鳴らして言った。
「この期に及んで、まだ人の心配か? 堅三が面倒を見ている。どこだかは知らん。知る気もない」
木で鼻をくくったような答えだったが、俺は胸を撫で下ろした。堅三がついているのなら、しばらくは大丈夫だ。
「お前が黙って水底に沈めば、操さんの安全は保障する」
いつも口の軽い公彦がそこだけは言いづらそうだった。俺は低く尋ねた。
「母さんを見たのか」
公彦はふいと顔をそむけた。
「ああ」
「どうだった」
そう重ねて尋ねると、公彦は双眸を昏くまたたかせた。
「化け物だな」
俺は薄く笑った。
「……その通りだ」