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その村には人魚が沈んでいる  作者: 小波
第二章 祭り
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8.

 俺は小さく吐息を漏らした。


「おい」


 蓮子に再び声をかける。


「今、手は口まで届くのか?」

「え? ……ええ、多分」

「口の中に入れたものなら、自分の力で取り出せそうか?」

「え……?」


 返事を待たず俺は自身の胃の腑に力を入れた。腹の底から強くうめいて、無理やり嘔吐を催させる。


「ぐ……ッ」


 息を止め、思い切り腹に力を込める。奥に突き上げて来る嘔吐を捕らえて、一気に口腔へ戻した。自分の口の中に広がる苦く熱い臭気のかたまりに、固い二つの物体を感じる。俺はそれだけを残した後、再び酸味を飲み下した。


「何……!? 一体どうしたの? 大丈夫なの!?」


 俺の激しいえずきの音に、蓮子が声をかけて来る。


「大、丈夫、だ……」


 呼吸が詰まる。息が出来ない。こもった匂いと煙のせいもあり、俺は激しく咳き込んだ。口中に含んでいたものを危うく吐き出しそうになり、あわてて舌下へと押しやる。


「貢生さん!」


 切羽詰まった蓮子の声に、俺はあえぎながらも言った。


「いいか。できるだけ俺の方に体を寄せてじっとしてろ。今、俺の口の中に小さい刃先が入ってる。それをお前の口に移すから、それで縄を切るんだ。いいな」

「刃……? わかった」


 蓮子の多少落ち着いた様子に、俺はほっとして舌下を探った。大きい方を残して一つを再び胃の中へ収める。

 残ったものを舌で転がすと、それがカプセル状の物体であることを確認した。俺は歯と舌で慎重にその中身を取り出した。器を吐き捨て、薄い刃をそっと舌の上に乗せる。


「顔を向けろ」


 俺は舌を動かさないよう、蓮子に顔を寄せながら言った。立ち込める煙に加えてぱちぱちと炎のはぜる音まで聞こえる。


「こ……こう?」


 緊張した蓮子の声が、俺の顎のすぐ下で聞こえた。俺は探るようにしながら唇を声の方へ近づけた。鼻先が蓮子の髪に触れ、自然に吐息が漏れる。蓮子がびくりと体を反らした。


「逃げるな」


 俺はささやいた。自分の声がかすれている。再びそろそろと近づく髪に俺は優しく口づけた。

 甘い香り。頬に髪が触れ、つややかな質感を感じ取る。そのまま自身の唇をそっと下へとすべらせた。

 蓮子が息を止めるのがわかった。

 額、眉、頬をたどって、唇が柔らかいものに触れた。なぞって形を確かめると、まるで思いに答えるようにそっと蓮子が顎を突き上げた。

 俺達は深く唇を合わせた。

 蓮子の唇が開いた。その濡れた間を割って、細心の注意を払いながら俺は自分の舌を入れた。震える舌が俺を迎える。薄い物体を舌伝いに渡すと、ゆっくりと唇を離した。


「……早く。時間が無い」


 荒い息継ぎを繰り返し、俺は低く訴えた。


「お前が動けるようになれば、後は何とでもなる。落ち着いて切り続けろ」


 熱い。

 身動きの出来ない状態で、俺は陶酔を噛みしめていた。

 自分の中の細胞が激しく脈打っている。何も出来ない今だけは、通り過ぎた一瞬に酔わせて欲しい。

 横でごそごそと動く気配が少しずつ大きくなっていた。


「抜けた……!」


 蓮子の歓喜に答えたように熱い空気が背を打った。振り向くと、炎の赤い舌が塗り壁をちらちらと舐め上げている。

 俺は畳の上に光るものを認めて叫んだ。


「下だ、落とした刃が足元にある!」


 闇に慣れた目に火のせいもあり、周囲がぼんやりと見えてくる。縄から解かれた両手を使い、器用な手つきで胸の下の縄を切っていた蓮子が、炎に反射して存在を示すかみそりの刃に気がついた。


「待って、すぐに渡すから……これだけ……」


 言って、手を滑らせる。


「つう……ッ」

「大丈夫か!?」


 俺はあわててその手元を覗き込んだ。よくわからないが、深く切ったのだろう。ずいぶん出血しているようだ。


「大丈夫……」


 蓮子は言って、そのまま細かく小さな刃を動かし続けた。俺はもどかしさに唇を噛んだ。背後の熱は背を焦がし、格子が熱くなっていく。


「切れた!」


 蓮子は歓声を上げた。縄が畳にぱらりと落ちる。蓮子は足元のかみそりを拾い上げ、すぐに俺の縄を切り始めた。


「いいから、俺に渡せ! お前は出口を確保してくれ」


 目を見開いて俺を見上げる蓮子に厳しく指図する。


「奥の水道の脇に引き戸がある。小さい戸だから、茂みに隠れて外からは見えないはずだ。俺は無理だが、お前なら通れるだろう。早く行け」


 蓮子の表情が引き歪んだ。


「貢生さんは!」


 俺は思わず微笑んだ。


「安心しろ、俺もまだ死ぬ気はない。隣の土蔵にあるなたを取って来てくれ。見張りがいるかもしれないが、暗いし、茂みに隠れればそう簡単には見つからないだろう。頼む」


「わかったわ。すぐもどって来る!」


 蓮子は俺にかみそりを渡すと、飛ぶように座敷の奥へ走った。


「もし水道が使えるようなら水を流して行ってくれ!」


 自分をいましめる縄を切りながら、俺は消えた背中に怒鳴った。煙にむせび、後ろ手にかみそりで縄を切るじれったさに歯噛みする。

 こんな面倒なことをやり遂げたのか。しかもあんな小さな刃で。

 今や炎ははっきりと土蔵を覆いつくそうとしていた。格子に押しつけられた両腕が、ちりちりと焦げるように熱い。俺はむせ返る煙の中で、一つ一つの縄目を指で探りながら切り続けた。

 その時、弾けるような水音が座敷の奥から響いて来た。俺は命の元綱をしっかり掴んで笑みを浮かべた。見えない場所にいる相手に深い感謝の念を抱く。


──まだだ。まだ死ねない。俺にはまだ、やることがある。


 手首の縄がぷつりと切れた。俺は続けて腕の縄を切った。両手が使えるようになったため、今度は切れるのが早かった。最後は力任せに引きちぎり、縄から自らを解き放つ。

 煙にまかれた視界の隅で、大量の水がひたひたと床を侵食しているのが見えた。俺は這うように煙を避けると咳き込みながら水音へ向かった。

 座敷の隅に作られた清掃用の水道は、母が触れることのできないよう、一メートルほど間をあけて木製の柵で囲ってあった。その柵の中に茶室の出入り口を思わせる小さな引き戸があり、蓮子が出て行ったままになっている。昔、ここには鍵がかけられ、中の囚人に食事を渡す際に使われていたらしい。俺は自分の腰まである柵を乗り越えようとして、ぬるりとした感触に気がついた。

 血だ。

 手についた黒いものを認め、俺は奥歯を噛みしめた。

 あいつ……。

 縄を切った時の怪我が思いのほか深かったらしい。かなりの出血の量だった。

 柵を越えたと同時に土蔵の屋根の一部が崩れ落ちる。俺は熱風に叩きつけられ、水道の脇にうずくまった。あふれ出る水に頭から突っ込み、冷たさで落ち着きを取りもどす。


──大丈夫だ。あいつは必ずもどって来る。


 今や土蔵は音を立てて燃え、炎に全て飲み込まれようとしていた。

 長い年月、母や哀れな虜囚を閉じ込めて来た時代の檻。それに火がつき、次々と崩れる。俺は煙で息も出来ずに、赤い幻にも似た牢のはかない最後を見つめていた。


「貢生さん!」


 待ちわびていた声が響いた。火の粉を避けるために水に打たれながら、俺は背後の出入り口を振り返った。


「蓮子! 大丈夫か!?」

「熱くて近づけないの! 中に投げるから、脇にどいてて!」


 その言葉が終わるやいなや、使い込まれた鋭利な鉈が音を立てて飛び込んで来た。もし当たったら怪我では済まない勢いに、俺は思わず苦笑いをした。本当に、無茶苦茶なやつだ。

 俺は鉈を思い切り板戸の上部に叩きつけた。火の粉が髪に降りかかる。濡れていたはずの薄いシャツが、たちまち乾いて焼け焦げた。めりめりと音を立てて戸口が広がって行き、俺は自分の肩を通して抜けられることを確認した。


「早く、貢生さん! また屋根が崩れる!」


 ひどく焦った蓮子の声。俺は触ることも出来ないくらい熱くなった壁を抜け、両方の肩を突き出した。……もう少しだ。


「貢生さん!!」


 蓮子の絶叫。

 そして、轟音──次の瞬間、俺は伸びた右足に衝撃を受けた。一瞬全てが遠くなり、すぐに意識を取りもどす。


──死ねない、俺はまだ死ねない! こんなところで死んでたまるか!!


「貢生さん! こうせいさ……」


 蓮子が泣きじゃくっている。喉の奥からほとばしるような激しい咆哮を上げながら、俺は体ごと右足を引き抜き、土蔵の外に転がり出た。

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