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その村には人魚が沈んでいる  作者: 小波
第二章 祭り
20/37

4.

 何かを悟った表情を作り、しみじみとした声色で重ねる。


「あのねえ。もうずいぶん慣れたけど、やたらと思わせぶりなことを言ってからかう癖は止めたほうがいいわ。……何度もだまされる私も私だけど、誰にでもそんなことを繰り返してると、いつか信用されなくなるわよ」

「誰にでもってわけじゃないが……」


 言い聞かせるような蓮子の口調に、俺は苦笑した。


「わかった。心がける」


 もう一度だけ窓の向こうにさりげない視線を投げた後、俺は蓮子と肩を並べて母屋へ続く廊下を歩いた。


「はつさんって、いい人ね」


 唐突な蓮子の言葉に俺は目を丸くした。


「どうしたんだ? 急に」

「うん……。ちょっとね」


 ふと、沈黙が落ちた。何かをためらう気配の後、蓮子の方から俺にそっとその身を寄せて来る。


「前よりもっと気味が悪いの。もうすぐ、自分に嫌なことが降りかかって来る。さっきからそんな気がするの」


 俺は優しく手を伸ばし、柔らかく肩を抱き寄せた。蓮子が一瞬緊張した後、体をもたせかけて来る。

 廊下を歩くわずかな時間、二人は互いに寄り添って、臆病な小動物のようにぬくもりを感じ合っていた。


     *


「操さんは西浦の方ではございません」


 縁側から競い合うような蛙の鳴き声が聞こえて来る。


「操さんのご不幸は、他村の方でありながら、先代の御当主の強い思いを受けられたことから始まりました」


 はつさんはきっぱり言い切ると、そんな自分を恥じるかのようにほっと小さく息をついた。


「それは他村にお出かけになった孝一郎様──雪枝様の一人息子であり、貢生さんのお父様です──が、偶然出会った操さんに一目惚れなすったことがきっかけでした」


 我慢を知らない若い当主の気も狂わんばかりの恋わずらい。それが、この村の屋台骨を根底から揺るがしたのだ。


「孝一郎様はそれ以来、寝ても覚めても操さんのことが頭から離れずに、ついには思いの病から床についてしまうほどでした。『嫁取りは村の中から』というしきたりのせいもあり、それはそれは揉めましたけれども、ご容態には替えられません。結局は形だけ西浦の縁者に養子に入ったことにして、操さんはまだ十八という若さで本家に嫁いだのでした」


 俺は平静を装って、座敷から縁側の方へと半ば自分の体をはみ出させ、はつさんの言葉を耳にしていた。蓮子は俺の斜め前に座り、まるで身を乗り出すようにしてはつさんの話を聞いている。


 台所に近い北向きの、二間続きのこの座敷は、広い屋敷の中における使用人の居住区にあたった。昔、大勢の使用人を雇っていた時分の頃は、ここの二間を女中達の控えの間に使っていたらしい。厳格な主人の命令にいついかなる時でも対処出来るよう、何人もの女中がこの部屋に頻繁に出入りしていたようだ。しかしすでにその面影はなく、今ははつさんの使う小箪笥や、こまごまとした日用品が整頓されて置いてあった。

 今はまだ、特に変わった様子はない。珍しく割烹着を身につけていない、はつさんの小さな両肩が俺達に向けられている。伸びた背筋に、きちんと撫でつけられた白髪。柿色をした着物の襟は一分の隙もない。


「お二人は、すぐにこちらにいらっしゃる貢生さんに恵まれて、月日は過ぎて行きました。西浦の本家から分家を作り、すでに出ていた新宅の光義様との御縁も深く、特に公彦さんや加世さんは足しげくこちらに通われて、操さんにも懐かれておいででした。内情は波乱に満ちたものでも、日々の生活は営まれていたのです。……ですが」


 はつさんの声音が低く響いた。俺は緊張をはらんだ空気に両の拳を握りしめた。縁側の外に精神を集中する。


「ですが孝一郎様の、激情のままに妻としてしまった操さんへの熱い思いは、ひどく純粋であったがゆえに自責も心に食い込むものでした。心をさいなむ悔恨の思いは、愛する妻に対する優しさ、思いやりといった正しい形ではなくて、何の根拠もない猜疑心や、嫉妬心というゆがんだ形で表れました。──それは、操さんをよそ者と見て冷たく当たった使用人でさえ、思わず同情するほどのものでした。

 操さんは見る見るやせ細り、美貌は見る影もなくやつれました。それでも孝一郎様の激情は収まるところを知らず、お屋敷に住み込みで働いていた者や、出入りの者にもそのご不快がふりかかりました。一人、二人とこのお屋敷に赴くものが減り始め……いつしか本家のお屋敷は、訪れるものもめったにない、寂しいおうちになり果ててしまいました」


 淡々と語られる言葉。だがその中にどれほどの自制があるか、俺は知っていた。

 はつさんは一旦息をのみ、続きを口から繰り出した。


「孝一郎様に見初められるまで、操さんにはすでに思いをかわした方がいらっしゃいました」


 一言一言、次の言葉を選ぶようにして、悲劇の終わりをつづって行く。


「無論その方との仲は、操さんが西浦にお嫁入りして以来、全く途絶えたままとなっておりました。二世を誓った仲ですとかで、お嫁にいらっしゃった当時は毎日が泣き暮らすようで……それもまた、孝一郎様のお気に触ったのでしょうが……。ですから、それは全く絆の深さであるとしか言いようがないのですが」


 俺は振り向いた。盛大だった蛙の鳴き声が、唐突に止んだのである。だが、一声鳴いた一匹に、つられた多数がまた鳴き出した。


「それは今から十年前、あれは村おこしがどうの、温泉がどうのと村が騒いだ際の出来事でしたから、それくらいの時分になりましょうか。その日は孝一郎様は、光義様方──その際は、まだ助役様でいらっしゃいましたが──お偉い方々とご用事があってお出かけになりました。こちらのお屋敷には雪枝様と、数少ない使用人、そして離れには操さんと貢生さんが残っていらっしゃいました。

 離れでお休みのお二人のもとに、二人の男性が訪れました。一人は下働きの者が足りず、お屋敷で不自由していたために、その日から雇うことになっていた者でした。それは操さんの縁者のもので、本来西浦の人間ではありませんでした。が、西浦と一方ならぬ縁があり、また孝一郎様のお怒りを恐れて、西浦の村にはお屋敷に入るめぼしい者がいなくなってしまったため、雇い入れた者でした。

 そしてそれは本当に、どれほどの思いだったのでしょうか……その者のつき添いという形で、屋敷に足を踏み入れた方。──それが十二年前に引き裂かれた操さんの思い人だったのです」


 ついにはつさんが声をつまらせた。


「十二年、長い年月です。ですが、その方は操さんをずっと思っていらっしゃいました。何の望みもないままに、十二年間他村の当主の花嫁となってしまった操さんのことを。そして風の噂に聞いた哀れな操さんの境遇に、ついに耐えかねて身元を偽り、西浦まで会いにいらっしゃったのです。お二人は互いに再び生きて出会えたことを喜びました。やつれ果てた操さんが、こちらにお嫁に来てから初めて心から見せた喜びの表情……。それはもう、見ているものが涙を誘われるほどでした。──そして、あの全ての元凶となる出来事が起こってしまったのです」


 袖口で目頭を押さえ、嗚咽を抑えて語るはつさんの低い声。背後に神経を尖らせながらも、俺は胸に込み上げて来る熱いものを覚えていた。

 あの時、あの出来事がなければこんなことにはならなかったのだろうか。──いや、そうではないだろう。村の成り立ちに付随する特異や、過去の犠牲者による呪い。村がこの地に開かれて以来、起こるべくして起こった事だったのだ。


「お二人は貢生さんを連れ、そのまま西浦から逃げ出しました。人気(ひとけ)の薄いお屋敷から出て、本家の裏山の道をたどり、山裾の村へ下りようとしたのです。

 ですがやはり、そのような無謀な企みが成功しようはずはありませんでした。まもなく村へお帰りになった孝一郎様のお怒りは凄まじく、すぐに捜索の手の者をお出しになりました。小さな貢生さんを連れたお二人は無情な追っ手に追われ、ついに裏山で追い詰められました。そして……」


 夕日の中で行われた惨劇。

 男の怒号と女の絶叫、視界を切り裂いて落下する二つの影。──水音。

 あがくしぶき、声にならない声、おぞましい腐水の匂い、そして……。

 たまらずはつさんがすすり上げる。


「お帰りになった孝一郎様は、操さんがお亡くなりになったと──犯人は、自らの手で成敗したと……。それは結局、よそ者による貢生さんの誘拐事件として片付けられました。操さんは犯人を止めようとして殺され、犯人は孝一郎様にも危害を加えようとしたため、正当防衛といった形で孝一郎様が犯人を成敗したということになりました」


 はつさんのひそかな忍び泣きが、さざめくような蛙の鳴き声に重なった。


「そして孝一郎様は、操さんを亡くされたことがよほどお体にこたえたのでしょう。もともと病気がちでお体の弱い方でしたが、それ以来床につくことが多くなり……。翌年ついに、貢生さんを残してお亡くなりになりました」

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