2.
トラックを運転していた若い衆──二人とも公彦の同級生だ──が自分との挨拶を済ませ、日本酒の一升瓶を抱えて行くのを見届けた後、俺はやっと離れへもどった。蓮子を置き去りにしてからすでに二時間は経過している。
渡り廊下を過ぎる際、俺は窓から門を出て行く加世の後ろ姿を見た。影を背負った加世の背中を無言のままに見送って、知らぬ間にため息をついていた。
──絶望に落ち込むまで思った人間を、これほど冷たくあしらえるようになるとはな。
自分のあまりの変わりように、俺は思わず苦笑した。
まるで刷り込まれたかのように、俺達は互いに許嫁同士であることを意識して、相手の告白を待っていた。互いの心情を探り合い、疑心暗鬼にかられて破局した。
今にして思えば俺達の仲は、祖母や周囲の人間によってあおられた感が拭えない。
そこまで考え、俺は自身が破局の原因を周囲に求めようとしたことに気づいた。心底自分に嫌気がさす。全て自身が選んだことだ。他人に言われて、仕方なく加世を好きになったわけじゃない。
そこまで考え、俺は顔を上げて思った。
蓮子。
蓮子の場合もそうなのだろうか。先ほどの加世の場合のように、自分の気持ちも変わるのだろうか。
それなら……。
──たかがそれだけの思いだったら、俺に感情など持たせないでくれ。
しかし、俺は部屋の戸をまるで蹴破るようにして、すでに薄闇が忍び寄る離れの中へ飛び込んだ。
「蓮子!」
開け放たれたままの障子と、寝乱れた後のある空っぽの布団。
物悲しい蝉の鳴き声の中、蓮子の姿は見つからなかった。
溶けた氷が入ったグラスが文机の上にのっている。グラスの周りについた水滴が、机に水たまりを作っていた。……氷が溶けきっていないということは、つい先ほどまで蓮子はここにいたということだ。
俺は即座にきびすを返した。行き先は検討がついている。この時間なら、堅三が土蔵に入るのを止めているはずだ。
母屋にもどり、裏庭から直接土蔵へ向かう。外から様子をうかがって、誰も訪れていないことを確かめた。それから俺は迷わずに西の座敷へ足を向けた。蓮子は誰に出くわしているだろう。堅三に会うか、はつさんさんに会うか。ともすれば、お婆様に会っているのかもしれない。
だとすると。
『貢生さん、雪枝様が、操さんを蓮子さんに御紹介するようにとのことでした』
はつさんの言葉が脳裏に浮かんだ。
──お婆様のすることはわからない。今は堅三がついているから、俺がいないのにお婆様と蓮子を会わせることはないと思うが、まさか……?
もしや、ここで蓮子に全てを打ち明けることになるのだろうか。
長い廊下から一つ一つ、広い和室をのぞいて確かめる。──誰かいないか。蓮子は?
次の間で物音がした。
気づくと同時に俺は障子を開け放っていた。
蓮子だった。奥の丸窓から裏庭を眺めていたらしく、透かしの入った障子に手をかけ、びっくりした顔でこちらを見ている。
「何してるんだ!」
思わず怒鳴って踏み込むと、蓮子は一瞬身を縮ませた。が、すぐにその目をつり上げて形のよい唇をとがらせる。
「何言ってるのよ、何時間も放っといて。加世さんと痴話喧嘩したからって、私に八つ当たりしないでよ」
思ってもいなかった返答に、俺はまばたきを繰り返した。
「痴話喧嘩?」
「そうよ。離れの近くでしてたじゃない。あなた達の声で目が覚めたのよ、何を言ってるのかまでは聞こえなかったけど。でもあんなところで喧嘩なんてしてたら、嫌でも聞こえるに決まってるでしょ。それが嫌なら違う場所でやって、この込み入ってる時に」
頬をふくらませて文句を言う。緊張感のない蓮子の姿に俺は気が抜けるのを感じた。胸を包んだ不安は過ぎ去り、とりあえず蓮子をたしなめる。
「不審に思われるようなことはするなと、俺があれほど言っただろう。加世が帰ったらすぐもどるつもりだったんだ。どうして大人しく離れで待っていないんだ」
蓮子は軽く腕組みをすると、冷ややかなまなざしで俺を見た。
「いいじゃない、私が何をしてたって。あなたはあなたで好き勝手なことしてるんだから。──散々私を振り回しておいて自分は彼女と痴話喧嘩? 別にいいけど、巻き込まないで」
俺は目を丸くした。蓮子はなぜこんなに怒っているんだ。加世のことで?
「私のこと、加世さん誤解してるんでしょ? だったらちゃんと説明しなさいよ。私は形だけの婚約者で、本当は何の関わりもないんだって。せっかく彼女が来てくれたのに痴話喧嘩して追い返すなんて、最低の人間のやることよ」
息もつかせず非難する機関銃のような放言に、俺はあっけに取られて言った。
「……お前を離れに放って置いたことは謝る。だが、加世とのことは……」
「別に言い訳なんかしなくてもいいのよ」
俺の答えを一刀両断に切り捨てる。
俺は深々とため息をついた。どうして自分が加世とのことで、蓮子に悪く思われなければならないんだ? 俺は再び口を開いた。
「違う」
「何が違うのよ」
「いいから、聞け」
そっぽを向いている蓮子に、俺はかまわず言葉を続けた。
「確かに加世は俺の元婚約者だった。お婆様達や親族も、俺達が一緒になることを願ってた。なぜなら西浦の本家筋が、新宅と二つに分かれることを快く思っていなかったからな。……だが正式な婚約発表をする前、十八の成人の儀の時に、大叔父が満座の村の衆の前で九十九との婚約を告げたんだ」
蓮子が小さく眉をひそめる。俺は畳みかけるように言った。
「加世は本家を継ぐことよりも、九十九医院の若奥様におさまることを選んだんだ。……その後、すぐに加世は九十九の跡取り息子と結婚して、俺には大叔父が東野との縁組の話を持って来た。東野の話が出る前に俺達の仲は終わってたんだ」
俺は両手で蓮子の肩を掴んで引き寄せ、のぞき込むようにしてその顔を見た。蓮子が細い眉をしかめる。
「大叔父はすでに公彦とお前の姉の縁組を決めていた。加世の不実をわびながらも、いい機会だからと渋るお婆様を説き伏せて、まんまと西浦と東野の二つの縁組をものにしたんだ。大叔父は初めからそのつもりだった。──後で聞いたが、加世と九十九の仲を進めたのは、当の大叔父だったという話だ」
「痛い、離して……!」
うめくように蓮子に言われ、俺ははっと手の力を弱めた。蓮子はわずかな隙をつき、俺の両腕を振り払った。俺との距離を十分に置いて、まるで挑むような目でにらみつける。
「大体のことはわかったわ。──それで? 加世さんの婚約がなかったら、私のことなんて初めから問題外だったって言いたいの?」
俺は狼狽した。自分がさらに誤解を招く表現をしたことに気づく。
「違う、俺は……」
違う。
自分はもう、加世とのことは何とも思ってはいないのだ。何とも思っていない──そう言い切れば嘘になる。だが、もうそれは昔のことだ。昔のことだと考えられるようになった。それは……。
「蓮子……」
喉に何かがからんだように、出づらい声を蓮子に向ける。
「俺は……」
自分でもわかる、熱を帯びた声。表情に何を読み取ったのか、蓮子が俺の顔を見た。
「何……? 貢生さ……」
その時。
かすかだが聞き覚えのある声がして、二人の間に下りつつあった淡い空気は四散した。蓮子は俺から身をかわし、丸窓から外を見た。
「これ、操さんの……!」
獣のようなうめき声。だが、それはすぐに風に流されたように消えてしまった。裏庭に続く小道を示して、蓮子はけげんそうに伝えた。
「堅三さんが土蔵から帰って来るわ。何かあったのかしら」
俺はほっとため息を漏らした。
「……多分、夕食の時間だろう。土蔵の開け閉めの際、少し音が漏れることがある」
俺はやるせない思いをこらえた。
今、蓮子への思いのたけを感情のままに打ち明けずに済んで、きっとよかったのだろう。
だが。やはりこの気持ちは、口に出せないまま終わるのか。




