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その村には人魚が沈んでいる  作者: 小波
第二章 祭り
17/37

1.

 夕立が去った後の風に乗り、大太鼓を打ち鳴らす音が離れの部屋まで届いて来る。

 前夜祭の大太鼓は、西浦にいる子供達の数少ない楽しみの一つである。これから祭りが始まることを村の人間に知らせるために、若い衆がトラックの荷台に大太鼓と子供達を乗せ、一軒一軒の家を回ってにぎやかに太鼓を響かせる。


「何だって?」


 俺はうつむくはつさんの言葉を思わず聞き返した。はつさんのつむじがゆらゆらと、落ちつかなげに動いて見える。


「ですから……加世さんが、先ほど……」


 蓮子を連れて離れの自室にもどった俺を待っていたのは、ここ数年は俺にも屋敷にも見向きもしなかった、加世の来訪の知らせだった。


「私もびっくりいたしまして……。何せ、そんなお話は全くうかがっておりませんでしたから」


 あの激しい土砂降りの中、わざわざ尋ねて来たらしい。俺は掃き出しの窓から覗く母屋の一角を見やった。


「わかりました。支度を済ませ次第、すぐに行くと伝えて下さい」


 俺の言葉にあたふたと廊下をもどる背を見届ける。その場で深くため息をついた。


──なぜ。今さら一体何の用がある?


 昨日顔を合わせた際の、あの美しくもあやしい微笑みを思い出す。

 俺は蓮子が床についている奥の座敷に目をやった。続けざまに受けた衝撃に、蓮子は土蔵で嘔吐した後そのまま意識を失ってしまった。離れへ運ぶ間も一度もまぶたを開くことはなく、今は寝かせた布団の上でこんこんと眠り続けている。

 今、この状態の蓮子を一人にしておきたくはなかったが、顔を出さないわけにもいかない。仕方なく汚れたシャツを新しいものと取り替えて、すでにはつさんのもてなしを受けていた加世と対面することになった。

 俺が床の間へ足を踏み入れると、一人で庭を眺めている加世の涼やかな姿があった。

 床前に腰を落ち着けて、はつさんの出した茶と干菓子には全く手をつけた様子がない。長い巻き毛を優美に揺らし、品の良い麻のスーツを着た加世は、俺の顔を見てうれしそうに笑った。


「ごめんなさい。連絡もせずにお邪魔して」


 その笑顔を俺は冷ややかに見つめた。自室の離れにほど近い、中庭へ出ることを提案する。蓮子の様子も気にはなったし、何より座敷に座り込み、長く話す気になれなかったのだ。

 土砂降りの雨で洗ったような午後のさわやかな夏空は、高くせり上げた山間から夕暮れの色を覗かせていた。加世は小道に先に立つと、太鼓の響きに聞き入った。昔を思い返すようにつぶやく。


「私達も兄さんに教えてもらって叩いたわね」


 俺は見慣れた栗色の巻き毛と、折れそうに細い後ろ姿を眺めた。時折離れに目を向けて、変わった様子がないかうかがう。


「並んで順番にって言われても、みんな長く叩きたいものだから、なかなか次の子に回せなくて。恥ずかしくて列に並べない私に、あなたは自分の番になると順番を代わってくれたわね」


 ゆっくりとその歩みを進め、加世は言葉を選ぶように続けた。


「あなたが好きだと言ってくれたから、私は自分に自信が持てた。結局はあんなことになってしまったけれど……。私も、本当にあなたのことが好きだった」


 遅すぎる加世の告白に、俺は冷たく突き放した。


「わざわざ昔話をするためにここまで来たわけじゃないだろう」


 加世はその口元に寂しげな笑みを浮かべた。


「そうね。……兄さんに言われたの。久しぶりに帰って来たのだから、大伯母様にも挨拶して来いって」

「それなら俺を待たずとも、はつさんに言えばいいだけの話だ」


 あくまでもそっけない俺の返事に、加世は固い表情を作った。その顔に、俺はふっとあわれみの思いを取りもどした。

 過去に起こった事柄も、加世は決して初めから自分を傷つける気はなかったのだ。しかし、もう今はそれもいい。もう彼女に関わりたくはなかった。


「はつさんにはもう伝えたわ。大伯母様に会うついでに、式の準備が整っているかあなたの様子を見て来いと……そうお父様が」


 言い訳がましい加世の言い方に、俺はついに声を荒げた。


「『お父様』に『兄さん』か。お前はいつでもそうだった。二人の名前を隠れみのにして、お前の都合のいいように使って……。今さら新宅がどう思おうが、俺はやりたいようにやる。もうこれ以上、そっちに何かを言われるような筋合いはない」


 あっけにとられたような表情で、加世はその場に立ち尽くした。当然だろう、と俺は思った。今まで自分は彼女の前で激昂することなどなかったのだから。


「すまない」


 一息ついて、しぼり出すような形で再び口を開く。


「明日が本祭だ。気が立っているんだ、気にするな」

「そう」


 加世はそれだけつぶやくと、まつげを伏せて視線を足元の飛び石に移した。加世の黒く小さな影が濡れた地面に落ちている。頬にかかったゆるやかな巻き毛をとがり気味の耳にかけ、加世はもう一度俺を見た。


「蓮子さんを好きになれそう?」


 俺の口元を苦笑がかすめた。加世が怪訝そうな顔をする。


「大切にしようとは思っている」


 苦渋に満ちた声を作ると、加世の表情が一瞬輝いたように見えた。気のせいだろうか。今の俺の目の前には、ただ沈痛な面持ちの加世がいるのみである。


「そう。大切にしてあげてね。──蓉子さんのようなことがないように」

「……」


 言葉をのみ込み、俺はうなずいた。今は自分の真の思いを伝えずにいるだけで十分だった。

 遠くに聞こえた太鼓の響きが次第に大きくなって来る。どうやら佳境に近づいたようだ。太鼓のしめは本家の庭で行うことになっている。子供は村中を練り歩いた後、最後に本家で太鼓を叩き、褒美の大きな菓子袋をそれぞれもらって帰るのだ。菓子ははつさんが用意してくれたが、俺も一応顔を出し、一言二言言わなければならない。

 その時、加世はふと思い出したように俺の顔を見て聞いた。


「あなたはいつか話したことを、もう実行するつもりはないの」


 俺は思わず苦笑いした。加世の中にある優先順位を垣間見たような気がしたからだ。

 話のついでに、加世はこの話題を持ち出すのか。ふと。思い出したように。

 自分があの時、彼女だけに打ち明けたこの計画を。

 俺は左右に首を振った。


「……できない。やっぱり俺にはできない」

「そう」


 加世はほっとため息をついた。


「そうよ。やっぱり怖い。できないわ。あなたと同じ、私もそうだったのよ。あなたとならって、一度は決心したけれど、怖くて……だから……」


 俺は唇の端で再び笑いを形作った。だから、加世は出て行ったのだ。この西浦への思いではなく、根底にある恐怖でもなく。今、自分が持っている物を失わずにすむために。


「もういい。……もうわかった。お婆様に会うんだろう、そろそろ行った方がいい。俺ももう、他に用事がある。大叔父に伝えてくれ、気を使わせて申し訳ないと」


 俺は事務的にそう言い捨てると、きびすを返して離れに向かった。だが。

 疲れたような加世の声が、行きかけた俺の足を止めた。


「大先生に言われたの。──私は子供を産めない体なんですって」


 俺は肩越しに加世を振り返り、人形のような顔を凝視した。


「……何だって?」


 つやのある薄い唇が、俺の問いかけにゆっくり動いた。


「昔から生理が不順で、よく体調を崩していたでしょう? 結婚して三年も経つのに赤ちゃんができる様子がないから、気休めのつもりで見ていただいたの。それが」


 俺はぼんやりと、加世の唇を眺めていた。

 加世には子供が産めなかった。

 それは加世にも、西浦の血筋にとっても恐ろしい事実だ。


「洋輔さんは……公彦は知っているのか?」


 俺のあからさまにこわばった声音に、加世は首を左右に振った。


「まだ、誰にも。大先生には、私から言うって……洋輔さんにも」


 加世の夫の人の良い顔が俺の脳裏に浮かび上がった。俺は加世に詰め寄った。


「どうして先に俺に言う!? 話す相手を間違うな! もう、お前とは何の関わりもないんだぞ!?」

「何の関わりもないなんて……あなたがそんな」


 ──もうたくさんだ。こんな思いは。


 俺は加世に背を向けた。


「帰れ」

「俺さ……」

「帰れ! 先に洋輔さんと公彦に相談するんだな。俺への連絡は公彦にさせろ。そうでなければ取り合わない。帰れ。話はそれからだ!」

「待って、俺さん!!」


 追いすがるように自分の名を呼ぶ加世をその場に残したまま、俺は早足に母屋へ向かった。門前で響く太鼓の音に、子供達の騒ぎ立てる声。うるさい。

 もう、何も聞きたくはなかった。

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