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その村には人魚が沈んでいる  作者: 小波
第一章 生け贄の花嫁
16/37

15.※

 口に出されてしまったことで、俺はいくらか気が楽になった。


「彼女は手足が不自由で、食事や身の回りの世話は主に堅三が行っている。亡くなったことになっているため、医者にも病院にも診せられない。彼女がまだ生きていることを屋敷の人間以外は知らない」


 俺は目を伏せた。


「本当は、俺は彼女のことをお前に知らせるつもりはなかった。彼女は西浦の村の恥だ。彼女の話は、この西浦では口にも出せない事柄だ」


 蓮子はその目を考え深げに光らせた。


「でも、あなたのお婆様は言ったわ。いけないことだなんて口に出さずに、操さんに会ってくれって。操さんが誰なのか、一体何者なのかって私が尋ねたら、お婆様はあなたが話すって。あなたが全て知っているから、あとはあなたに聞けばいいって。……あなたは聞いてなかったの?」


 俺はゆっくり首を振った。もうこれ以上、蓮子には何も知らせたくなかった。しかし、重苦しい沈黙が無理やり言葉を押し出した。


「あの人のことは……」


 再び口ごもる。


「俺にはよくわからない。本当は何がしたいのか」


 俺はそれきり口を閉ざした。俺の沈んだ雰囲気に、蓮子も何かを感じ取ったのか問い詰めることはしなかった。


「どこまで行くの」


 蓮子がぽつりとつぶやいた。


「もうすぐだ」


 俺は答えた。

 薄闇の中、廊下の突き当りが見えた。蓮子の指先がびくりと震えた。頑丈な板戸で閉ざされた、土蔵へと続く渡り廊下の前に立つ。

 ガラス戸で部屋と仕切られている東の渡り廊下とは異なり、西の廊下は重たい引き戸できっちり母屋と区切られていて、行き来が容易でないようになっている。鉄の錠前がかかった板戸は、時代と疑惑を感じさせた。


「ここからはめったに出入りしない。大抵いったん裏庭に出た後、土蔵の正面から入る」

「どうして今日はここから行くの?」


 至極当然の蓮子の問いかけ。だがその声は小さくて、蓮子自身も問いの答えをあまり期待していないようだった。


「正面からの戸の鍵はいつも堅三が持っている。そこから入るためには堅三に鍵を借りなければならない」


 そっと蓮子の手を離す。


「それに──」


 分厚い板戸に手をかける。


「正面からだとずいぶん騒ぐ。ここからならすぐに気づかれず、お前も近くまで行けるだろう。……あまり興奮させたくない」


 俺は渾身の力を込めて、重い引き戸を両手で開いた。

 聞こえる。細く甲高い、まるで歌うような泣き声が。


「な……」

「静かに」


 蓮子の言葉を制止して、自らが開けた扉へと踏み込む。 

 歌が聞こえる。何の救いもない歌が。

 廊下の屋根を叩いている激しい雨音に混じって、笑うような泣くような、物悲しい歌が聞こえて来る。厚い板張りの壁で覆われた暗い廊下を歩いていると、すぐに異臭が鼻をついた。直接鼻の粘膜に染みるような異様な匂いに、背後の蓮子が息を殺している。


「もしどうしても耐えられなくなったら逃げてもいいが、音をたてるな。驚かせると後が面倒だ。俺でも手がつけられなくなる」

「手が……つけられない?」


 心細そうなつぶやき。露骨におびえた気配を感じ、俺は彼女を強く抱きしめ、安心を与えてやりたくなった。


「大丈夫だ。……俺がいる」


 不安を絵に描いたような表情に、俺は微笑んで見せた。


「向かって来るのは俺の方だ。ただ騒ぐだけで、知らないお前にはきっと寄って来ないだろう。臆病だからな」


 異臭は更に強くなり、嗅覚を刺すように刺激した。近づく歌に耐え切れず、早く済ませてしまいたいがために俺は足早に廊下を進んだ。

 入った時の戸よりも厚い、頑丈な板戸が立ちはだかった。俺は出来るだけゆっくりと、静かにその扉を開いた。

 暗い。

 ぷん、と今まで嗅いでいた異臭が俺達を襲った。そして、獣の鳴き声のようにおうおうと腹に響いて来る、しゃがれた低いうなり声。


「何……」

「しっ」


 声を上げかけた蓮子を制す。胸苦しいほどの問いかけが喉をしめ上げているのだろう。蓮子が息を吸い上げる引きつった呼吸音が聞こえて来る。

 抑揚のある泣き声に重なり、ずっ、ずっ、と何かを引きずるような音が、否応なく耳に忍び込んで来た。

 部屋の暗さに目が慣れたのか、背後の蓮子が息を飲んだ。

 そこは広い土間だった。畳を縦に三畳ほど並べた土間が前にあり、右には漆喰のはげた壁が見える。それはかろうじて白く見え──薄暗い土蔵の中で見たためかもしれないが──ぼんやりと発光しているように思えた。

 そして。


「これ……」


 震えるかすれ声が聞こえた。


「座敷牢……?」


 漆喰の壁の反対側には、格子状に組み合わされた木材がはめ込まれていた。

 音はその中からしていた。何の救いもない歌と、何かを引きずっているような床から伝わる鈍い音。

 俺は扉の内側に入った。土間に下り、背後で震える蓮子のおびえきった顔を見やる。


「さあ」


 言うと俺は手をのべて、蓮子の力ない腕を取った。

 一歩、また一歩と檻へと足を進めるたびに、異様な匂いが蒸れた空気とともに嗅覚を襲って来る。組まれた縦木と横木の間に、へりがはがれた畳が見えた。悪臭は牢内に敷かれたその畳からのものだった。

 二人は牢の前に立った。影が支配する檻の奥──明るい光に呪われた場所で、何者かがうごめいている。


「母さん」


 俺は低く彼女を呼んだ。


「僕ですよ。──貢生です」


 それは、ゆっくりとこちらを向いたようだった。

 ずっ……、ずっ……、と、耳についていた音がした。


「ひ……」


 蓮子が悲鳴を噛み殺す。ゆっくり、ゆっくりとこちらに近づいて来るもの。

 一番初めに見えたのは、腹這いであるということだった。畳に深く爪を立て、腕の力だけで寄って来る。そして、次第にざんばら髪の女の上半身であると理解ができるようになり──垢に固まった長い髪、形ばかりにまとった浴衣が薄ぼんやりと目に入る──そして。

 引きずるすそには、足がなかった。

 俺は蓮子の手を離した。檻に手をつき、中の人物に優しくささやきかける。


「母さん。今日は、僕の許嫁を連れて来ました」


 彼女は格子に手をかけた。垢がひび割れた黒い爪。


「あ……あ……あ……」


 蓮子が後ろでかすれた声の響きを漏らす。その呼吸が速くなり、切羽詰った悲鳴のような音が喉から放たれる。


「あ……!」


 固まりになった髪を振り乱し、彼女はゆっくりと顔を上げた。

 その、顔は──。

 その時、すさまじい絶叫が檻の中から響き渡った。


「があああああああ!!」


 体中から訴える叫び。格子を両手で握りしめ、尋常でない強さで檻に体ごとぶつかるようにして、腹からわめき声を撒き散らす。

 二目と見られない顔というのは、きっとこのことに違いない。

 彼女の顔には、顎がなかった。

 いや、無いと言い切ってしまうのは不適切であるかもしれない。彼女の顔の下半分は、下唇から顎にかけてがまるで千切られたようになっていた。裂けた痕らしい傷を残して歯茎がむき出しになっている。そして喉から胸にかけ、かきむしったようなすさまじい傷がめったやたらについていた。

 村をあれだけ騒がせた、憂いを帯びた美貌の面影。それは目の下にある大きなほくろ、もうそれだけしか見あたらなかった。胸を悪くする異臭の原因は、汚物と垢と、それが長年こすりつけられた畳自体も一因となっているようだった。


「こ……貢生さん……!」


 震える声で蓮子がつぶやく。


「……これでも」


 俺はうつむいた。


「これでも俺がいる時は、三日に一度は体を拭けた。堅三と二人で畳を換えることも出来た。俺がこの村を出てからは……堅三もなつかない相手に、よく辛抱してくれたと思うが……俺以外の相手には誰にも体を触れさせない。帰省して俺が顔を出すと、ひどく興奮して体を洗うどころではなくなって……。とうとう手がつけられなくなった」


 俺は檻の中にいる母親の姿を見つめたままで、低く蓮子に問いかけた。


「お前はこれでも知りたいか? これがこの村に関わった、他村の人間の成れの果てでも」


 俺はその場に膝をついた。彼女の乱れた髪からのぞくわずかに細められた瞳だけが、笑っていることを意味している。


「ああー……」


 母親はただ、俺を見ていた。彼女の手が伸び、木の格子越しに俺を掴んで引き寄せる。彼女の動きの一つ一つが刺すような異臭を撒き散らした。ひねり上げるように腕を掴まれ、俺はわずかに眉をしかめた。

 彼女は歓喜に満ちた瞳で、両手を伸ばしてしがみついて来た。俺は黙って腕を出し、汚臭を放つ彼女の肩を固い枠越しに抱いてやった。垢にまみれた浴衣の背をなで、静かな声でささやきかける。


「母さん。もうすぐですよ。……もうすぐ僕が楽にしてあげます」


 後ろで蓮子が哀れにも土間に吐き戻す音がした。

次回から章が変わります。

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