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その村には人魚が沈んでいる  作者: 小波
第一章 生け贄の花嫁
15/37

14.

 にわかにかき曇る空模様に、そろそろかと思っていた雨が降り出した。縁側から雨戸越しに見える庭に雨粒の黒い点が落ち、見る見るうちに白い地面を湿った色へと染め上げる。


「あれは……あれはいったい何なの?」


 どこかうつろな響きの声にのろのろと俺は振り向いた。


「あまりしゃべるな。気づかれる」

「だって──」


 蓮子が再び言いかけて、雨戸の鳴る音に肩を震わせる。それが風の仕業だと分かると、蓮子は体の力を抜いた。夕立前の不穏な空が屋敷の妖気をあおり立て、廊下の隅から今にも何かがひょっこりと顔を出しそうな、そんなまがまがしい気配に満ちている。

 放心状態の蓮子を連れて屋敷にたどり着いた俺は、有無を言わせず、そのまま西の座敷へと向かった。蓮子はそれまで一言もしゃべらず、さすがに悄然とした雰囲気で俺の後について来た。


「降って来たな」


 石をまくような雨音を聞きながら、俺は再び庭を見た。戸を開け放した縁側に湿った匂いが忍び込む。

 祖母のいる間に繋がる廊下は暗く、そして果てしない。ちっぽけな俺達の存在も恐怖ごとのみ込むようだった。


「だって……あんな……」


 やっと出すことのできた言葉を、蓮子が持て余すようにしてつぶやく。俺は静かな声で答えた。


「だから、先に言っただろう。はるか昔からこの西浦がずっと祭って来たものだ、と。……毎年祭りの前の日に、ああやって生餌を捧げることになっている」


 俺はふと立ち止まった。続く廊下は薄闇が支配し、害意を持った何者かがあざ笑うような不快を誘う。


「俺にも何だかはわからない。だが、少なくともあれは俺が生まれる前から、ずっとあの池に存在している」


 白い顔。

 一瞬、はっきりとその目に映ったおぞましい物を思い出す。

 しぶきを通して確認出来たのは、広い額から顎にかけ、銀白色にぬめぬめと光る仮面のような顔だった。それはしわ一つなくのっぺりとしていて、鼻の凹凸が極端に少ない。まぶたのない目は魚のように何の意思もなく見開かれ、表情などという人間的なものは剥ぎ取られたかのようにない。

 そして何より恐ろしいのは、瞬間的に開いた口だった。魚の口に酷似したふち取りのある唇の中に、びっしりと植え込まれた鋭い歯。獲物を捕らえ、喰らいつき、絶望的な速さで水底に引きずり込む、機械的とも言える正確さ。

 吐き気を催す情景を頭の中から振り払い、俺は力を込めて続けた。


「お前は俺に知りたいと言った。この村で一体何があったのか。姉がどんな目に会ったのか、それがわかるなら何が起こってもかまわない、と」

「──ええ」


 低いいらえに、あえて強く問う。


「俺はお前を『操』に会わせる。それは多分、死んだ姉に通ずる姿だと思う。きっとお前の想像を絶する。これでも、まだ帰る気はないのか。あの化け物を見た後で、これからそれ以上のものを見せると言っても?」


 千の言葉を語るより、事実をその目で確認させよう。それがもっとも正確で、蓮子に対して誠実だ。……昨夜一晩眠れないまま俺は考え、結論を出したのだ。

 そうすれば。

 威圧する口調とは裏腹に、俺は祈るように考えていた。

 まだ間に合うかもしれない。あれで恐怖してくれるなら。今ならば、まだあれを見てしまったという本当の意味を知られずに、東野に返すことが出来る。

 こうなったら、一刻も早く自分のそばから離れて欲しい。

 俺は怖かったのだ。今さら軽蔑や憎悪といった、負の感情を持った瞳で蓮子に見られるのが怖いのではなく、蓮子を巻き込むことを恐れるがゆえに、今まで自分が積み上げて来た十年来の計画の通りに行動出来なくなるのが怖い。

 もし東野にもどれないのなら、後二日、西浦以外のどこかに隠れていてくれれば。

 後二日。


「そんな言葉で私が黙って東野にもどるとでも思ってるの?」


 思いを読まれたような返事に、俺はぎくりとして蓮子を見た。変わらない意思を示すかのごとく、その引き締まった口元は固く結ばれている。


「何度あなたに言えばわかるの。私の考えは変わらない。私は全部知りたいの、この村で何があったのか」


 激しく言い切った後、おもはゆそうにうつむいて続ける。


「そりゃ、もちろん怖いわよ。本当は今すぐにでも──こんなこと、言いたくないけど……何もかもを投げ捨てて、ここから逃げ出してしまいたい。でも絶対に後悔するから。自分が今出来ることをきちんとやっておかなければ、いつか絶対に後悔する。そう思うの」


 顔を上げる。黒曜石を思わせる瞳が輝きとともに向けられた。


「ありがとう」


 思いもよらなかった言葉が形のよい唇からこぼれる。

 俺は思わず動揺し、何度もまばたきを繰り返した。


「どうして……」


 俺が尋ねると、蓮子は静かな口調で答えた。


「私を心配してくれたから。……きっと、このままここに残れば私は危ない目に会うんでしょう。でも、それ以上にあなたに迷惑をかけることになるんでしょう? あなたはそのことについて何も言わない。なぜだかはよくわからないけど、私ができるだけ傷つかないよう、あなたは色々と考えてくれてる。だから」


 照れくさそうに笑って続ける。


「ありがとう。──あなたに会えてよかった」


 俺は蓮子を眺めていた。眺めることで穴が開くのなら、蓮子の微笑んだ顔の真ん中に大きな穴が開いていただろう。そして、小さくため息をついた。

 自分の負けだ。

 はっきりとそれを認めると、妙にすがすがしいあきらめが俺の胸中を吹き抜けた。

 きっと自分は彼女には逆らうことが出来ないだろう。ともすれば、それはやるべき事柄を蓮子に阻まれることを意味する。

 だがもうそれは考えまい。もしもその時が来たのなら、それはその時に考えよう。


「行くぞ」

 

 俺は再び声をかけた。蓮子だけでなく、自分自身の心にも向かって。蓮子は黙ってうなずいた。


     *


 例のごとく、行けども行けども障子で整然と仕切られた部屋。祖母の座敷に近づくほどに屋敷の空気は重くなり、まとわりついてくるようだった。

 思いついたように蓮子が言った。


「あなたさっき、私に気づかれるって言ったわよね。一体何に?」


 俺は答えた。


「化け物さ」


 戦慄を思わせる沈黙の後、蓮子の顔色は青ざめていた。気丈な言葉とは裏腹に、さすがに先の情景は少女の身にはこたえたらしい。俺は苦笑して言葉を継いだ。


「お前に危害は与えない。それは心配しなくてもいい。……と言っても、あまりなぐさめにならないか」


 俺はその腕を伸ばし、蓮子の右手にそっと触れた。目を丸くしている蓮子に笑う。


「安心しろ。俺も怖いんだ」


 蓮子の小さな手を握る。蓮子は俺の顔を見て、だが、何も言わずに手を握り返した。

 廊下の奥が見えて来た。今まで以上に湿った空気がどんよりと漂っている。祖母の座敷は広い屋敷の西の片翼にあたっていた。長い長い廊下を渡って、祖母の座敷の手前で折れる。そこには暗い廊下があった。

 廊下に足を踏み入れると、蓮子がぽつりとつぶやいた。


「前にここから帰った時、堅三さんがこの廊下にいたの」


 俺はあいまいな笑みを浮かべた。蓮子は物思いに沈むように、考えながら言葉を続けた。


「遠かったから、私がいるのに気づかなかったみたいだけど……。昨日、操さんに会いに行こうとしてあなたに止められたでしょう?」 

「ああ」

「操さんに会おうとした時、どこにいるのかは私にもよくわからなかったんだけど。ふっと堅三さんのことを思い出して。もしかしてこの辺なのかな、と思って……」


 俺の手を握る蓮子の指に力が入る。


「操さんはここにいるの?」


 平屋作りの屋敷の両翼には、それぞれ渡り廊下がついている。東の座敷は俺のいる離れへとつながっていて、西の座敷は母屋の裏の古びた土蔵とつながっていた。

 俺は重い口を開いた。


「この屋敷の裏庭には、木小屋と風呂場の西側に、古い土蔵が二つある」


 蓮子の黒く光る瞳に、興味深げな色がまたたいた。


「一つには農作業で使う道具や、特別な席で使うための揃いの食器がしまい込まれている。お披露目の席でも出されたものだ、お前も覚えているだろう。……もう一つが」

「操さんのいる場所なのね」


 言いづらかった言葉をまるで代弁するように蓮子が答えた。

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