13.
道が分かれた。
まっすぐ続く左の道は、今まで進んで来た道幅をかろうじて保ってはいるが、右の険しい細道は坂を切り開いて下り、そのまま藪へと消え失せてしまう。どう見ても獣道である。
この裏山は本家の土地で、許された者以外は立ち入りを禁止されている。山に繋がる道でさえ、ごくまれに野良着姿の村人が山菜取りに出かけるくらいで、めったに歩く者もない。ましてここから先の道など──そう、この村の人間ならば決して足を踏み入れまい。
汗を手の甲で拭いつつ、蓮子は険悪な調子で言った。
「本当にこっちに行くの? 道に迷わないでしょうね」
蓮子の文句を聞き流し、俺は熊笹の中に踏み込んだ。俺の胸まですっぽり埋まる藪の高さに蓮子がぼやく。
「あなたは通れるでしょうけど、私は中にもぐっちゃうわよ」
「大丈夫だ。俺が子供の頃も通れた」
「子供って……。私を子供と一緒にしないでよ」
不満を含んだ言葉に振り向き、俺は静かな口調で告げた。
「全てを知りたいんだろう? お前の姉を追い詰めた相手に会いたくないのか」
蓮子はぴたりと口を閉じた。それを見届け、俺は再び笹薮の中を歩き出した。
今までの速度をゆるめずに、ただ藪をかき分けて進む。がさがさと鳴る笹の音が大げさに後ろでも響き、俺は蓮子がついて来ることを耳で確認しながら急いだ。
茂みの先の木立を見つめて俺は目印の赤松を探した。枯れかけ、白茶けてしまった赤松は熊笹と見分けがつきにくく、またわかりにくい場所に立っていた。思ったよりも早く見つかり、俺は胸をなで下ろした。大きな烏が微動だにせず、まるで作り物のように一番高い枝にとまっている。
振り返って蓮子が追いつくのを待つ。熊笹の上に首だけ出して口をぱくぱくさせている様子は、まるで溺れかけた人間のようだ。
「……着いたの?」
あえぐようにして尋ねる蓮子に、俺は道の先を示した。
「このまままっすぐ二時間も下れば、東野に繋がる村道にたどり着く。だが……」
道をはずれた左手の茂み。そこは、まるですくい上げるように傾斜がゆるやかになっていて、そのまま一定の距離を保つと、再び斜面が谷川へと落ち込むように下りていた。俺は奥を指さして続けた。
「あそこに赤松が一本生えているのが見えるな。わかるか? 目的地はあの中だ」
蓮子は首を左に曲げた。
「ただの林に見えるけど」
俺は皮肉っぽく言った。
「ただの林に、わざわざお前を案内するほど俺は暇じゃない。急げと怒鳴るくらいだからな」
「もう! いちいちからまないでよ」
ふくれる蓮子に笑みを浮かべる。俺は手元の笹をかき分け、赤松の待つ木立へと近づいた。振り返り、渋々といった表情で後について来る蓮子に言う。
「ここから先はぬかるから、足を取られないようにしろ」
蓮子は深く眉根を寄せた。
「何なの? 緊張した顔して……。蛇でも出るの?」
俺は苦笑いした。やはり、顔に出るのか。
「まあ、そんなものだ。気をつけろ」
村人が決して近づかない、禁断の地へと足を踏み入れる。
不意に烏が鳴き声を上げ、松のこずえから飛び立った。蓮子が嫌そうにそれを見上げる。赤松を越えて茂みを抜けると、水の匂いが鼻をついた。
「沼……?」
俺の背を追い、茂みから出た蓮子は周囲を見回した。
陰気な木々の連なりに囲まれ、よどんだ水をたたえる沼。波一つない青黒い水面に、白く小さな睡蓮がぽつりぽつりと咲いている。まるで小さい頭蓋骨が池に浮かんでいるようだ。腐肉のように変色気味の色をした葉が散らばって、余計に薄気味悪さをそそった。
「何? ここ……」
蓮子の固い声が耳朶を打つ。
「上を見ろ」
俺は言った。
「分かれた道を左に行くと、あそこに着くんだ」
俺達が見上げる遥か高みに、緑の勾配から突き出した大きな岩が確認できた。池は大岩のちょうど真下に位置していた。
「この池、もしかして作られたものなの?」
蓮子の言葉に俺は微笑した。やはりわかるか。
「なぜだ?」
俺が尋ねると、蓮子は池を覗き込むようにして言った。
「だって、整った形をしてるし……」
確かにところどころの縁を茂みに侵食されているが、池の形は測ったように楕円を形作っている。蓮子はぬかるんだ岸を示した。
「ほら。泥に埋もれてるからよくわからないけど、四角い石で岸が組まれてるわ」
俺は蓮子と岸の間に自分の右腕を出した。肩越しにその顔を見やり、不審そうな目に低く言い置く。
「あまり近づくな」
「どうして?」
至極まっとうな蓮子の問いに、俺は再び口を閉ざした。ついに蓮子が声を荒げた。
「もう──そればっかり! さっきから思わせぶりなことを言うだけで、私を怖がらせようとしてるだけ!?」
「静かに」
言って、俺は水面を見すえた。俺の表情に口をつぐんで、蓮子も俺の目線を追う。
水がはねた。
蓮子が拍子抜けしたようにつぶやいた。
「何だ。魚」
俺は黙って肩をすくめた。蓮子が俺の顔を見る。
「やっぱり私を怖がらせようとしてるだけなのね」
俺は池の岸に沿い、ゆっくりと、だがしかし慎重に先へと歩き始めた。
「ちょっと、貢生さん! 姉さんのかたきは!?」
蓮子の声が背中ではじける。かまわず俺は進んだ。不意に俺の視線の先が、ある一点で止められた。凝視した後、さらにじっくりと辺りを舐めるように見る。
また、水のはねる音がした。
俺は大きく息をつき、慎重に岸から体を離した。妙に真面目な目をした蓮子が自分を見ていることに気づく。
「どうした」
俺が尋ねると、蓮子ははっと我に返ってぱちぱちとまばたきを繰り返した。
「ううん……。何だか真剣だったから。あの……姉さんのかたきは?」
「もう会ったじゃないか」
ぶっきらぼうに俺が答えると、蓮子はきょとんとして俺を見た。
つけていた腕時計を確認し、俺は時間を確かめた。
──そろそろだ。
蓮子を振り返る。
「もう一度、さっきの茂みに入れ。声を立てるなよ。何があっても沼に近づくな」
俺の命令に眉をしかめ、それでも蓮子は言われたとおりにした。どうやら声に含まれた緊張感に気づいたらしい。俺も蓮子の後を追い、茂みの中に身を潜めた。
俺の尋常ならざる行為とその雰囲気に飲まれたらしく、蓮子はしばらくじっとしていた。だがしかし、五分、十分と過ぎる間にもぞもぞと体を動かし始める。
「ねえ、貢生さ……」
「しっ」
ささやきかけた蓮子を制止し、俺は突き出た岩を見た。その高みへと集中し、今まで以上に気を配る。耳へと入る奇妙な音がようやく蓮子にも聞こえたようだ。
「鶏の…鳴き声?」
切羽詰まったように鳴く鶏の声が、かすかに真上から聞こえて来た。
巨岩に続く藪が動いた。岩へと小さな人影が出て来る。鶏の鳴き声を連れて来た人物は、今までよりもゆっくりと、より確実に沼を見下ろす位置に近づいた。岩の上から池の中を覗き込んでいる人の姿。
「はつ……さん……?」
かすれ声で蓮子がつぶやいた。木立に隠れて見えないはずだが、俺は蓮子の口をふさいだ。
「静かに。何もしゃべるな」
その耳に叱りつける。
はつさんが背中に背負っているものは、竹で編んだ粗末なかごだった。鶏が一羽、羽を打ちならして鳥かごの中で暴れている。はつさんはしょいこからかごを外すと、中から器用に鶏を掴み出した。
「──それ」
そのかけ声を合図にして、鶏が宙へと放り出された。けたたましい鳴き声とともに、激しく羽をばたつかせて沼の中心へと落ちて行く。
それが水面につくかつかないかの瞬間に、よどんだ水が大きくはねた。
「!!」
蓮子の悲鳴が俺の手のひらで押し潰される。俺の位置からもはっきりと見えた。その喉元に喰らいつき、断末魔の叫びとともに沼へと引きずり込んだもの。
それは、まぎれもない人の白い顔だった。
水面が赤くしぶきを上げて、青黒い水に散らばっている白い羽が浮き沈みした。血の色をした泡が底から生餌の最後を伝えるように、いくつも揺れながら表面に散らばる。泡は後から増え続け、波間を凄惨な模様で染めた。
「……おそまつさまでした」
はつさんの厳かな声の響きが、風に流れて耳に届いた。
小さな後ろ姿が藪の中に消えてしまっても、俺が押さえた蓮子の体はぴくりとも動こうとしなかった。