12.
「姉さんは強い人だった」
蓮子の寂しげな声の響きが俺の心に忍び入った。
「そう私は思ってた。姉さんは自分のことを後回しにして、いつも私やお父さん達のことを最初に考えてた。東野に連れて来られた時に私はまだ小さかったから、自分が養女だって知ったのは小学生になってからだった。親戚や周りの扱いで多少違和感は感じてたけど、お父さん達は問題なく私達を育ててくれた。だからこそ、本当のことを知った時は信じられなかった。……でも私には姉さんがいたから……」
蓮子は深くうつむいた。畳にぽとりと涙が落ちる。
「姉さんは、始めから私達が養女だって知っていて、東野の人に気に入られようとずっと努力してたのよ。私には養女だなんて気づかれないよう、本当に気を使ってた。私が知ってしまってからは、私がこれ以上傷つかないよう、私のことを守ってくれた。姉さんがいたから、私は今まで東野でやって来られたの。なのに、その姉さんが……」
肩を震わせ、しゃくりあげる。ずっと抑えていたものがついにあふれ出したのだろう。声を上げて泣く蓮子の姿に、俺はおずおずと近づいた。そしてかたわらにそっと寄り添う。
細い肩を抱いてやることも、言葉でなぐさめることも出来ず、俺はただそばにいる蓮子を見守ることしか出来なかった。
ひとしきり泣きじゃくった後、蓮子は鼻をすすりあげて恥ずかしそうにつぶやいた。
「……今まで人前で泣いたことなんてなかったのに。ごめんなさい。八つ当たりしちゃった。あなたにも事情があるのにね」
「いや。いいんだ。俺も軽率だった」
素直に俺は答えた。蓮子の不安を察しながらも、自分は蓮子の反応をひそかに楽しんでいたような気がする。まるで、猫が手の中にいる獲物をもて遊ぶかのように。
蓮子は言った。
「死にたいって思うのはよっぽどのことよね。その気持ちがわかるなんて、私は口が裂けても言えない──でも、もしその時にあなたが死んでいたら、私はあなたに会うことが出来なかった」
蓮子は自分から俺に身を寄せ、俺の脇で背中を丸めた。そのしぐさが愛らしく、俺は自然に自分の腕を上げ、優しく肩を抱き寄せていた。
俺の胸に体を預け、蓮子は明るい声で続けた。
「生きてさえいれば、いつか必ず生きていてよかったって時が来るから。一瞬でもこの時のために、生きていてよかったって時が必ず来る。私はそう思ってるの」
そばにある俺の顔を見上げる。そして柔らかく微笑んだ。
「私はあなたに会えてよかった。……本当に、そう思ってるわ」
何も言えない。言葉が出ない。
大きな熱いかたまりが、喉の深くでふくれ上がる。細かく震える唇に、俺はわき起こる衝動を抑えることができなかった。幸福に飲み込まれることを恐れ、俺は歯を食いしばってあふれそうになる喜びをこらえた。
駄目だ。
絶対に、心を明け渡してはならない。こんなところで決して他人に心を許してはならない。もうたくさんだ、あんな思いは。
「そう……だな」
しわがれた声でそれだけ答え、俺は柔らかい蓮子の体から、そっと自分の腕を離した。
だめだ。このままでは、この感触に溺れてしまう。
「俺が、悪かった」
もしもこんな決意をする前に、蓮子に会っていたのなら。
ただの優しい婚約者として、蓮子に接することが出来たなら。
両手の中に顔をうずめて、俺は深い苦悩へと心を落とし込んで行った。
*
深い山中にこだまして、まといつくような蝉の鳴き声が午後の乾いた暑さを誘う。雑木に覆われた渓谷から、静かな渓流の水音がなぐさめのように届いて来た。
へりの白茶けた熊笹は、西浦村の裏山におけるありふれた下草のひとつである。細かい刻み目の入ったへりは、無防備にさらされた生の手足を遠慮会釈なく傷つける。わずかな動きでこすれるたびに、ただの笹とはまた違った荒々しい音が耳に入って来る。
背後からついて来るはずの熊笹のざわめきが聞き取れず、俺は青い夏空を見上げて今日何度目かのため息をついた。
またか。
俺は再び振り向くと、緑褐色の熊笹に埋もれた白いかたまりへと言った。
「何をもたもたしてるんだ!?」
かたまりはずいと顔を上げ、負けじと大きな声を返した。
「靴の紐がほどけちゃったのよ!」
俺は小さく舌打ちすると、仕方なく熊笹をかき分けて歩いた道を再びたどった。
この一時間弱の間に何度引き返しただろう。多少急いでいるとはいえど、一応歩くスピードに手加減を加えているつもりなのだが。
俺はなるべくうんざり顔をするまいと心がけながら言った。
「何をやってるんだ。これじゃいつまでたっても目的地にたどり着かないぞ」
しゃがみこみながら靴紐を直す、汗で湿ったシャツの背中が不機嫌な声を返してきた。
「何言ってんのよ。行き先も教えてくれないくせに。何でそんなにぴりぴりしてるの?」
「そういうわけでは……」
しまった。逆に蓮子を怒らせたらしい。柳眉を逆立てた蓮子の顔が下から俺を見上げる。
「朝からいらいらしてるじゃない。私が何をしたっていうの?」
形の良い唇を尖らせると、蓮子は不満げな声でいよいよ怒りをぶつけて来た。
「いや……」
俺は言葉を濁してしまった。
──昨日こいつの横で寝ていて、全く眠れなかったなんて言えるか。
睡眠不足の頭を抱え、俺は蓮子が目を覚ます前に中庭へ出て一回りした。蓮子の無防備な寝姿がすぐ隣にあることに、ついに耐え切れなくなったのだ。彼女に対する反応が異常であることはわかっている。だが自分でも情けない事に、どうすることも出来ないのだ。
蓮子はゆっくり立ち上がり、返事が期待出来ないとわかると偉そうに腕組みをした。下からじろりとにらみ上げるように俺の顔を眺めて来る。思わず視線をそらす俺に、蓮子はおもむろに唇を開いた。
「裏山に登る、昼を済ませたらすぐ用意しろって言われただけで、その後は何にも聞かされないまま小一時間も歩かされて。その上急げって怒鳴られたんじゃ全然納得出来ないわ。いい加減訳を聞かせてちょうだい。でなけりゃ、もうここを一歩も動かないから」
どうやら怒りは本格的だ。眉間に皺まで寄せている。
俺は仕方なく口を開いた。
「前に言ったな。西浦では、昔からあるものを祭っていると。──これから行くのはその西浦の守り神が祭られている場所だ。明日の本祭でそこを使うから、今日のうちに場所を確認しておく必要があるだろう」
「お昼の片づけの時にはつさんさんが、午後には太鼓の音で村が騒がしくなるって言ってたんだけど。……今日は前夜祭になるのね」
最後は小さくつぶやいた蓮子に、俺は山道の先を示した。
「もう少し登ると道が分かれる。右側の道は山を下って、他の村まで続いている。昔のものでずいぶん歩くし、今は誰も使わないから獣道のようなものだ。……左の方が目的地に続く道だな」
急な勾配を上って行く熊笹に埋もれかけた先を見やって、蓮子は仏頂面のまま言った。
「それで? 左に行って、何をするの?」
「いや、今日は右に行く」
「右!?」
蓮子が目を丸くする。俺はあまりの表情の変化に思わず唇に笑みを浮かべた。くるくるとよく変わるものだ。
「あなた、今言ったじゃない。左が目的地に行く道だって」
「普通に行くならな」
答えて俺は歩き出した。これ以上ここにいたら時間がなくなる。蓮子もさすがに今度は黙ってついて来た。だが、唇をへの字に結んだ顔が目に見えるようだった。
俺は苦笑いしながら言った。
「明日の式では着物姿でこの山道を登るんだ。今から覚悟しておくんだな」
しばらくの間、俺達は黙々とその足を運んだ。にじみ出る汗が鬱陶しく、俺は何度も額を拭った。後ろで乱れた呼吸を続ける蓮子は言わずもがなである。
狭い道幅がほんの少し広がって、俺は蓮子に声をかけた。
「もうすぐだ」
「……」
蓮子から返事はなかった。




