11.※
「な……何よ」
「俺の言う通りにしろ」
そう低くつぶやくと蓮子のそばに膝をつき、腕を掴んで引き寄せる。半開きになった唇へ自分の口を押しつけた。柔らかく濡れたその感触に、本能的に唇を吸う。
「……!!」
やっと陥っている状況に気づいて、蓮子が全身の力でもがいた。俺も力でそれをねじ伏せ、強引に背中を抱きしめた。奪った唇を更に深く、むさぼるような形で求める。
「うっ……んく、ぐ……っ!!」
体を離せないことを悟り、蓮子が絡まった唇に噛みつく気配を見せて来る。俺はそれより一瞬早く畳に蓮子を押し倒した。体重をかけてのしかかると、背中を反らせて蓮子があえぐ。
華奢な肩、細い二の腕。そのくせ柔らかな肉の感触。首、頬、髪の匂い。胸に感じるふくらみに起爆しそうな欲情を感じ、俺は何とかそれを押しとどめた。小さく蓮子の耳にささやく。
「抵抗するな。見張られてるんだ」
「は……!」
離して、と言いたかったのだろう。声を上げかける蓮子の口を、俺はとっさに手のひらでふさいだ。顔から顔を離して見下ろす。黒く大きな双眸は極限まで見開かれ、目じりから涙がこぼれている。
男の本気の腕力におびえきったようなまなざしに、俺は深く胸を突かれた。
「違う……そうじゃないんだ」
俺はつとめて冷静な声を出した。
「言っただろう。見られてるんだ。もうこれ以上何もしないから、静かにしてくれ、頼む」
祈るような俺の思いが伝わったのか、蓮子の目から多少なりとも恐怖の色がしりぞいた。恐る恐る手のひらをはずすと、蓮子が震える唇を開く。
「見ら……れ、てる?」
「そうだ」
かすれた響きの返答の後、俺は離した手のひらでそっと蓮子の髪をなでた。蓮子の背中がびくっと震える。拒否されているような反応に、俺は手を離すべきなのか迷った。だがぎこちなく、ゆっくりとその黒髪をなで続けると、切迫した蓮子の呼吸がわずかに収まってきた。
──よかった。
俺は心底ほっとした。どうしていいのか、本当にわからなかったのだ。
「誰に……」
「堅三だ」
唇の動きだけで会話を交わす。俺は相手の信頼を得るべく、出来るだけ真摯な表情で続けた。
「俺がお前を抱かなかったことは、もう新宅とお婆様に知られている。両方に言いつけられてここを見に来たんだろう。……プライバシーも何もあったもんじゃないな」
「じゃ、ずっとこのまま……?」
うるんだ瞳が動揺する前に、俺は首を横に振った。
「何もしない。堅三は最後まで見届けるほど、出歯亀根性のある奴じゃない」
俺達は互いに沈黙し、時が流れることを願った。全身の毛が逆立ちそうなほど縁側の気配に集中しながら、俺は腕の中にあるぬくもりをしっかりと感じ取っていた。
それは本当に甘い刺激で、まるで皮膚を侵すようにして体の内に染みこんで行く。とろけるような感覚と相容れない精神がもどかしく、無意識に異性の匂いを味わう。
不意に俺は歯を食いしばった。重なることを望む体が頑固な理性を排除しようと、よこしまな触手をうごめかせ始めていた。
「……俺が怖いか?」
唇からふと漏れた言葉に、つぶやいた自身が驚愕した。
──何を言ってるんだ、俺は?
蓮子はその大きな瞳をこぼれ落としそうなほど見開いて、まじまじと俺の顔を見た。
「こわい?」
その時俺は唐突に、激しい緊張と後悔の嵐に見舞われた。
怖い。蓮子の反応が怖い。そんなこと、今聞かなければよかった。聞かなければ気づかなかったのに。
俺は気づいてしまった。自分の持っている感情に。
俺は、蓮子に惚れている。
「当たり前でしょ!」
怒気をはらんだかすれ声が、剣のように心臓に突き刺さった。しかし。
「何言ってんの。こんな状態で怖くない方がおかしいでしょ。いっくらあなたが私のことを何とも思ってなくたって……そういう問題じゃないでしょう!」
ずけずけと心に踏み入って来る蓮子の言葉に俺は笑った。
そうか。
そういえば、確かに自分は昨日の夜そう言った。まさか今、こんなことになるとは全く思いもしなかった。
蓮子に気づかれる前に、俺は内心の動揺を押さえて飄々とうそぶいた。
「それはすまなかった。──そうか、俺が初めてか」
蓮子の頬に朱が走る。
「最っ低ね!!」
俺は微笑んだ。最高の褒め言葉だ。これ以上嫌われることもあるまい。
俺はやっと身を起こし、蓮子の肌から体を離した。この騒ぎの元凶である縁側へと視線を向ける。いつもと変わらず虫の音が響く、吸い込まれるようなぬばたまの闇だ。音を立てずに退くと、蓮子があわてて起き上がった。
「……本当に、誰かいたの?」
蓮子はあとずさりするような形で大きく距離を置いて座った。なおも庭を見すえる俺に、小声でうさんくさげな言葉を放つ。
「もしかして、押し倒すための口実だったんじゃ」
「馬鹿言うな」
俺は確認し終えた後、その場にあぐらをかいて座った。浴衣の袖に手を入れる。
蓮子には聞こえなかったのか。慎重に近づき、そしてさりげなく去って行った庭の玉砂利のこすれる音が。堅三以外の人間が共に見に来た気配はなく、俺はほっとして言った。
「子供の頃から見張られてるんだ。堅三が来ている気配くらいわかるさ」
蓮子はまばたきを繰り返した。
「子供の頃から?」
俺は黙って左袖をまくった。蓮子の前に手首を突き出す。うっすらとまだ細い筋が残っている傷跡を、蓮子は食い入るように見つめた。
「自殺未遂だ」
あっさり答えた俺を見上げる。形のよい唇が引きつり、泣き出しそうな顔を作った。
「……偉そうに言わないでよ!」
その表情とは裏腹の、噛みつくような鋭い声。
「自殺、自殺って、何を偉そうに自分だけ苦しんでるような口叩くのよ。私は絶対認めない。自分だけが苦しいなんて、そんなうぬぼれに誰が同情してやるもんですか。自殺したいなんて恥ずかしいこと、偉そうに人に話さないでよ!」
激しく詰め寄る蓮子に飲まれ、俺は瞳を見つめ返した。ふっと蓮子は視線を落とした。
「……どうして」
喉の奥からしぼり出すような低い声。長いまつ毛を伏せてつぶやく。
「どうして自殺したかったの?」
俺はやっと我に返った。少し困ってあぐらを崩し、乱れた髪を手ぐしでかき上げる。肩を落とした蓮子の姿からは、先ほどの迫力が嘘のように消え失せていた。
「どうしてもこうしても、そういう環境だったからだ」
投げやりに俺は答えた。唐突に込み上げて来た腹立たしさに、それっきり口をつぐむ。
何なんだこれは。どうして俺がこいつにここまでこんな非難を浴びなくてはならない? そんな無作法な俺の素振りを、蓮子が先ほどとは打って変わった静かなまなざしで見つめた。そして、そのままぽつりとつぶやく。
「……姉さん」
俺は蓮子の顔を見直した。蓮子は唇を噛みしめた。
「姉さんのようには、ならないで」
そのか細いような声に、俺は蓮子を凝視した。
──そうか。姉の自殺の理由を探りに、こいつはここまで来たのだった。
姉を殺した犯人に襲われるという危険を背負って、十八歳の少女が一人で。改めて蓮子の立場を思い、俺は自分が何を言えばいいのか再びわからなくなった。
二人の間を無言が支配した。夏の虫の音が遠く聞こえる。蓮子が不意に言葉を放った。
「私達、養女なの。知ってるでしょ?」
今度は俺がその目を見開く番だった。
「知らなかったの?」
蓮子の深淵をたたえる瞳に、俺は驚愕を隠せなかった。──いや、そうか。そう言われれば確かに思い当たるふしもある。
初め、村はこの縁談にずいぶん時間をかけていた。東野は西浦の隣村である東野温泉郷の長で、西浦本家に勝るとも劣らない格式と財産の持ち主だ。二氏の交流は浅くないが、この近年は他村に目を向けた大叔父の精力的な活動により、長い関わりの中においても最も親しい代だと言えた。
今までも何度か両家の縁組が正式に持ち上がったことがあるが、結局は西浦の閉鎖性によりなし崩しになってしまっていた。西浦のあまりのかたくなさに、東野の側から不満の声が聞こえて来たこともある。
そして今回、公彦達の縁談が正式に両家を取り結ぶ最初の縁組となったのだが、俺の場合は村の人間があまりに話を渋るため、不審に思ったことを覚えていた。結局最後は強引に大叔父が話を進めたが、あんなに長く揉めた理由は東野の娘というだけでなく、そんなところにもあったのだ。