10.
蓮子は不意に顔を上げた。
「公彦さんははじめから、この結婚に反対だったの?」
俺は目を見開くと改めて蓮子の顔を見た。思わず奥歯を噛みしめる。
「真実を知りたい」と言った蓮子の切ない心情を鑑みて、東野蓉子と公彦の不仲は関係者の加世に話させた。だが、まさかそんなことまで──そんな西浦の事情まで口外するとは思わなかったのだ。
「だから、結婚なんてする気はまるでなかったって言ってたわ。周りに言われれば言われるほど、公彦さんは姉さんがうとましくなって……。初めからあの結婚は形式だけだったんだって」
そこまで息もつかせずしゃべり、蓮子はふっとはかなげに笑った。
「……あなたも気をつけなさい、お姉さんの二の舞にならないように、って言われたのよ」
俺はじっと押し黙り、視線を下げて畳を見すえた。蓮子は続けた。
「あの人達はどういう人なの? 二人とも得体が知れなくて、話せば話すほど混乱するわ。姉さんをあそこまで追い詰めたのはあの人達なんでしょう?」
蓮子は唇だけで笑った。
「まあ、それを言うのなら、あなただって得体が知れているとは言えないわね」
俺はただ黙っていた。
──やはり、先に一言言っておくべきだったのか。
「ここ三年ほどの間、俺は進学のために村を出ていて、いない時の方が多かった。だからここの内情を逐一押さえていたとは言えない。確かに新宅とのつき合いはあったし、お前の姉のことも承知していた。しかし、新宅の家庭の事情を知るほど行き来していたわけではないんだ。……村の噂ではよく出来た、でもおとなしい嫁だということくらいしかわからなかったし、公彦も深くは語りたがらなかった」
俺は苦い笑みを浮かべた。
「俺も、あえて聞かなかったしな」
「どうして」
蓮子が黒い双眸をまっすぐ俺へと向ける。それは厳しく問い正されるよりなお一層答え辛く、俺は深々とため息をついた。
「……確かに公彦は東野と縁組をする気はなかった」
言葉を口に出した後、渋い思いが胸に広がった。ここまで語っていいものかどうか。しかし、蓮子の真摯な瞳につられるように口が動いた。
「俺はそれを知っていて、あえて嫁取りを承知した。俺があくまでも突っぱねていれば、もしかすると公彦も反対の意見を出せたかもしれない。だが、俺は承諾した。公彦の立場のことを考えなかったわけではないが、あの時はそう選択した。……結局あんな形でお前の姉が亡くなったのは、申し訳ないと思っている」
「それじゃ、姉さんを追い詰めた原因はあなたにだってあるんじゃない」
蓮子の悲鳴にも似た声に、俺は深く眉に皺を刻んだ。言葉を否定できなかったのだ。
否定などできるわけがない。俺は利己的な判断で、東野蓉子を巻き込んだのだ。新宅の立場からいって、公彦がこの縁談を断れたとは思わない。だが、あの時に自分がもっと思いを巡らせていれば、こんな悲劇的な形で東野を巻き込まずとも済んだかもしれない。
しかし、あの時俺は新宅の全てが憎らしかった。あの結論を出した光義も、反対をしなかった公彦も。目的のためにやむを得なかったと今さら自己弁護をしても、それが許されるわけがない。
「わかっている」
「わかってるって、貢生さ……」
「自分の責任は果たすつもりだ」
俺を問い詰めかけた蓮子が、その重い口調に何を読み取ったのか、黙った。
*
蓮子とはつさんに給仕され、つかの間ながらも穏やかな夕食の時間を終わらせる。俺は風呂で汗を流すべく母屋の座敷を後にした。
台所の脇に建てられた風呂場は母屋とは別棟の一軒家になっていて、屋敷専用の温泉が源泉から引き込まれている。源泉の色は赤茶色で、慣れているはずの俺でも鉄の匂いが鼻をつく。効能はお定まりの神経痛や外傷、皮膚病と子宝の湯と言われているが、俺もよくは覚えていない。
東野の温泉街には劣るが、西浦にも公共の浴場があり、村の人間ならば誰でも好きな時に入れるようになっている。多分それなりの整備をすれば、ここも立派な温泉地の一つに変貌するだろう。現に大叔父がここ何年かそういった話を口にしている。だが先代の時に一回、公共の施設を作るための調査が行われたのみで、その後は具体的な話は進んでいない。風呂場はその施設から直接源泉を汲み入れていた。
ヒノキの浴槽に身を沈め、ゆっくりと故郷の湯を味わう。俺はのんびりと体を洗って、張り詰めていた精神を解きほぐすささやかな幸福に身をゆだねた。
大学進学を名目に、一度は村の全てから逃げるように都会に移ったが、一日たりとも村の出来事を思い出さない日はなかった。それは物苦しいほど懐かしく、幾度も眠れないままに重苦しい朝の空気を迎えた。
自分に関わる全ての者の生活を内包している場所。その一部としてともに生き、良きにしろ悪しきにしろ、俺の今までの人生をはぐくんで来たということは、今の自分の上にあるまぎれもない事実なのである。──だからこそ激しく憎悪もし、悲憤の感情に駆られて、まるで全てを叩き潰すようにこの村を後にしたのだが。
加世。
俺は物悲しい思いに捕らわれた。
共に歩けると思った相手。醜い、もう思い出したくもない激しいもろもろの感情が、穏やかな時の流れによって全て押し流された後。その水底に残ったものは、加世への静かな同情だった。
加世は多分、ああいう形でしか自分を表現出来なかったのだ。きっとこれでよかったのだろう。
顔を上げ、俺は思った。
過去のことはもう終わったことだ。今は部屋にいる蓮子のことをきちんと考えなくてはならない。
自分はこれから蓮子に対してどう接するべきなのか。
いつまでもここに置いておくわけにはいかない。俺にはやることがあるのだ。しかし、蓮子が言うことを聞いて素直に村を出て行くだろうか?
考えあぐねて沈んでいると、風呂場の外からとんとんと板壁を叩く音がした。体を起こし、耳を澄ませる。
もう一度、今度はさっきよりも強く。俺は浴槽から出ると、湯気を抜くために天井近くに作られた格子戸の間から、そっと外の様子をうかがった。堅三が板壁の脇に立ち、俺を見上げて母屋の方を指さしている。
俺は指先の方向に目を向けた。
母屋に沿って裏庭を進み、西の座敷に向かっているのは、まぎれもない蓮子の姿だった。
俺は強く舌打ちすると、急いで格子戸の枠から離れた。
*
「何するのよ!」
鋭い叫びに耳を貸さず、俺はその腕を掴んだままで、引きずるように蓮子を連れて強引に離れの部屋へもどった。あせって着付けた浴衣のすそが湿ったふくらはぎに絡みつく。音を立てて引き戸を開けると、いまだに抵抗を続ける蓮子を無理やり部屋へと押し込んで、座敷の真ん中へ放り出した。
「何で止めるのよ!!」
ヒステリックな抗議の言葉に、思わず俺は一喝した。
「この、馬鹿!!」
そのあまりの迫力に、蓮子が肩をすくませる。俺は一呼吸置くと、ぴしゃりとふすまを閉めてから声を低めて言葉を続けた。
「言っただろうが! 不審に思われるようなことはするなと。行動を慎め、猫をかぶったままでいろと俺があれほど言ったのに、お前は聞いてなかったのか!」
「だって、……」
「だっても何もあるか!」
蓮子の反論を打ち消すと、俺は大きくため息をついた。きびすを返して縁側に向かう。暗い母屋を確認し、自分の言葉が母屋まで漏れていないことを確かめる。
「だって、あなたは操さんのことを結局教えてくれないんだもの。あなたの話じゃ分からないことばかりじゃない。だから、いっそのこと直接操さんに会おうと……」
「しっ」
言い訳がましく言葉を続ける蓮子の声を押しとどめ、俺は母屋をうかがった。ほんのひと時ではあるが、西の座敷の明かりがついた。だが、今は母屋は闇に包まれている。
俺は黙って振り向いた。その表情に何を読んだのか、蓮子が息をのんであとずさる。