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シュッ、シュッ……パタン。「凄い、全問正解だよ……」
感嘆付きで返却されたドリルを軽く捲り、無言で壁際に置く彼。そうやって積み上げられた問題集は、彼の腰の高さとほぼ同じだった。
「あの御老人に習ったのか?」
「基本的なルールだけな。後は全部テキストでの独学だ」
「余程数学が好きなんだね」
「まぁな。良い暇潰しになるし、他の学問と違って答えは一つきり」ニッ。「人間共が生み出したにしちゃ単純明快だ。そこが気に入っている」
大人びた口振りの後、ああ、自虐的に唇を歪める。
「あんたの言いたい事位、とっくにお見通しさ。これだけ学力があるなら学校へ行け、って説教するつもりだろ?断る」
つーん。
「富も地位も名誉も、俺にとっては単なる概念に過ぎない。家族ならこいつ等がいる。人の干渉なんざ真っ平だ」
「……そうだな。君の言う通りだ」
アダムは過去の私や桜と違い、少なくとも孤独ではない。自らこの道を選び、しかも既に充分な満足を得ている。幾らキューのためとは言え、私達に彼の平穏な暮らしを壊す権利など存在しないのだ。
「やれやれ、やっと理解したか。さあ、用は済んだならとっとと出て行け。そして二度と―――ん、どうしたマッケイ?」
低く唸ったのは洞窟内で一番の存在感を持つ、体長三メートル強のヒグマだ。よく見ると高齢なのか、焦げ茶色の体毛が所々抜けている。全身から放たれる威厳と言い、どうやら彼がこの山の主のようだ。
「こんな怪しい奴の話を聞けだと?馬鹿馬鹿しい。どうせ施設の回し者か、新手の開発業者に決まっている。見ろ、この如何にも金の掛かった髪と髭面。前に叩き出したペテン師そっくりだ」
グゥゥ、静かな眼差しで再度唸り声。途端、少年の眉間の皺が一層深くなる。
「チッ、分かったよ。お前はここの長だしな。但し聞くだけだぞ」
「アダムを説得してくれてありがとう、Mr.マッケイ」敬意を籠めて一礼。「では、早速だが本題に入ろう」
私はレイテッド親子のため、宇宙の稀少なウイルスを捜索している事。そして少年の異能はその賜物である可能性が高く、是非とも採血させて欲しい旨を告げた。
「あと、これは出来ればでいいんだが……君を是非『ホーム』へ招待したいんだ。この山の皆とは別れる事になってしまうが、あそこなら誰も君を不気味がったりしない。勿論、一日中動物達と過ごしてくれて結構だし、社会生活も強制しない。数学も、理数系の得意なメアリーに習えばもっと面白くなるだろう」
「阿呆らしい提案だな。俺にお前等と一つ屋根の下で暮らせってか?死んでも御免だ」
想定通りの答えを返しながらも、彼は土で汚れた袖を捲り、左腕を晒した。
「何度も来られても迷惑だ。早く採って帰れ」
「ありがとう」
採血の間、アダムは眉一つ動かさなかった。慣れている筈は無い。大人の私にナメられたくない一心のようだ。
「しかしあんた、つくづく変な奴だな。赤の他人のためにあちこち飛び回って楽しいのか?」
「ああ、とても」
メアリーこそ私の愛の源泉であり、生きる理由そのものだ。彼女のためならば、私はどんな労力も惜しみなどしない。
止血用ガーゼを少年に押さえさせ、袋へ注射器を仕舞う。消毒薬の刺激臭が珍しいのか、動物達が彼の周りに首を伸ばす。と、ここで老熊が先程よりも長く唸った。
「アダム、Mrは何と?」
敢えて訊かずとも、渋柿を口へ押し込まれたような彼の表情を見れば凡そ想像は付くが。
「……マッケイの奴、あんたと行けってさ」
グゥゥ。
「子供は一度は旅に出るもの、だそうだ。チッ、山生まれ山育ちのくせに偉そうに」
反抗的な態度に、それまで沈黙していた他の動物達も口々に諭し始める。言葉こそ分からないが、雰囲気的にほぼ間違い無いだろう。
「アダム、何も一生住んでくれとは言わないよ。試しに生活してみて、性に合わなければ何時でも戻って来ればいい」
麓の施設より少人数とは言え、他人と寝食を共にするだけでも彼にとってはかなりの苦痛だろう。ましてや、慣れ親しんだ家族と別れるとなれば。
「一年、いや半年でも構わない。旅行のつもりで来てはくれないか?」
決して変な期待はしない。だが『ホーム』の人々と触れ合えば、少しはこの閉じた心を開いてくれるかもしれない。特にキュー、あの無邪気で愛くるしい姫君にならば……。
家族と異邦者を忌々しげに睨み、動物使いは徐に右手の三本指を立てた。
「……三ヶ月だ。その条件が飲めないなら、勧誘は諦めるんだな」
「分かった。正式な日取りは追って伝えるよ。無理を聞いてくれてありがとう、アダム」
私は心から感謝し、急ぎ下山の支度を始めた。




