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前編

 私、ジェマ・フリエルは、十九歳で結婚した。

 夫のレイフは、いずれニーム伯爵領を継ぐ身だ。妻の私は、跡継ぎの男子を、それが無理でもとにかく子を産まなくてはならない。けれど、四年経った今も妊娠の兆しは見えなかった。義父、義母の期待は今や、ただ重いだけでなく痛みを伴って私にのしかかっている。

「気にしないで、と言っても、無理な話だとは思うけど」

 レイフは困ったような微笑みを浮かべ、私に言う。

「僕としては、領地を継ぐのは私の子でなくても構わないよ。親戚の誰かが継ぐ、それでいい。ジェマはただ僕のそばにいて、僕を支えてくれればいいんだ」

 優しい夫のためにも、子どもが欲しいと思うけれど、そんな私の切ない思いをよそに季節は移り変わっていった。


 奇妙だな、と思ったのは、伯爵邸を包む木々がすっかり紅葉した、ある朝のことだった。

「ジェマ、ずいぶんのんびりしているね。時間は大丈夫なのかい?」

 書斎で本を読んでいた私は、机で手紙を書いていた夫にそう言われて顔を上げた。

「何のこと?」

「忘れてた? 今日はお祖母さまの昼食会に呼ばれていると言っていたじゃないか」

「嫌ねレイフ、昼食会は明日よ。日曜日」

 私は笑う。すると、レイフまで笑い出した。

「おいおいジェマ、今日がその日曜日だよ。大丈夫?」

「え? そんなはずないわ、今日は土曜日よ」

 私は戸惑った。昨日は第一金曜日で、私が理事を務めている学院の、月に一度の会議だったのだ。

「昨夜は話し合いが夜遅くまでかかって、大変だったもの。なんだかまだ眠いわ」

「うん、昨日の君は確かに一日中、眠そうというか、上の空だったね。そのおかげで、土曜日の記憶が飛んでしまったのかな?」

 レイフが苦笑しながら、新聞を差し出す。

 それは、日曜ごとに発行される日曜紙だった。労働者向けのものだが、レイフは興味を持って読んでいる。そしてそれは、どうやら今日の日付らしい。

 納得いかないまま支度をして、車に乗り込み、とりあえず祖母の家に向かう。何かの間違いだったら、近くまで寄ったので……とかなんとかごまかそう、と。

 ところが、祖母の家に着いてみると、昼食会がそろそろ始まるところだった。大勢の人々が集まっている。

(本当に、今日が日曜日なのね。嫌だ、土曜日の記憶が全然ないわ。私、そんなに疲れていたのかしら……)

 自分が心配になった私は、昼食会から早めに帰らせてもらい、夜も早めに眠ってしまった。


 ところがそれから、おかしなことが起こるようになった。

 土曜日の記憶が、毎週飛ぶのだ。金曜日の夜に眠って、気づいたら日曜日になっている。気づかずに予定をすっぽかすこともしばしばだった。

 しかも、レイフにこんなことを言われた。

「君が、記憶がないと言っている日のことなんだけど……ちょっと様子がおかしい。まるで、私のことを知らないような態度をとっていたよ」

 そんな覚えは全くない。毎週土曜日、記憶のない間の私が何をしでかすか、恐ろしくなった。

 レイフも心配し、医者を呼んだ。しかし、身体には何の異常も見つからない。

「精神的なものなんじゃないか……子どものことが重圧になっているとか……」

 レイフはますます私を心配し、精神科の医者も呼んだけれど、私の様子はごく真っ当なものだと言われた。

「私、どうなってしまったのかしら……」

 戸惑う私を、夫は励ます。

「気に病むと、よけいに良くない。とにかく、土曜日に予定は入れないようにしよう。家でゆっくり過ごす日にするんだ」

「ええ……そうね」

 微笑んでみたものの、不安は拭えなかった。


 金曜の夜に眠り、そして目覚めた朝に、私はいつも夫にこう尋ねるようになった。

「私、またおかしかった?」

 夫は、土曜日の私の様子を教えてくれる。どこかボーッとしていたり、夫を避けるような態度をとったり、不意に話しかけるとびっくりしたりするそうだ。

 そしてある日曜日、夫は言った。

「気を悪くしないで欲しいんだが……。君には本当に、土曜日の記憶がないんだね?」

「本当よ! 疑っているの!?」

「いや、何か特別な事情があって、君が迫真の演技をしている可能性があるかどうか考えてみたんだが」

「本当に演技なんてしてないわ。だいたい、土曜日だけ別人格を演じることにどんな意味があるっていうの? ひどいわ、レイフ」

「ごめん、念のために聞いただけなんだ。君に何か事情があるなら、僕が助けなくては、と思ったものだから。でも、違うんだね」

 夫はうなずき、そして続けた。

「昨日の君に、一昨日君が読んでいた本のことを質問してみた。そうしたら、君はうろたえだして、とうとう泣いてしまった。……自分はジェマという名前ではない、“マヒロ”という名前だと言うんだ」

「マヒ……何?」

「マヒロ。しかも、この国の者ではないという」

「ええっ……?」

 土曜日の私は、何か妄想に取りつかれているのだろうか。まるで女優のように、マヒロという人物を演じている?

 自覚がないので、私がそんなことをしたなんてにわかには信じがたい。けれど、レイフが嘘をつくはずがない。それとも、まさかレイフの方こそ何か事情があって、迫真の演技で嘘をついているのだろうか。 

 まじまじと見つめる私に、彼は続ける。

「その、マヒロと名乗った土曜日の君には、それ以外の曜日の記憶がないらしい。土曜日にしか存在しない人格……という感じだろうか。年齢はたぶん、僕たちよりも十は下だと思う」

 自分の知らない話を延々とされて、私はだんだん苛立ちを覚え始めた。

「いくらあなたが、その、マヒロ嬢? とお話したところで、私は会っていないんだもの。全く現実味がないわ。もしかして、土曜日のあなたが夢を見ているんじゃないかと思うくらいよ」

「僕を疑うのか?」

 レイフは少々むっとした顔をしたものの、すぐに表情を和らげて私の肩を抱いた。

「まあ確かに、君にしてみたら何の証拠もない話だものな。……しかし、君の侍女も、見ているんだ。君がマヒロと名乗るところを」

 ……侍女が、夫と口裏を合わせているかも……

 一瞬そう思ったけれど、私はその考えを振り払った。このままでは、私は身近な人の誰も彼も、信じられなくなってしまう。他の人にも土曜日の私を見てもらうとか、そんな風に多くの人に知られて精神的に追いつめられるのも嫌だった。

「気持ちを、切り替えるしかないようね」

 私はかろうじて、微笑んだ。

「あなたを信じるわ、レイフ。その、マヒロという子から、もっと話を聞いて。何かわかるかも」

「ジェマ……わかった、そうするよ」

 夫は勇気づけるように、肩を抱く腕に力を込めた。


 それから土曜日が来るたびに、夫はマヒロと話をするようになった、らしい。らしいというのは、私にはその様子がわからないからで、それは仕方ない。

「十四歳だと言っていた」

 日曜日、夫は私に報告する。

「まだ子どもということなのね」

「うん。なので、僕もそのつもりで接している。小さなレディだから、土曜日の夜に眠るのを別室にしたんだ」

「今朝は別の部屋で目覚めたから、少し驚いたわ。それで?」

「マヒロの方も、今の状態にとても驚いていた。自分の国にいたはずなのに、突然ここにいて、しかもジェマの姿をしている……ということに混乱している。鏡を見て、髪も目も黒くない、とつぶやいていた」

 私は亜麻色の髪に緑の瞳をしているが、マヒロは本来どうやら黒い髪で黒い瞳をしているらしい。

 レイフは腕を組む。

「それと……僕や侍女と普通に会話はしているんだけれど、文字が書けない」

「教育を受けてこなかったの?」

「いや、そうじゃない。この国の者ではないと言っていたから」

「ああ……そうだったわね。では、自分の国の文字なら書けると?」

「うん」

 夫は一枚の便せんを私に見せた。

 そこには、妙に線の多い不思議な文字がつづられている。細かくて、まるで編み物の編み目模様だ。

「これが、マヒロの名前だそうだ」

「まぁ……なんと複雑な」

 私は息を呑んだ。

「これを、私が書いたということ?」

「傍目から見れば、そうだ」

 夫はうなずく。

 私はため息をついた。

「私だけがマヒロと会えないなら、会話の代わりに文通でも、と思っていたのよ。でも、これでは文字での意志疎通もできないわね」

「それは僕も考えた。もっと簡単な文字もあるそうなんだが、マヒロがそれを君に教えるのは難しいと思うんだ」

 夫は言い、そして提案する。

「だから、マヒロの方にこの国の文字を教えようと思うんだが」

「できるかしら」

「覚えてもらうしかない」

 うなずいた夫は続けた。

「マヒロは、こうも言っていた。この身体は私の身体ではない。おそらく一時的に借りているだけだろう、早く出て行きたいと」

 もっともな意見なのだけれど、まるで私の身体が嫌だと言われているようで、あまり気分はよくない。

 しかし、夫は微笑んだ。

「居候の身で、これ以上ジェマさんに迷惑はかけられない、だから文字くらいは覚えなければ、と言っていたよ。その後は、土曜日の時間いっぱい使って、勉強をしていた」

 ……いい子、なのかしら。その、マヒロって……

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