忠(1)
「じゃあ、私行くね」
「ああ」
そう言って美也子は先に部屋を出て行った。私も同じタイミングで出れば良かったのだろうが、どうしてもいつもの儀式だけは済ましておきたかった。
「彩也子」
妻の名前を呼んだ。
本当なら、もうこんな風に呼びかける事など一生なかったはずの存在に向かって。
*
妻の浮気に確証を得たのは、妻の携帯にはっきりと男とのやり取りが残っていた事からだった。
仕事柄、出張が多く家を離れる事は多かった。出張で家を空ける際、その度彩也子は私に言った。
「浮気なんてしちゃ駄目よ」
数度なら可愛らしいものだったが、毎度となると鬱陶しくてかなわなかった。そして、その言葉は、私が浮気を働いているんじゃないかという疑念がはっきりと見て取れるものだった。
冗談じゃない。私はそんな事等しない。表現は下手かもしれないが、私は彩也子をちゃんと愛しているつもりだ。だがこんな風に言われると、いっそ本当に浮気でもしてやろうかとすら思ってしまう。もちろんそんな事はしない。娘の美也子というもう一人愛すべき存在がいる。
私は、家族を守らなければならない。
私がそれを見てしまったのは、ちょっとした悪戯心に近かった。
そんなに言うのであれば、自分は恥じるべき事は何もないのだろうなと。
何もないものだろうと思っていた。ロックは簡単に外れた。その悪戯心から、彩也子がスを触る所を意識的に見るようになっていた。ロックは番号式ではなく、指でなぞるパターン式でさほど複雑ではないものだった。
そして、あっさりと解除されたスマホの中で私はあってはならぬものを見てしまった。
男の名は、弘明というらしい。
その男と彩也子は幾度となくやり取りをしており、自分が出張でいない時等を見計らって逢瀬に励んでいるようだった。
なんという、穢れた女か。激しい憎悪が湧き立った。
私がこんなに家族の為に働いているというのに、この女は――。
私はこの時はっきりと、妻への殺意を覚えた。
そして、それを実行する事も。
*
とは言え、私自身が手を下せばそれだけ危険性が高まる。危険性というのは私と美也子についてだ。
あくまで、彩也子を消す事だけが目的だ。私の家族に、それ以上の不幸は起きてはならない。美也子は悲しむだろう。だが、私が犯人だという事がバレてしまえば不幸はそれではおさまらない。だからなるべく、自分自身が疑われる可能性を下げたかった。
そこで私は実行犯を探す事にした。完璧に私が手を下せない状況で、私の代わりに妻を殺してくれる存在。そう考えた時、出来るだけ自分とは関係のない、結びつかない人物を探そうと思った。それでいて足のつきにくい存在。
そこで私は、ある寂れた街で一人の男に声を掛けた。
その男はホームレスで世間的に死んでいるような存在だった。全てに絶望し、全てを退り、だがそれでも命を繋げる事だけは諦めきれなかった存在。
「少し、頼まれてくれないか。もちろんタダとは言わない」
全てを捨てた男にとっても、金というのはとても効果的だった。




