帰り道は迷わなかった
瞬くと、歯ブラシが新しいものに変わっていることに気が付いた。
洗面台に置かれた一輪挿しに花が活けられている。
窓からは朝日が痛いくらいに差している。
洗面所の鏡の中で、ボサボサ頭で歯ブラシをくわえる自分が眩しげに顔を顰めている。
寝室には今日着ていくワイシャツが一枚、ハンガーに掛けられていた。
身支度を済ませると誰もいない食卓に、ラップを被せた朝食が置かれている。
それをチンしている間に牛乳をコップに一杯注ぎ、温まった食事と共に胃に流し込む。
10時の待ち合わせで着いたのは二分前。
目的地の駅まではスムーズに到着した。
でも、出口を間違えて結局迷ってしまった。
何とか間に合ったが、やはり事前に面接場所くらい下見に来ておくべきだった。
億劫がって一手間怠ったツケが来たのだと情けなくなった。
鏡で髪を整えたり、ネクタイを直したりしている時間なんてない。
扉を開けるんだと意気込むも、いつもの弱気虫が肩を這う。
自分でも縮こまっているのがわかるが、時間に遅れるよりはましだとそのままドアを開ける。
涼しい顔の面接担当。
履歴書に目を落としながら、決まりきった質問をしてくる。
志望動機は?
人に自慢できる特技は?
尊敬している人は?
どれも事前に想定された一般的でむしろ易しいほうの設問だった。
でも僕は上手く応えられない。
特技は自信なさげに、尊敬する人は両親と何とか応えたが後が続かない。
昨日、散々練習した志望動機も途中からすっぽり抜けてしまい一夜漬けが証明されてしまった。
「志望動機は練習してたみたいだね」
面接官はそう言って笑った。
苦笑いするしかなかった。
「僕はね、君が能力を持っていることを疑っているわけじゃないんだよ」
真摯な声で面接官は告げる。
「僕が見ているのは、覚悟なんだ。君は本当はこんなはずじゃない。自分はもっとやれると思っている。そして実際にやれる力はあるんだろう。でも、それをいざという時に出し切る力が今は足りないようだ」
僕はそれでも卑屈に頷いて応えることしか出来ない。
「本当は力があったとしても、それを発揮できないなら、それはないのと同じだよ」
その言葉は、さまざまな事柄から自分を守るバリアを通り越して僕の心を打ち砕いた。
「少し厳しいように聞こえるかも知れないが、これは一種の良心だと思ってほしい」
思いのほか明るく笑って面接官は言う。
「実は私、君と同じ学校を出てるんだよ」
それで漸くその人の顔をまともに見上げられた。
「同郷のヨシミってやつだね」
書類を整えて社会人然とした彼は席を立った。
もう僕との面接は終了ということらしかった。
「自分の力をスムーズに出せるよう準備するといい。そしたらきっと、縁のある会社と出会えるはずだ」
そういって面接官は部屋のドアを開け、退室を促した。
それは事実上の不採用通知だったが、声の質感からは残酷な響きよりもむしろ期待を感じたのだった。
帰り道は迷わなかった。
家に戻ると、食卓にでっかいおにぎりと一枚のメモ書きが。
―――おつかれさま―――とだけ。
僕はその一言を眺めながらおにぎりを頬張る。
なんだか無性に息が詰まる。
視界が滲む。
鼻水が止まらない。
ハフハフしながらもおにぎりは離さない。
結局は、一歩踏み出さなければ前に進めるわけないんだ。
変わらない変わらないと喚くだけでは変わるはずもない。
当たり前だけど、そんなことにも目を背けて、自分の楽を優先させてた。
僕は指についた米粒をしゃぶりながらそんなことを考える。
あまりに長い時間が僕達の前には広がっている。
それに甘えていた。
いつもの、なんの変哲もないダイニング。
何も変わっていない。
まだ。
変えるのは自分だから。
モノを言わない白紙のノート。
僕はそれを自由に開くことができる。
できることからやればいいんだ。
僕は最後の咀嚼を終え、でっかいおにぎりをゴクリと音を立てて飲み下した。