マリッジブルー/ムーン
月に新居が欲しいと言い出したのは、彼女の方だった。
「一緒に住んだら、赤ちゃんが欲しいの」
彼女のひとことだけで、僕の心は、ふわふわと月の裏側まで飛んでしまった。
*
それから僕は、月探査ロケットみたいに忙しく走り回って、来年、月面に作られる予定だというマンションのモデルルームを探し出した。
部屋の入り口には、電気のスイッチのかわりに、宇宙船の操縦に使うような小さなレバーがついていた。
月の重力は、地球上のそれとは違って、かなり小さいらしい。月での暮らしがリアルに体験できるように、モデルルーム中の重力が自由に調整できるしくみになっているんだそうだ。
「せっかくだから、重力ゼロにしてみない?」
彼女は目を輝かせた。
「でも」
僕の心臓は、無重力とは違うことにときめいて、ドキドキと波打った。
「その格好でいいの?」
僕は言った。
彼女はふんわりとしたロングスカートを履いていた。
*
無重力になった空気の中にぽっかりと浮かんで、彼女は人魚みたいな姿で泳いでいた。
フリルのついた裾が浮き上がらないように、ゴムでくくってまとめたスカートは、魚の尻尾みたいに見えた。そのゴムで、さっきまで彼女は長い髪を束ねていたから、明るいチョコレート色の髪は、まるで波に揺られている海草のように気持ちよさそうに広がった。
彼女は泳ぐのに飽きると、ポケットから小さな袋を出して、ジェリービーンズみたいな形をしたカラフルな粒をいくつかつまんだ。
モデルルームの受付でもらった宇宙食のサンプルなんだそうだ。
「どんな味がする?」
「それって、どの粒のこと?」
「え?」
「だって、どの粒も、全部違う味がするから」
彼女は、困った顔をした。
「じゃあ、ひとつ味見させてよ」
僕は、ジェリービーンズみたいな宇宙食の袋に手を伸ばした。
強くつかんだら、カラフルな粒が、全部つるりと袋の外に滑り出してしまった。
「うわっ、どうしよう」
慌てて回収しようとすればするほどに、つるつると滑る粒は、僕の指先に弾かれて、どんどんと宙に散らばった。まるで虹を握りつぶしているみたいに、手を伸ばすたびに、七色の粒が部屋中にばらまかれていった。
「何やってるの? 食べちゃえばいいのに」
彼女はこともなげに言って、近くを漂っていたラベンダー色の粒をぱくりと口で受け止めた。
「そうか、気がつかなかった」
そうして僕たちは、小さな熱帯魚が水槽の中で食事をするみたいに、部屋の中を忙しく泳ぎまわって、お腹の中を満たした。
僕が狙っていたカナリアイエローの粒を、彼女はひらりと泳いできて、目の前でかすめていった。
「あ、それ。どんな味がするか、気になってたのに」
「あなたがもたもたしてるからよ」
勝ち誇ったようなその笑みが悔しくて、僕は彼女のあとを追いかけた。
最後の一粒は、透き通った白い色をしていた。
その粒は、彼女と僕の唇の間で、くるくると空中を回っていた。
「一緒に食べようよ」
彼女は言った。
それは、乳酸菌の入った飲み物みたいに、甘酸っぱい味がした。
*
結局、僕たちは、月のマンションを契約しなかった。
無重力の空間では、お気に入りのスカートを履けないと分かって、彼女がすごく嫌がったからだ。
月が無重力ではないことを、僕はちゃんと説明したのだけれど、彼女はどうしても納得してくれなかった。
「スカートのすそが浮くのは嫌なの。でも、宙に浮いたジェリービーンズが食べられないのはもっと嫌!」
彼女が涙を浮かべると、僕は何も言い返せなくなった。
「ちょうどいい重力の星を見つけるまで、絶対にあなたとは結婚しないからね」
彼女は言った。
*
僕は困っている。
いったいどんな星に行けば、僕は彼女と一緒に暮らせるのだろう。