07 タマヒの流れ
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翌朝、ユラ、モユル、景郎の三人は夜が白み始めると同時に家を出た。ユラの「女王に会う前にいくつか確認しておきたいことがある」というのがその理由で、一行のひとまずの目的地は、都にいくつか設けられた龍脈の霊泉の一つであった。
大通りではすでに朝市がたっており、根菜類を中心とした冬野菜、肉、魚がところ狭しと並べられ、また麺類や煮物、焼き物といった屋台も数多く出ていた。
自宅で朝食を摂る時間を惜しんだユラが出発前に大通りで何か歩きながら食べられる物を購入しようと言っていたので、モユルはさっそく目的の屋台へ向かった。
「おはよう、リクロおじさん!」
「これは巫女様、今朝も元気だね。いくつだい?」
「三つ下さい!」
「まいどっ。今日も頑張る巫女様には、一つオマケだっ」
「ありがとう! また来るね」
ほくほく顔で歩き出しながら、しかしモユルは胸中で複雑な思いを抱いていた。
今日も頑張る巫女様、とリクロは言った。
龍脈召還計画は都の極秘事業なので、公にはモユルの役割は龍脈の維持管理ということになっている。
実際には人間ごときに大いなる龍脈の制御など出来ようはずもない。しかし天下に遍く名の轟く王の名のもとに、不世出の導師ユラに直轄されているということから、龍の巫女という役職は、都の住民から絶大な信頼を得ていた。
龍脈が移動しつつあると公にすれば、徒に民の不安を煽りかねないという危険性を考慮してとはいえ、結果的に彼らを騙していることに良心の呵責を覚えつつも、これまでのモユルは確かに龍脈の監視や日々の修業、座学などで最大限の努力をしてきてはいたのだ。
しかし甲斐なく儀式は失敗し、自分が喚んでしまった景郎にまつわる諸問題も、ユラの裁量に頼る他はないという現状である。
今のモユルには、何かを頑張ろうにも、その対象すらないのだ。どうしようもない無力感がモユルの心を重くする。
――ダメだ、俯くな!
モユルは自らを叱咤した。
ここで立ち止まっていたのでは、ユラに拾われたあの頃と何も変わらない。出来ること、やるべきことを探し、また求められたことにいつでも応じられるように、自らを保たなければならない。
――笑わ、なくちゃ。
いつかユラが教えてくれた、不安に立ち向かい途を切り拓く方法。
あの時ユラは、無理矢理でもいいから笑いなと言った。そんなに縮こまってちゃ出来ることまで出来なくなっちまうよ、と。
モユルは瞬きを一つして表情を整え、ユラたちの元へ戻った。
「ユラ導師、買ってきました。リクロおじさんの唐揚げ串! 一つオマケしてくれたんですよ」
ユラはモユルの手元を見て、
「そうかい、でもあたしゃあっちの焼き魚が食べたいから、景郎と二本ずつ分けな」
と言いながら笹にくるまれた握り飯をモユルに渡した。
「あ、ソノおばさんのお握りですね、いただきます。カゲローさん、唐揚げって分かりますか」
「ああ、大好きです。こっちにもあるんですね」
昨夜の一件があるので若干引き気味なモユルだが、景郎の方は平然としたもので、さっそく串にかぶりついた。
「旨いな、これ……」
景郎が驚きの表情を見せる。
「でしょう。お握りにもよく合いますよ」
「わかります。やっぱご飯に唐揚げは最強の組み合わせだよなー」
「カゲローさんもそう思いますか」
大好物のリクロおじさんの唐揚げ串を誉められて、モユルの顔に自然と笑みが浮かんだ。何を考えているのか分からない男だと思っていたが、旨そうに串を食べている姿は、自分と何も変わらない。モユルは初めて景郎との接点を見たような気がした。
「唐揚げといえば、油通しした刻みネギを乗せたりしても美味しいですよね」
景郎が思い出したように言う。それはモユルの知らない食べ方だった。
「それは……食べたことがないです」
「そうなんですか。刻みネギを高温の油にさっと通して、軽く塩であえるんです。香りを出しつつ食感を残すのがコツですね」
想像したモユルの喉が大きく動いた。
「それはまた……美味しそうな……」
「あと邪道だって言う人もいるけど、マヨネーズつけたりするのも割と好きだなあ。あ、こっちにマヨネーズはありますか」
モユルはふるふると首をふった。
「割と簡単な調味料で、基本的なものは玉子と塩と酢と植物油があれば出来ます。まろやかなコクと微かな酸味が特徴で、お好みで色んな風味を加えたりも出来るんですよ。機会があれば作ってみましょうか」
「はい! 食べてみたいです!」
モユルの頭の中がまだ見ぬ旨いものでいっぱいになったとき、ユラが魚の串焼きを片手に帰ってきた。
「なんだい景郎、モユルを餌付けでもする気かい」
「とんでもない。唐揚げの旨さについて語っていただけですよ。ホントにこれ、美味しいなあ。この皮のところとか、最高ですよね」
モユルが大真面目に頷く。
「皮の美味しさが分かるなんて、カゲローさん、やりますね」
「あんたたち、朝からよくそんな脂っぽいものが食べられるねえ」
ユラは呆れ顔だ。しかし無理もないとは言え、これまでモユルと景郎の間にあった微妙な空気が和らいでいるのは好い傾向だと考えた。年頃の娘が嬉しそうに笑う理由に、唐揚げが適切かどうかという問題は別として、だが。
「さ、食べながら行くよ。時間が惜しい」
「そう言えば、女王に会う前に確認したいことって、なんですか」
モユルの問いに、ユラは珍しく歯切れ悪く答えた。
「んー、あまり根拠はないんだけどね、一つは、もしや龍脈に何か変化があるかも知れないと思ってね」
「変化、ですか?」
「ああ。今回の……って、こりゃこんな所であんまり大っぴらに話せない内容だねえ」
ユラは周りを気にして声の調子を落とした。
「ま、とにかく霊泉のタマヒをちょいと見てみたいだけさ。お城の霊泉でもよかったんだが、どうせ道中にあるからね」
はっきりとした事は言わないが、もしかしてユラは昨夜の儀式が完全に失敗した訳ではないと考えているのではないか――とモユルは感じた。
あまり根拠はないと言っていたが、モユルの知る限り、ユラが本当に根拠なく発言したり行動することはない。あるとすれば、昨夜の龍戦士の出任せのように他に何か思惑があるときや、単に悪ふざけをするときだけである。
モユルの期待に満ちた瞳を見て、ユラが苦笑した。
「そんなに期待しないでおくれ。本当に、あるかないかの可能性さ。……で、もう一つは、景郎の身体についてだね」
「俺の身体ですか?」
それまで黙って話を聞いていた景郎が顔を上げた。
「景郎、あんた、元の世界では戦士だったのかい?」
「いえ。子供の頃は身体が弱かったから、ちょっとした……格闘術を習わされましたけど、ケンカもしたことないです」
「なのにあんたはスサの斬撃をかわした。そりゃつまりあんたに何かが起きてるってことさね」
「それは後になって自分でも思いました。――あれ、これってチートか?」
「なんだいそりゃ?」
「いや……このテの話にはお約束の……もしかしてホントにおれの中二力が覚醒したのかと。ちょっと試してみますね」
「危ないのはよしとくれよ」
心配げなユラをよそに、景郎が何やらぶつぶつと口のなかで言い始めた。
馴染みのない意味不明な言葉を並べながら思考に没入した景郎を見て、モユルはユラに訊いてみた。
「何なんでしょうね」
「さあ。自分の世界の術式でもやってんのかと思ったけど、向こうに術式はないって言ってたしねえ」
それからもしばらく景郎は呟き続け、泉に到着した頃になって、申し訳なさそうに「すみません、ダメでした」と告げた。
「何だか分かんないけど、気にしなさんな。当面知る必要があるのはあんたに何が起こったかではなくて、その身体がどれくらい強いか、だからね。女王相手にハッタリを効かすにゃ、もう少し詳しく知りたい所だね」
ユラが笑って慰める。
「ま、それを調べるのはお城に着いてからさ。まずはここだよ。モユル、頼むよ」
「はい。いつもみたいに龍脈を探ればいいんですよね」
モユルは合わせた両手を小さな珠を包むように僅かに膨らませて、霊泉に差し入れた。毎日のように行う術式なので、いまさら結印も詠唱も必要なかったが、初心にかえるつもりで久しぶりに形式に則ることにしたのだ。
モユルは目を閉じて集中力を高め、静かに詠みあげた。
「―――天地に坐す魂霊は一切を産み育てる萬物の根源にして、吾当に其の息吹を見ゆ」
掌の中で術式法陣が展開する。後ろで景郎が「おお……すげぇチューニっぽい」とか何とか言っているが、モユルは気にせず霊泉を辿り地中深くへと意識を潜らせた。
龍脈へ辿り着いたモユルは、微かな違和感を感じた。
何かが違う。その違和感の正体を探るべく注意深くタマヒを追ううちに、モユルは龍脈の流れが幾分速くなっていることに気付いた。
龍脈の大きさは昨日と変わらないのに、速さだけが増しているのだ。龍脈自体があまりに巨大なため、これらはあくまで「そんな気がする」程度の感覚的なものだ。しかし龍の巫女となって以来、何年も毎日欠かさず潜り続けてきたモユルは、己のその直感を信じた。
しかしそれが何を意味するのか分からない。モユルはとにかくユラに報告すべきだと考え、術式を解いた。
「ユラ導師! 龍脈の――あれ?」
つい先程までタマヒの流れに意識を集中していたからだろうか、目を開けたモユルはここでも不可解なタマヒの動きを捉えた。
「どうしたんだい?」
ユラの視線がモユルのそれを追い、やがて景郎に焦点を合わせた。
「景郎がどうかしたかい」
「いえ……カゲローさん、いま何か術式を使ってますか?」
「へ? いや、使ってない、てゆーか使えませんけど」
景郎はなんのことか分からないという顔をした。景郎にふざけた様子はなく、また、ここでわざわざ嘘をつく理由も見当たらない。ならば――。
「じゃあ、どうしてタマヒを集めてるんですか?」
「――なんだって?」
ユラが改めてまじまじと景郎を見つめた。
始めからそうだと思いながらでもないと気付けないほどに非常にゆっくりとだが、確かにタマヒが景郎に向かって集まっている。いや、景郎に集めたタマヒを使っている様子もなく、正確には吸収していると言った方が近いように思えた。
「なんてこった――」
ユラが天を仰いだ。
「謎が、増えちまった」