55 これからを生きるために
女の子は名をトヨといい、貧民窟に迷いこんだサンチを助けてくれたことが交遊のきっかけだったとサンチは語った。
三つ歳上のトヨからは「ここは怖い所だから、なるべく近づかない方がいいよ」と忠告されていたが、どうしても彼女に会いたくて貧民窟へ赴いた、その矢先のことだったという。
「そうだったんですか。でも、あの時――」
モユルは、ある事実に気付いて言い淀んだ。モユルの記憶にあるのは、女の子ひとりなのだ。ではそのとき、サンチはどこにいたのか。
「ええ、僕は物陰に隠れていました。ただ怯えて、震えているだけだったんです。トヨは、僕の友達だったのに」
モユルは覚えている。あの時、暴漢たちは「この盗人が」と言っていた。女の子は何度も「違う」と言っていた。
「それを、今でも気に病んでいるんですね。でもその当時は、サンチさんもまだほんの子供だったのではないですか」
「七つでした。でも、だからといって仕方がなかった、とは言えない……言っちゃいけないと思うんです。あの日から僕は、ずっとあなたを追いかけてきました。身ひとつで理不尽な暴力に立ち向かった、あなたのようになりたかったんです」
「そんな、私は何も考えずに飛び出してしまっただけで。私の、悪い癖なんです。あの時もユラ導師が通りかかってくれなかったら、どうなっていたか」
結局その騒動は、モユルを捜していたユラ導師の手で終息した。それゆえモユルは、自分はただ騒ぎを大きくしてしまっただけだと、そう思っていた。しかしサンチは、だからこそです、と語気を強くした。
「ご自身の保身すら考えずに、身を呈してトヨを守ろうとしていた姿を、僕は忘れません。巫女様、あなたはきれいです。きれいで、強くて。この世で一番素敵な女性です! ……だから……」
情熱的な熱弁が、囁きに変わる。
「こんな僕なんかが、あなたを好きだなんて、言えない、と……思っていました」
モユルは、先程までとは違う種類の圧力を感じた。これは、ただ惚れた腫れたというだけの話ではない。きっとサンチはいま、彼の人生にとって、とても重要な告白をしている。
恐いと、思った。こんなにも強い感情に応えるすべを、自分は知らない。
「……どうして、言ってくれたんですか」
沈黙に押されるように、モユルはやっとそれだけを言った。サンチはすぐには答えなかった。呼吸を整えようとしているのが、背中越しにでも分かる。
ふた呼吸の間を空けてサンチが次に口を開いたとき、その声は存外に明るかった。
「本当は、いつか僕があなたを守れるくらいに強くなれたら、この想いを告げようと思っていました。でもそれは間違いだったって、やっと気付いたんです」
「間違い……ですか」
「はい。いつか強くなれたらなんて、それじゃ物陰に隠れて震えていたあの時の僕と、何も変わらないんですよね」
僕はこう言うべきでした――と、サンチは大きく息を吸った。
「巫女様、どうか見ていて下さい。僕はきっと、あなたを守れるくらいに強くなります」
モユルは息苦しさを覚えた。お互いに顔を見られない姿勢で良かったと思う。自分がどんな顔をしているのか、分からない。どんな顔をすればいいのか、分からない。
少年の、あまりにも真っ直ぐな心に気圧されている。いや、もはや彼は少年ではない。弱さを言い訳にすることをやめた、一人の男だ。その真摯な気持ちに、どう応えればいいのだろう。自分に何が言えるだろう。
煩悶するモユルに、やっぱり困らせてしまいましたかとサンチが言った。
「すみません、巫女様に何かを望んでいるわけではないんです。これからの僕を生きるために、あなたへの想いと決意を言いたかっただけなんです。だからこれは、一方的な……そう、自分のためなんですよ。手前勝手ですみません」
すみませんと繰り返す言葉が、モユルの胸を刺す。
サンチが非常な勇気をもって告白してくれたことは、モユルにも分かる。それなのに自分は何も言えず、こんな気遣いまでさせてしまっている。
「謝らないで下さい。サンチさんの気持ちは、嬉しいです。本当に、嬉しいんです、けど……。ごめんなさい、私は……」
「どうかお気になさらず。巫女様ほどの方には、僕みたいな小僧なんかより、もっと立派な――」
「ち、違うんです!」
モユルは、思わずサンチの言葉を遮った。
「そ、そういうことじゃないんです。私は……分からなくなってしまったんです」
「分からなくなった、とは?」
「あの、こんなことサンチさんには言いにくいんですけど……私は、スサ様が好きだったんです」
え、スサ様ですかとサンチが意外そうな声を上げ、慌てて謝った。
「すみません、続けてください」
モユルは自嘲気味な笑みを浮かべた。
「やっぱり身のほど知らずですよね。でもスサ様は、優しくて、公正で、実直で、私のような蔑まれていた者にも誠実に接してくれるから……私にとって、ずっと憧れの方だったんです」
「だった、ですか」
サンチがモユルの微妙な心の揺らぎを指摘する。
「あ、いえ、今でもそうなんですけど……」
でも、と言いながら、モユルはマミカを思い出していた。
マミカ導師。スサへの思慕以外の全てを――人であることすら棄てた、憐れな女。
昨夜、ユラ邸から逃亡したマミカは、結局彼女が恋焦がれたスサの手によって討たれたと聞く。その末路を不憫に思い悲しくもあるけれど、それでも彼女を赦す気にはとうていなれない。
モユルは彼女の苛烈さを認められなかった。全く理解できなかった。当然だ。真っ当な判断力と理性を失い、情を棄て、嫉妬に狂ってモユルの命を狙い、あまつさえシロガネを弄んだあげくに殺したのだ。認められようはずがない。
しかしユラ導師は、マミカについて同情まではせぬものの、一定の理解はあったように見えた。
かつてユラは「愛の形は人それぞれ」と言い、昨夜も「あたしの愛は激しいよ」と言っていた。それはユラにもマミカと通ずるものがある証左ではないだろうか。
モユルには、その激しさが分からない。
そして、シロガネ。シロガネは景郎をめぐる恋敵だからと冷たく当たる一方で、陰ながら命懸けでモユルを守ってくれていた。自らの命が尽きようとしていたその間際にまでモユルを気遣い、もう泣かないでと言ってくれたのだ。
モユルには、その態度の裏腹さの理由が分からない。だから――
「最近、私の気持ちなんて、薄っぺらい言葉上だけの紛い物なのかも知れないと思わされることが、いくつもあって……。そんなだから、サンチさんにも浅はかな言葉しか返せないんじゃないかと思うと、その、申し訳なくて」
南の神域に端を発し今に至るまでの一連の出来事を詳しく語るわけにはいかず、口ごもりながら俯くと、サンチの浅いため息が聞こえた。




