05 暴走
景郎が静かに言う。
「頭を上げて下さい。それはもういいんです。ただ、元の世界に戻してくれる算段さえしてくれれば」
「それはもう最大限に努力する。だが、どうすれば帰してあげられるのか、正直お手上げなんだよ」
ユラの声は重かった。モユルも顔を上げたはいいが、座るに座れない。
「おれを喚んでしまったのは事故なんですよね? その原因は解ったんですか」
「仮説の域を出ないが、ね。でもそれは参考にならないんだ」
「おれに理解できるか分かりませんが、話してもらえますか」
言いながら手振りで着席するように促され、モユルはおずおずと席についた。
「分かった。まず今回の計画について説明させてもらうよ」
ユラは都の現状と、龍脈を喚び戻すための計画について説明した。
「計画の要は、八角堂、冬至の満月の南中時刻、そしてこのモユルと三次元術式法陣なんだ」
月の光には多量のタマヒが含まれている。正確には含まれているというより潮の満ち引きのようにタマヒを引き寄せているのだが、それが最も多くなるのが、月の軌道が最高高度を示す冬至の満月が南中したときなのだ。これは十九年に一度しか訪れない。
さらに八角堂には、七年以上に渡って龍泉の霊水から汲み上げられたタマヒが蓄積されていた。龍脈召還計画とは、宝珠に月の波動を転写した莫大なタマヒを封じることによって、擬似的な満月を造り出すというものだったのである。
「そしてその計画を可能にしたのが、三次元術式法陣とモユルの存在なんだが……」
ユラは少し言い淀んだ。
「ここまでの説明で分かったかも知れないが、今回の術式は、結界機能は別として、月の波動を転写したタマヒを宝珠に封じる機能しかないんだ。三重八相なんて御大層な構成は、扱うタマヒが莫大なため、術式法陣の強化と言霊入力による自動化がなされているからに過ぎない。だからモユルの主な役目はタマヒを術式法陣に注ぎ込むことだけだったんだよ」
ユラは景郎を見つめ、自らの言葉が通じていることを確認した。
「故に、術式が失敗したとしても、別世界からナニモノかを召喚してしまうなんて事態は起こるはずがないんだ。さっきモユルが言ってた波紋による干渉は、皆無とは言わないが可能性としては極めて低い。もちろんじっくりと検証はするが、変形する幾何模様によるタマヒ干渉は、既存の術式体系には存在しない」
モユルが鋭く息をのんだ。
「そんな。それじゃまさか……私。そんな」
ユラは、うわ言のような呟きをもらすモユルを哀しげに見たが、それでも語ることを止めはしなかった。
「さて、ここでモユルについて話させてもらうよ。この娘はね、八年前に貧民窟で私刑にあって瀕死になってたところを、あたしが拾った娘さ。私刑の理由は……この娘が化け物だってんだよ」
景郎の表情は動かない。否、全ての感情が削げ落ちている。
「モユルには二つの特異な才能があった。一つは、常人なら瞬時に魂が消し飛ぶほどのタマヒにも堪えられる、桁外れの許容量。もう一つは」
モユルが痛みに耐えるように身体を強ばらせた。
「本人の意思とは無関係に発動する──魔法の力さ」
景郎が無表情なままユラを見た。
「魔法というのはね、本来は海の向こうの遠い国や個人で開発した邪法などの、既存の認知された術式体系にないものを指す言葉だが、この娘の場合は、符も結印も言霊も術式法陣もなく、タマヒの活性化すらほとんどなく、通常あり得ない効果を持って突然発動するんだよ」
モユルは思い出す。
──あの時。あの子をどうしても助けたくて。
──私たちを殴っていた男の腕が。
──内側から。
モユルは両手で顔を覆った。
「モユルは元はもっと西の方の生まれなんだが、この力のせいで親に捨てられ、各地を石もて追われてこの都に流れついたんだ。そしてここでも力が暴発して化け物扱いされていたところを、術式研究の好奇心で拾った。そして力の制御の修行過程で桁外れの許容量があることが分かって、理論上のものでしかなかった龍脈召還計画が実現可能になったというわけさ」
ユラは淡々と語る。
あえて景郎の同情を引く言い回しをしているが、頭の回る景郎のことだ、ユラの詭弁など見抜いているに違いない。
しかし景郎は何も言わなかった。
「それで、結論の前に、最後に景郎とモユルに一つずつ質問だ」
ユラはまず景郎を見た。
「景郎、スサに向かってチューニングについて語っていたが、ありゃ本当かい? あんたはチューニング能力者なのか?」
景郎はゆっくりと首を振った。
「いいえ。子供の自意識過剰さや妄想癖を揶揄する中二病という言葉はありますが、チューニングというのは、完全に口から出任せです。さっきも言いましたが、あっちの世界に術式は……ないんです」
「分かった。ではモユル。術式の最中に、タマヒを注ぐ以外のことを考えなかったかい」
ユラがモユルを見た。
そうだ、あのときモユルは想ってしまったのだ。
あれほどタマヒを通す導管になることだけに集中しろと言われていたのにもかかわらず。
「考え、ました。龍神像の目が落ちたとき、龍神様お護り下さい……と。それと同時に宝珠が爆発したんです」
「そうかい……」
ユラの表情は苦い。
「以上のことから、景郎召喚の原因は、モユルの魔法が発動してしまったためだという可能性が最も高い。しかし、ならば何故カゲローが選ばれたのかという疑問は残る。景郎の生まれた日が十九年前の冬至の満月の日だったことも何か関係があるかも知れないが、それだけの条件なら他にも数えきれないほどいるから、これは今のところ何とも言えない。そして」
ユラは指を三本立てた。
「一つ、次の冬至の満月は十九年後であること。二つ、八角堂に蓄積したタマヒを消費してしまったこと。三つ、モユルの魔法が発動したのは八年ぶりで本人にも制御が効かず、どの術式体系にも属さないために擬似的な再現も検証もできないこと。これらの理由により、現時点では景郎を元の世界に戻せる手段も見込みもないと言わざるをえない」
「そう……ですか……」
景郎はうつむき、目を伏せた。
モユルには、かける言葉がなかった。
景郎はいわば拉致されたにひとしいのだ。景郎にも己の日常はあったろう。親も友人も、恋人もいたかも知れない。
モユルはこの都に流れ着くまでに、戦や災害によって親や子や、友や恋人を奪われた人々を見てきた。
天涯孤独だったモユルにはその哀しみすら時には妬ましかったが、いまなら彼らの気持ちが分かる。
もし、ユラやカグチ、スサたちが何者かに奪われてしまったら。もし、自分がどこかに飛ばされて、再びひとりぼっちになったら。
自分は、耐えられるだろうか。
そしてそれを景郎にしたのはモユルなのだ。
どう償えばいいのか。何をもって報えばいいのか。
何か、言わなければ。
しかし言うべき言葉が見つからない。
「あ、あの」
「……っ……い……」
うつむいたまま、景郎がぼそりと呟いた。小声なのでよく聞き取れない。
「な、なんですか」
景郎は顔を上げモユルを見つめて、今度ははっきりと言った。
「おっぱい」
言葉の意味が浸透するまで、しばらくかかった。
「……は?」
ぬがあ、と雄叫びをあげ椅子を倒して、突然景郎が猛り狂った。
「早い話がモユルさんのせいだってことじゃないか! どうしてくれんだおっぱい!」
「え、え?」
意味が分からない。いや、分かるところは分かるが最後の部分が分からない。それはもう壊滅的に分からない。
「だからおっぱい! おっぱいだよモユルさん!」
「なななに、何なの? ……まさか!」
反射的に胸を庇って飛び退く。椅子が倒れる。
わははははと景郎が笑った。
「察したよーだなモユルさん。そーだ、その通りだッ」
モユルの中で何かが壊れた。
「ひ、酷い。真剣に悩んだのにっ! ど、どうやって謝ればいいか、償えばいいかって……!」
無力感、罪悪感。それらがまぜこぜになって、どん底まで落ち込んでいたところに、またこれだ。涙がにじんだ。
「だからおっぱいで償わせてやると言っている。ほれ見せろいま見せろ全部見せろ。ちちー。ちちー」
「ち、ちちとか言わないで下さいっ」
「じゃあ、しりー」
「同じです! だだ、駄目ですっ!」
後じさる。
なんなのだこの男。訳が分からない。なんでこうなる。どうしてこうなった。
「じゃーやっぱりおっぱい。おパイ、オパーイ!」
再び高笑い。
「なに考えてるんですかっ、こ、こんなことで」
でぇいっ、と景郎が気を吐いた。
「十代の性衝動を甘く見るなよ! 時としておっぱいは、平穏な日常をも凌駕するのだッ」
「え、それじゃホントに、これで、許して……?」
どうせ既に一度、いや二度も見られているのだ。ならば……と思いかけたとき、
「あ、迷った」
「迷っちまったねえ」
横から呑気な声が聞こえた。
見ると、ユラは呆れ顔、カグチは何故か微笑んでいた。あまりのことに忘れていたが、そういえばここにはユラとカグチもいたのである。
ならばどうして助けてくれないのか。ユラは怪しいところだが、カグチなら真っ先に助けに入ってくれてもよさそうなものなのに。
分からない。分からない。
モユルの混乱が加速する。
何故か不敵に微笑して、景郎が言った。
「では見せて貰おうか、龍の巫女のおっぱいの性能とやらを!」
両手を差し上げ、わきわきと動かす。
「そ、その手はなんです!」
「うふふふふ、痛うない、痛うないぞう。すーぐ終わるからねええええ」
世にも邪悪な笑みを浮かべ、景郎がじりじりと迫る。
「ひっ」
背中が壁にぶつかる。もはや逃げ場はない。
「モユルさんモユルさんモユルさんモユルさん」
「え、ちょっと。あの。……だ、だめ……」
「モユルさんモユルさんモユルさんモユルさん」
「い」
キレた。
「いやーーーーっ!」
夢中で出した手刀は見事に景郎の首筋に直撃し、景郎は「モルスァ」かなんか言いながら凄い勢いでぶっ飛んだ。
派手な音を立てて壁に激突、そのまま動かなくなる。
荒い息をつくモユルの目に大粒の涙が浮かんだ。
謝りたかったのに。どんなことをしてでも元の世界に帰そうと思ったのに。
こんな。人の弱味につけこんで。こんな。こんな男。変態男!
「馬鹿ぁー!」
泣きながら奥の部屋に駆け込む。
後には椅子に座ったままのユラ母子と、芸達者にも両手をわきわきさせながら倒れ伏す景郎が残された。
「やれやれ、夜中だってのに、近所迷惑もいいところだよ」
ユラが大げさなため息をつき、カグチが微笑んだ。
「カゲローさんって、馬鹿だね」
「ああ」
ユラは苦笑した。
「本当に、馬鹿だねえ」