04 平行世界
3
「一度目は事故、二度目は過失、じゃあ三度目はどうなるんだろうねえ」
眩しいほどの満月、その深夜の下町に、笑いを含んだユラの声が吸い込まれてゆく。応じる小声は景郎だ。
「妙なフラグを立てないで下さいよ。……ちょっと嬉しいけど」
モユルは景郎を睨んだ。また意味の分からないことを言っている。ただ後半部分にはカチンときた。
「カゲローさん」
「だって、俺だって見たくもないとか言ってもハラ立つでしょ?」
「…………」
「はは。景郎の勝ちだね」
ユラが早々に景郎へ軍配を上げ、モユルは軽く眉間に皺をよせた。
確かに一言で論破されてしまったが、ならば黙殺してくれれば……いや駄目だ。きっと、それはそれで腹が立つ。
早い話がこの話題が出た時点で、どう転んでも面白くない決着がついていたということである。
「ユラ導師のいじわる……」
「いいじゃないかお尻くらい、減るもんでもなし。景郎、なんならあたしのも見るかい? ちょいと自信があるんだ」
ユラは二度ほど腰を振ってみせた。
「ユラさん、またおれを嵌めようとしてるでしょ」
景郎の応答はさっきよりも慎重だ。
ユラが目を細めた。
「あんた、やっぱり頭が回るね」
「勉強は得意だけど、頭がいいかどうかは判りません。本番に弱くて受験にも失敗したし……」
モユルは少し興味を引かれた。いつまでも怒っていても仕方がないので、自分も会話に参加することにする。
「受験って、何のですか。任官試験?」
「いやいや勉学の方。学校の。わりと高等な。大学っていうんだけど」
「カゲローさんは学校に通えるような身分の方なんですか!」
「なんか学校についての認識にズレがあるみたいだけど。あっちの、俺の住んでる国ではわりと普通のことで、難易度の差異はあるけど、その気になれば誰でも行けるんだ。でも」
「高等な教育を受ける資格があるか、ふるいにかけられるんだね」
察したユラが引き継いだ。
「それに失敗したんですよ。当日に熱を出したり、緊張感に負けたりで」
「ふゥン……。で、あんた、いくつなんだい?」
「じゅうは、いや十九です」
「ん?」
「今日は、いやもう日付が変わってるから昨日か。誕生日だったんですよ」
「あらあら、それは」
「めでたくも何ともないですけどね。本試験まで一ヶ月切ってるし、誰かが贈り物をくれるわけでもないし。せいぜい祝いの……あ、ケータイ!」
景郎が体のあちこちをまさぐった。
「置いてきちゃったか……。電波がなくても色々できたのに」
「携帯? ポケットなのに携帯?」
「ポケット?」
景郎が目を剥いてモユルを見た。
「な、なんですか?」
「ポケットは通じるのか……。だめだ、分からない」
「何がです?」
「モユル、景郎が言葉を選びながら喋ってたのには気付いてるかい?」
モユルはこれまでの景郎の言動を何となく思い出して、首をひねった。そのわりには時々意味の分からない言葉を使っていたように思う。モユルの不思議そうな顔を見て、ユラが捕捉した。
「選びながらというより、試しながらと言った方がいいかね。今だってあちこち眺めながら歩いてるのは、自分の世界とどう違うか探ってるのさ」
「すぐには帰れそうにないし、現状把握をしたいだけですよ」
モユルはそれなら役に立てるかも知れないと考えた。自分のおつむの出来があまりよろしくないことは嫌というほど自覚しているし、術者としても未熟で、唯一の取り柄はユラが言うところの「冗談みたいなタマヒ許容量」だけなのだが、そのただ一点のみに拠って立っていた龍の巫女の役目――龍脈召還計画すら失敗してしまったいま、わずかでもユラの手助けができる事はないかと悩み、少し落ち込んでいたのである。
「それなら色々聞いて下さい。協力します」
勢い込んで言うモユルを、ユラが優しく見つめた。
「そうしな。分からないことは分からないって言うようにね。それで景郎、あんたにもひとつ忠告だ。まず、現時点でこの世界をどう理解してる?」
景郎は少し考えてから、喋りだした。
「まず俺の世界との決定的な違いは、術式の有無ですね。あっちの世界には術式はない、とは言い切れないけど、まあないです」
「え、ないんですか?」モユルは落ち込んでいることも忘れて景郎を見た。「だってさっき、魔法とかチューニングとか言ってたじゃないですか」
景郎が苦笑する。
「いや確かにかつてはあったとされていたし今でも行使する人はいるし、ものによっては効果があったりもするけど、それはたぶん魔力――えーと、タマヒですか? タマヒみたいなものが媒介しているわけじゃなくて……っていうか、ちょっとややこしい話なんで、ないってことにしておいてくれます?」
「はあ……」
なんだかよく分からない。
「で、まあないんですけど、そのかわり機械的な技術はこちらより遥かに進歩していて、あやふやな知識で判断するとですけど、」
景郎はぐるりと辺りを見渡した。
「どうにもちぐはぐなんですよ。全体の印象としてはかなり古い水準なのに、所々びっくりするようなものがある。例えばあのお屋敷のガラスなんか、あっちの世界並みの透明度だし、時計塔なんてものまであるし。まるで戦国時代が江戸をすっ飛ばしていきなり文明開化しちゃったような……。いや、日本は鎖国なんかしてたから近代化が遅れたわけで、ヨーロッパみたいな……いやそれでも不自然か? ああ、やっぱりわからん! 工業史なんて詳しく知らないし、せめて大学に受かってたらもうちょっと何か専門的な視点が持てたのに!」
景郎は自らの考えに埋没するあまりか、モユルには分からない言葉をたくさん使った。なるほど、確かにさっきまでは言葉を選んでいたのだ。
ユラが笑って景郎を宥める。
「景郎、その辺にしときな。忠告ってのはそこさ。あんたは二つの世界のモノを比べて当てはめて、この世界を把握しようとしてるだろ。これがあるならこれもあるはず、あれがないならあれもないだろうってね。そのやり方で正しいけど、あんまり突き詰めない方がいいね」
「突き詰めるな、とは?」
「さっき自分で言ってたじゃないか。そっちの世界にゃ術式や魔法がなくても、こっちじゃタマヒが世界の根幹で、術式でそれを行使してるんだ。どれだけそっくりに見えてたって、根っこが違うんだよ」
「……ああ、そうか」景郎は何かを悟ったようである。「こんな短時間でそこまで見通しているんですか」
「あたしならそうするって思っただけさ」
モユルは不安になる。話についていけない。こんなことでは、何の役にも立てないのではないだろうか。
「モユル、難しい顔をしてるね。また落ち込んでるんだろ」
モユルの頭をユラがポンと叩いた。当たり前のように見抜かれている。
「簡単なことだよ。色んなものをいっぺんに関連づけるんじゃなくて、地続きの狭い範囲を少しずつ確実に大枠にはめていけって話さ」
まだ分からない。
「具体的には、そうさね、まず景郎が召喚されたとき、あんたのそのおっぱいを見て、これは女だと判断するだろ。で、きゃーとか言って騒ぐから、自分のような男もいるだろうし、貞操観念が近いことも大体分かるね」
モユルは、世にも情けない表情になった。
「で、そのあと現れたあたしにもおっぱいがあって、スサにはないから、この世界には少なくとも男と女がいることが確定する。もしかしたら景郎の世界の女には犬猫みたいに六つも八つもおっぱいがあるかも知れないし、あたしらの知らない三つ目の性別があるかも知れないけど、そういう部分はひとまず置いておくのさ」
「あの、分かりやすいんですけど、その例えはちょっと……」
大丈夫ですよ、と真顔で景郎が言った。
「あっちでも、女の人のおっぱいは二つです」
「大丈夫ってなんですか大丈夫って」
咄嗟にどう反応してよいか分からず、とりあえずモユルは射殺さんばかりに景郎を睨み、ユラがやれやれとため息をついた。
「あんた、頭は回るけど、馬鹿だねえ」
「すみません」
景郎が真顔のまま謝る。何を考えているのか、さっぱり分からない。
モユルの訝しげな視線に気付いてか、景郎が話題を変えた。
「ところでさっそく質問ですけど、ユラさんって何者なんですか? なんか規格外な感じがしますけど……いろいろと」
何者とは景郎にこそ聞きたいとモユルは思ったが、ユラがその性格も含めて規格外なことは確かである。
「ユラ導師はこの世で一番頭が良い人です!」
「導師とは?」
「この龍の都お抱えの研究者だね。タマヒや術式が主だけど、機械技術もちょいとね」
「ユラ導師は普通の研究者の枠に全く収まってないじゃないですか」
研究者と言えばそれまでだが、ユラの研究は術式の体系化に始まり新術式の開発や簡略化、機械との融合、自動化など、他の研究者のそれを遥かに超越している。
中でもタマヒや術式法陣が視えない者にも機械化と自動化理論によって行使可能にしたことは、正に前人未到の偉業であった。
モユルがそう言うと、ユラはまあね、とおどけて胸を張った。
「確かにあたしは天才さ。でもね景郎、本当に規格外と言うなら、そりゃモユルだよ」
「そうなんですか?」
「ああ、この娘はタマヒに愛されてる。それはつまり世界に愛されてるってことさ。……モユル、言ってもいいかい?」
ユラが言おうとしていることを察したモユルの顔が強ばる。
「……はい」
どうして景郎にそこまで教える必要があるのか分からなかったが、モユルにとってユラは絶対である。ユラはモユルの命の恩人であるだけでなく、魂までも救ってくれたのだから。
モユルの様子に何かを感じたのか、景郎がたじろいだ。
「いや、言いにくいことを無理には」
「いいから聞いておきな。これはたぶん、あんたにも関わることだよ」
「はい?」
「まあ、その話は中でしようか。ほれ、あれが世界一の天才、ユラ導師の住処だよ」
ユラが指差したのは、周囲と比べて何の変哲もない民家だった。
「普通の家ですね?」
「言いたいことは分かるよ。スサとの話で、あたしが王族ゆかりの人間なんじゃないかってんだろ。あたしはね、先王の後妻候補というか愛人みたいなもんだったのさ」
「ああ、それで義母上か。それにしても」
「まあとにかく、入った入った! カグチ、帰ったよ!」
ユラが建て付けの悪い引き戸を開けると、土間の奥から体格の良い少年が顔を出した。
「お帰り母さん。お客さん?」
「カグチ、久しぶり!」
モユルがユラの横をすり抜けてカグチに抱きついた。
「モユルねえさん。久しぶりって、十日前にも来たじゃないか。あ、また落ち込んでるの?」
「う……分かる?」
モユルが半歩退き、カグチが微笑んだ。
「そりゃ分かるよ。そちらは?」
「龍戦士景郎。都を救ってくれる英雄さ」
ユラに紹介され、景郎がずいと前に出る。
「ぬおおモユルさんに抱きつかれるとは何とうらやまジェラシいっ。許さんぞ小僧め!」
「龍戦士カゲローさんですか。初めまして」
にこやかに挨拶され、拳を震わせて怒りの表現をしていた景郎がぴたりと止まった。
「えーと、なんだこの怪しい奴は、とか思わないの?」
「母さんの人を見る目は確かですから」
事もなげに答える。
「なにこの落ち着き……。あの、君いくつ? ユラさんの子供にしては大きい気がするけど」
「ああ、母さん若作りだから。十四才、実子ですよ。さ、狭い所ですみませんが中へどうぞ。いまお茶を淹れますね」
母さん案内して、と言い残して奥へ引っ込むカグチを見送りながら、景郎が大物だ……と呟いた。
「どうだい、ウチの息子は凄いだろ」
ユラが嬉しそうに言う。
「あんなんだから、王族の連中がカグチをよこせってうるさいんだよ。特にスサが」
「士官させろじゃなくてよこせ、ですか」
「胤は先王だからね。あたしもろとも身内に引き込んで利用したいんだろうけど、あたしが好きだったのは賢王マハラ・ナギじゃなくて、下町をぷらぷら歩いてたイサって遊び人のおっさんだからね」
「なんか複雑な事情がありそうですね」
「なに、記憶をなくして行き倒れてた妙な女を、身分を隠した金持ちの酔狂なおっさんが拾ったってだけの話さ」
「……なんか凄いこと言ってませんか?」
景郎が困ったようにモユルを見る。モユルは頷くしかない。
ユラにかかると、たいていのことは大したことではなくなってしまう。人としての器が違うのだ。
それはあまりにも大きすぎて、結果として変人にしか見えなくなってしまっているが、当の本人は全く気にしていない。でもそれでいいんだろうと思う。
「母さん何やってんの、早くお通ししなよ」
カグチが顔を出してユラを呼んだ。
「はいはい、いま行くよ」
ユラに続いて土間を抜け、畳敷きの座敷に上がる。
「おお、畳座敷に椅子と机だ」
ユラが相変わらず妙な所で妙な反応を見せる景郎とモユルを並んで座らせ、自らも向かいの席についたとき、カグチが盆に茶を載せてやって来た。
「僕、どうしよう? 席を外した方がいい?」
ユラは少し考えて、
「いや、眠くなければここにいな。たぶんこの景郎を何日か預かることになると思うからさ」
と言って隣の椅子を引いた。
カグチが無言で座ったのを見届けると、ユラは景郎を真っ直ぐに見て、机に両手をついた。
「まず、景郎。あんたをこっちに喚んじまったことを、計画責任者として謝罪する。すまない」
深々と頭を下げるユラを見て、モユルは蒼白になった。
そうなのだ。景郎は来たくてこちらに来たのではない。無理やり召喚された被害者なのだ。
しかも自分はその実行者だったのに、謝罪どころかおっぱい魔王と罵り、変態だの何だのと思っていたのである。
己の失敗と裸を見られたことばかりに気がいって、そのことを完全に失念していた。
モユルは弾かれたように立ち上がった。




