31 「解ってるよ」
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ユラの研究室の前で、モユルは少し緊張していた。
さっきまであんなにユラに会いたかったのに、いざ会うとなると、自分が南の神域でやってしまったことを色々と思い出したからである。
普段から「あんたはすぐに思い詰めて周りが見えなくなるから、よく気をつけな」と口を酸っぱくして言われているのに、今回も任務外の行動をして、あまつさえ死にかけたのだ。
神殿の手前でスサに会った時も、崖から突き落とされて殺されかけましたなどとは言っていないが、手足や顔にできた細かい擦り傷や引っ掻き傷は一目で見つけられて、大げさに心配されてしまっていた。
危ない目に逢うのは自業自得と承知しているが、それで心配されてしまうのは、なんとも心苦しい。
モユルは、開け放たれたままの研究室の入り口の陰に隠れるようにして、そっと声をかけた。
「あの、ユラ導師。ただいま戻りました……」
「モユル!」
ちゃぶ台で湯呑みを片手に、頬杖をついて何かの書面を仏頂面で眺めていたユラは、恐る恐る声をかけたモユルを見るや、乱暴に湯呑みを置いて立ち上がった。どすどすと床を踏みしめて近付くと、モユルの腕を強く引き――
「よく無事に帰ったね!」
渾身の力で抱きしめた。
「ユラ導……く、苦し」
巨大な胸で圧殺せんばかりの抱擁に、モユルが苦しげに呻いたが、ユラは力を緩めない。
「お黙り。さんざん心配かけたんだから、これくらいさせな。その様子じゃ大したことなさそうだけど、スサからあんたが怪我をしていると聞いて、あたしゃ気が気でなかったよ」
それから、眩しげに目を細める景郎に礼を言った。
「景郎、モユルを守ってくれてありがとうよ。欲を言えばこの娘の無茶を止めて欲しかったところだけどね」
止めて聞くような娘じゃないけどさ、と苦笑するユラに、景郎が思い出したように質問した。
「そう言えばユラさん、前に記憶を失って行き倒れていたって聞きましたけど、記憶は戻ったんですか。他に家族は?」
「あたしの家族は、カグチと、この娘さ」
「……そうですか」
ユラの答えは婉曲的だったが、景郎はそれ以上の追及をしなかった。
「ところで、その家族が窒息しかけてますけど、いいんですか? なんかぐったりしてますよ」
「ん? ああ」
忘れてた、と言ってユラが力を弛め、モユルはようやく熱烈な抱擁から逃れた。
「もう、ユラ導師ったら。死ぬかと思ったじゃないですか」
モユルは赤い顔をして、ぜいはあと荒い息をついた。もがくのをやめたのもこの顔色も、実は呼吸ができなかったからではなく、ユラに家族と言われて嬉しかったからなのだが、素直にそれを表現するのは何だかとても気恥ずかしくて、照れ隠しに軽くユラを睨んだ。
「あっははは、ごめんよ。まあ、とりあえず入んな」
「シロガネも入っていい?」
快活に笑って皆を招き入れようとしたユラに、シロガネが改めて許可を求めた。
これまでもシロガネは、初めて来た場所では必ずそうしていた。マミカにそのように躾けられたのだろう。
「おや、行儀のいい子だね。かまいやしないさ、おいで。今から少し退屈な話をするから、なんならあたしの膝で寝てるかい」
ちゃぶ台の前であぐらをかいたユラが、膝をポンポンと叩いて手招きする。
シロガネはユラに近づいて鼻を寄せると、まじまじとユラの目を覗きこんだ。
「お前、だれ?」
「誰? ああ、名前か。あたしはユラだよ」
「ユラ! ユラ、好き!」
「よしよし、いい子だね」
ユラは、膝に頭を乗せて嬉しそうに尻尾を振るシロガネの首筋を優しく撫でてから、あ、と言った。
「しまった、これじゃお茶を淹れられないよ」
「ああ、私が淹れますよ」
まだ腰を落ち着けていなかったモユルが、ちゃぶ台の急須を取り上げて茶箪笥に向かった。
急須の中にお茶が残っていないことを確認して茶葉を入れ換えていると、ユラが茶箪笥の上の盆を指さした。
「そこの盆にさっきカグチが届けてくれた団子があるから、ついでに持ってきておくれ」
「はい。さっきスサ様と一緒のところに会いましたよ」
モユルは自分と景郎の分の湯呑みを取り出して、急須と一緒に盆に乗せて戻り、ちゃぶ台の上で練火盤にかけられたままのヤカンから湯を注いだ。
練火盤というのは、タマヒを封じた珠を動力源として、術者でなくとも練火の術式を行使可能にした、ユラの発明品の一つである。
神域手前の小屋で景郎が料理の際に火力源としたのもこれで、「あ、このつまみで火力調整するのか。カセットコンロみたいだな」などと言いながらあっさりと使いこなしたことは、モユルにとって驚きであった。
その景郎が、ユラの向かいに座りつつ式銃を取り出した。
「ユラさん、これ。お返しします。お陰で助かりました」
「おや、タマヒがほとんど減ってないね。あんまり使わなかったのかい」
式銃の珠を見たユラが、意外そうに言った。
「え? 使いまくりましたけど。けっこー乱射したし」
「ほう、それじゃ自分でタマヒを入れたのかい」
「自分で?」
「ああ、説明してなかったっけ。この式銃やら練火盤やらはね、本体に術式を仕込んでるから、珠はただの動力源なんだよ」
珠や引き金、範囲設定つまみなどの術式装置は、あくまでタマヒを扱えない非術者のためのもので、術者ならそれらを使用しなくとも作動するんだ、とユラは言った。
もちろん、熟練度合いにもよるがタマヒを扱うにはある程度の精神集中が必要なので、その手間を省けるだけ術者にとっても有効ではある。
ユラはふうむ、と思案深げに鼻から息を吐いた。
「じゃあ無意識にやってたってことかねえ。その身体のことといい、あんたならありそうな話だが」
「モユルさんに教わってちょっと試したんですけど、まだタマヒは扱えないんですけどね。それで身体と言えば、ちょっと相談、というか報告が」
景郎は左手の人差し指を口元にやり、歯で皮膚を浅く噛み千切って差し出した。
「見て下さい」
「ほう……」
ユラが興味深げに観察する。
しばらくすると、薄く滲んだ血がタマヒに分解され始めたのである。
景郎は続いて傷口を擦って血を拭い、周囲の皮膚を圧迫した。
「ほら、血が止まってます。もう治りかけてるんだと思います。たぶん、ここも」
そう言って服の裂け目を捲り、右の脇腹を見せる。
ユラはそこに晒が巻かれていることを確認して、眉をひそめた。
「血の跡がないから、もしや服を裂かれただけかとも思ってたんだが……やっぱり、違うんだね」
「はい。カムト化したマミカ導師に浅く斬られました。モユルさんに治療はしてもらったんですけど、出血はその前から止まっていたし、帰り途であまりにも傷の違和感が無さすぎたから、今と同じことをやってみたんです」
確か治癒術式というのは綺麗さっぱりと傷を治せるものじゃないんですよね、と景郎は言った。
「髪の毛も抜くとタマヒに分解されました。たぶん、垢とかフケも、できたそばから分解されているんでしょうね。そんなものが出てるとすれば、ですけど」
淡々と語る景郎の姿に、モユルは胸の痛みを覚えた。
景郎の身体が人のものではないことは、神域への道中で、いや、下町の霊泉で彼がタマヒを吸い寄せていると分かった時から予想できていた。
しかしそれが意味することを考えるのが恐くて、その先を考えることが恐くて、伝えるべきか躊躇しているうちに、景郎は自分で結論を導き出していた。
ヤトギの執務室では、かもしれない、と断定を避けた言い方をしていたが、彼はいま、間違いなく確信を持って話している。
「つまり、俺の身体は――」
人のものではない。生身ではない。
その身体は神や魔と同じく、超高濃度のタマヒによって擬似的に再現されたものなのだろう。
では、元の肉体はどうなったのだ。
モユルは身震いして考える。
いつか元の世界に還してあげられたとしても、景郎はタマヒのない世界で身体を維持できるのだろうか。
そもそも人でなくなった景郎に、人並みの生活が送れるのか。神と同じ身体を持つ景郎は、恐らく神と同じように、寿命がなくなり、老いることも子を成すこともできない。
つまり真っ当な生き物としての、人としての景郎は、既に死んでいるに等しく、また彼を元の世界に還すことは、そのまま消滅する危険性すら孕んでいるのだ。
そして不慮の事故とはいえ、景郎をそんな身体にしてしまったのは、他ならぬモユルなのである。
景郎が早くも傷が治ってしまった拳を、血が滲みそうなほど強く握りしめ、噛みしめるように呟いた。
「……俺の身体は、風呂に入らなくてもいいとゆー夢のような――」
「子供かっ!」
みなまで言わせず、モユルは景郎の手を叩いた。
深刻な顔をして出した結論がそれか、と、理不尽な怒りがわいてくる。
ユラがけらけらと笑った。
「あっはっは、残念だがそりゃ違うねえ。老廃物は出ないかも知れないけど、汚れは付着するからね。やっぱり風呂は必要さ」
「くあっ、なんてことだ。盲点だったああ!」
大げさに頭を抱える景郎に、モユルは涙目で詰め寄った。
「違うでしょ! 神と同じ身体ってことは――」
「解ってるよ」
景郎が団子に手を伸ばしながら、呑気に言った。
「この身体がタマヒで出来てるなら、元の身体はどこに行ったのかとか、それとももう無いのかとか、そーゆーことでしょ? それは神殿で血がタマヒになった時にさんざん考えたよ」




