23 憑依
穏やかな勝利宣言。
しばらく抵抗する素振りを見せたマミカだったが、体力に劣り術を封じられてしまってはどうすることもできないと覚ったのか、ほどなく目を伏せておとなしくなった。
しかしモユルに高揚感など微塵もなく、喪失感にも似た虚しさが広がるのみであった。
ここで怒りに任せてマミカをひっ叩いたとしても、それでどうなるというのか。
「モユル、ご主人様、叱る?」
シロガネが不安げに近寄ってきた。マミカを案じているのだ。
モユルは首を振った。
「シロガネ……マミカ導師は、あなたのご主人様は、優しい人だった?」
「うん! マミカやさしかった。行くところないシロガネひろってくれた。いっしょにねてくれた。ここに来るまで、ずっとずっとやさしかった!」
やはりそうか、とモユルは思った。
「マミカ導師、私たちと都に戻って下さい。神域近くで魔物の目撃例が出たので、あなたは都から危険人物と見なされています。スサ様が来るとしたら、それは討伐の為なんです。でも魔物による被害が出ていない今なら、まだ間に合うかも知れません」
これまでのやりとりで、当初疑われたスサや民への害意が、マミカにはないことが推測できた。
神域を犯したことや、専門の研究が魔物を使役できるほど進んでいると報告していなかったこと、魔物による民への不安、職務放棄などの謗りは免れまいが、まさか命まではとられないだろう。
もちろんモユルの中に、理由も分からず殺されかけたわだかまりがない訳ではない。しかしその理由を明らかにし、またシロガネを思うならば、ここは矛を収めるべきだと考えた。
「マミカ導師、お願いします」
押さえつけている力を弛めるわけにはいかないが、モユルは精一杯の真摯さを言葉に込めた。
「誰が……」
マミカが閉じていた目を開いた。
「誰があんたの言うことなんか信じるもんか。スサ様は来るわよ」
その目は底知れぬ憎悪に燃えていた。
「あなたは……どうして」
シロガネと同じ問いを発したとき、モユルはマミカの瞳に宿る憎しみの、さらに奥にあるものに気がついた。
これは、嫉妬だ。
モユル個人のみに対してではない。もっと心の奥底に横たわるものを根源とした、自らの境遇を嘆き、他人を羨み妬む、被害妄想にとりつかれた者の目だ。世界を呪い絶望する者の目だ。
かつて同じ目をしていたモユルにはそれが解る。
憐れみを帯びたモユルの目差しに、マミカが激しい拒絶反応を示した。
「そんな目で見るな! あたしは美しくなった! 強くなった! スサ様に相応しい女になったのよ!」
血を吐くように叫ぶ。
「ちくしょう! お前なんか、お前なんかに!」
駄々っ子のように身をよじり、大粒の涙を流すマミカを直視できず、モユルは目を逸らした。
その視界の隅で、シロガネが突然びくりと体を震わせた。
「あいつ! あいつが来た!」
「例の魔物か! マミカ導師が呼んだのか!」
素早く反応した景郎が戸口から飛び出し、立て掛けてあった棍を構えて周囲を見渡した。
「モユルさんはそのままで! シロガネ、どこから来る?」
「わかんない! けど、すぐ近くにいる!」
シロガネが不安げに景郎とモユルたちを見比べ、モユルたち二人を庇うように身を低く構えて外の景郎を見つめた。
モユルは焦った。景郎の実力から考えて、よほど高位の魔物でもない限りそうそう後れをとるとは考えにくいが、自分が身動きできないという状況はいかにもまずい。
「お前なんかお前なんかお前なんかお前なんか──」
マミカは周囲の騒ぎなど眼中にないかのようにモユルだけを睨んでいる。
「お前なんかお前なんかお前なんかお前なんか──」
ただお前なんかとだけ繰り返すその声は再び狂気を孕みつつあり、やがてそれは耳を塞ぎたくなるような絶叫に変わった。
「ァああァアアあアぁアァぁアアあアーッ!」
モユルが得体の知れない恐怖にかられて押さえつける力をさらに強めたとき、マミカの中に突如として異質な力の奔流を感じとった。
モユルは戦慄した。この感触は人のものではない!
まさか。
「あいつ!」
シロガネが弾けたように振り返る。
まさか。
魔物は。
モユルの体が宙を舞った。
6
モユルは為す術もなく土間に転がった。何をされたのか、分からなかった。
「モユルさん!」
景郎が駆け込み、片膝をついてモユルを助け起こした。
「だ、大丈夫。それよりカゲローさん、魔物は、マミカ導師の中に」
「中だと!」
驚愕する景郎の前で、マミカが糸で吊り上げられた人形のように体を伸ばしたままの不自然な体勢で立ち上がった。
シロガネが激しく吠える。
「お前! ご主人様どこやった!」
「マミカは私ですよ? 匂いで判るでしょう」
マミカに似たそれが優しげに微笑んだ。
虹彩は赤く濁り瞳孔は縦に裂け、ぬらぬらと光る肌の表面には細かな鱗のようなものが浮いている。
「違う! 匂いは同じだけど、ご主人様じゃない! お前、あいつみたいな感じがする!」
「匂いが同じなら、私はやっぱりマミカですよ。マミカだった、でもかまいませんがね」
モユルはその言葉の意味を悟った。
「まさか……マミカ導師は、自分にも、龍を?」
「ご名答。あなたが私の劣等感を押してくれたおかげで、力の解放が進みました。それにしても、この体は窮屈ですね。少し失礼しますよ」
マミカは襟に手をかけ、一気に諸肌を脱いだ。あらわになった素肌には、やはり鱗が浮いている。
「ん、んん……っ」
恍惚とした呻きとともに皮膚が裂ける音が聞こえ、マミカの背中に濡れ羽のような黒い翼が生えた。
禍々しくも妖艶なそれは、もはや人とは呼べないモノになっていた。
「これは……」
景郎の頬を一筋の汗がつたった。
動揺を抑えきれずに戦くその様子に、モユルは景郎が戦意を失ったのではないかと懸念した。
頼みの綱である景郎が気を呑まれていては、逃げることすらままならない。
呼吸すら忘れていたらしい景郎が大きく息を吸った。
その喉から迸るのは恐怖に彩られた絶叫か。
景郎は雄叫びにも似た咆哮をあげた。
「すげぇ乳だ! マミカ導師は着痩せする人だったのかーッ!」
「アホかーっ!」
間髪入れずモユルも喚いた。予想外すぎる、いや予想通りすぎるのか、それすら分からずに泣き笑いのような訳の分からない顔になっている。
「だってモユルさん! あんなぼろーんて乳放り出してっ」
「ちちほりだしてとか言うなあっ!」
ぼろーんも嫌だ。
「だってあんな凄いの見せられたらっ」
「その手はやめーっ!」
モユルはわきわきと動かされる景郎の右手を思い切り叩いた。
マミカがうふふと笑う。
「そこの坊やはみる目がありますね。どう、美しいでしょう? なんならスサ様の前にお相手してあげましょうか」
血のように赤い舌を唇に這わせ、艶然と体をくねらせる。その姿態は全ての男の獣性を喚び起こす魔性を秘めていた。
「ま、マジで?」
景郎が勢いこんで言い、モユルは耳を疑った。
「ちょ、カゲローさん、本気なの!」
狼狽するモユルに構わず身を乗り出した景郎は、前傾した姿勢のまま左手をマミカに向かって伸ばした。
「なんてね。それはいいや。あんた、龍っていうより蛇っぽいし」
その手には、式銃が握られていた。モユルとの大騒ぎを演じつつ、密かに上着のポケットを探っていたのである。
マミカが何かを言う前に景郎は式銃を放ち、すぐさま床の棍を拾いつつ鋭く踏み込んだ。
鈍化の結界に囚われたマミカがその効果に気付いたときには、既に景郎の棍が鳩尾に吸い込まれていた。
「ぐ……っ」
マミカがくぐもった呻き声をあげてゆっくりと崩れ落ちる。
モユルは状況の変化についていけず、ふらふらと立ち上がりながら茫然と呟いた。
「え、え? もう終わったの? 」
「いや、まだ分からない。こんなに硬いとは思わなくて、だいぶ手加減しちゃったから。あの鱗のせいかな」
残心したまま少し後退した景郎が言った。
「それとモユルさん、魂の欠片ってのがどんなものかは分からないけど、少なくともマミカ導師の中にいるのはシロガネの中にいるのとは違うヤツだと思うよ」
「な、なんで?」
マミカは自分にも龍を入れたと言っていたではないかとモユルは思った。
「だって同じヤツだとしたら、お互いにあんなに嫌い合うのは不自然じゃない?」
「あ……」
言われてみればその通りである。
「じゃあ、いったい何が」
「いやそれは分かんないんだけどさ。それより、やっぱりさっきのじゃ決まらなかったみたいだ。シロガネと一緒に外へ」
景郎の言葉と同時にマミカの体が浮き上がった。
「貴様……」
その目は赤く燃え、擦過音のような呼気が景郎たちの耳を打つ。
「私を蛇だと言いましたか」
「どう見ても蛇じゃないか」
そう答えるなり放たれた景郎の突きが、着地したばかりのマミカの肩を打つ。
「ええい鬱陶しい結界が!」
マミカが結界を解くよりも早く、さらに追撃の動作に入った景郎の眼前に、突如として二つの術式法陣が出現した。
「うわっ」
驚きの声を上げつつも左下方へ回避した景郎の頭を、握り拳大の赤い光球が掠めた。
景郎は突きの目標をマミカの右足の甲に変更して浅く突きながら離脱、直後に先程と同じ光球が景郎の占めていた土間を穿つ。
そのまま大きく間合いを離した景郎が叫んだ。
「何だいまの!」
「練火! 術式で制御された火よ!」
外から内を窺っていたモユルが答えた。
モユルの立つ戸口の壁板には練火の着弾痕があり、それは木材を浅く抉り黒く炭化していた。
こんなものを生身の体で喰らえば、ただの火傷ではすまないだろう。
「無印無詠唱か。厄介な」
「これが神の力よ。私を蛇呼ばわりした報いを受けなさい」
怒りと優越感が入り交じった醜悪な笑みでマミカがさらに二つの術式法陣を展開し、連続して放った。
「くそっ」
展開と発動の間にわずかな時間差があるために辛うじて回避した景郎だが、飛び込んで攻撃するにはいたらない。
景郎がちらりと戸口を見た。
棍を思うように振り回せない不利を補うように鈍化の式銃を使ってはいるが、練火という飛び道具の前にその優位性は失われている。
さらに魔物が空から来るという前提で、モユルとシロガネをあらかじめ建物の中へ避難させつつ、外で迎え撃つ算段だったことも裏目に出ていた。
加えて景郎の動きには、全力を出すことへの躊躇いがあった。
いかに人にあらざるモノへ変化しようと、マミカは人間である。
一つ間違えると殺してしまうかも知れない、という畏れが、景郎の攻撃を鈍らせているのだ。




