20 術式発動
「さて、当面の問題は登るか降りるか、だね。降りるのは余計な加速度がない状態で式銃が使えるし、さっきので大体の要領が分かったから安全に降りられるけど……」
景郎の視線が崖から川へ移り、下流へ辿っていく。
「戻って来るのに、かなり時間がかかっちゃうね」
せめて何か綱みたいなものがあればなあ……という景郎の呟きを聞いて、モユルはあることをひらめいた。
しかし、それは……でも……と、ひとしきり悩んだモユルだが、やはり思いきって言ってみることにした。
「カゲローさん、綱の代わりなら、あるかも知れません」
「え、そんなの持ってるの? どこに?」
「私、胸に晒を巻いてるんです」
緊張のせいか、口調が元に戻っている。
「さらし? さらしって……晒か!」
景郎が訳の分からないことを言いながらモユルの胸元を注視して、モユルは反射的に腕で庇った。
「ちょっと、見ないでよ!」
「そんなこと言われても。でも、晒か……。それならいけるかも」
「本当? そ、それなら」
景郎はごくりと唾を飲み込んだ。
「じ、じゃあ、脱いで――」
「あっち向いてなさい! 馬鹿っ」
「だって顔を赤らめながらそんなこと言われたら、わしは、わしゃあもうっ……」
「カゲローさん」
「はい。ごめんなさい」
モユルの視線に殺意がこもったのを感じ取った景郎が、あっさりと体ごと背中を向けた。
どこまで本気なのか、全く分からない。
モユルは素早く服を脱いで近くの枝に掛けた。崖下から吹き上げてくる風が、あっという間に体温を奪ってゆく。
急がなければ、とモユルが思ったとき、景郎がためらいがちに声をかけてきた。
「あの、モユルさん」
「こっち見たら突き落とすからね」
「見ませんてば。マミカ導師と対決する前に聞いておきたいんだけど、あの列波とかいう術式ってどういうものなの?」
「どういうものって?」
「えーと、威力とか、射程とか、そういうの。術式法陣もなかったよね。……あ、寒いから着替えながらでどうぞ」
モユルは、思わず手が止まったことがどうして分かったんだろうと疑問に感じたが、景郎が気を遣ってくれたのだと理解した。
まさか景郎が全身を耳にして衣擦れの音を聞いていたとは、夢にも思わない。
「列波は最も基本的な術式の一つで、体内を通したタマヒを打ち出すというものなの。威力は、個人差があるけど、踏ん張ってないと転ばされるくらい、かな」
「術式法陣がないのは?」
「タマヒを運動力に変えるっていう単純な一行程だけで、回路化する必要がないから、式を省略できるのよ。威力を上げたり他の術式に組み込む場合は、術式法陣を編まなきゃいけなくなるよ」
景郎はいかにも悩まし気に首をひねった。
「そーかあ。一言で発動してたし、近づく前に手を向けられたら厄介そうだなあ」
「列波は距離が離れるほど威力が落ちるから、カゲローさんくらい体が強ければ平気じゃないかな。あ、でも、武人は体のあらゆる所から結印も詠唱もなく打てるって聞いたよ。マミカ導師も同じことを出来るかは分からないけど」
「モユルさんは?」
「え?」
再度、モユルの手が止まった。
「モユルさんもあちこちから打てる? 足からとか」
「わ、私は……ごめんなさい、列波に限らず、攻撃力を持った術式が全く使えないの」
「そうなんだ、残念」
さほど残念そうでもなく景郎は言ったが、モユルはこの際なので、ちゃんと説明しておくべきだと感じた。
「ユラ導師には、モユルも術者なんだから列波くらい覚えておきなとか、使えないはずがないだろってさんざん言われてるんだけど、人を傷つけるかも知れないのが、どうしても怖くて」
モユルは、昨夜ユラが暈して話した、〈モユルの魔法〉暴発の詳細を語った。
「これでも何度か試そうとしたことはあるんだけど……ユラ導師が言うには、その事件が足枷になってるって」
「そりゃまあ、目の前で人の腕がはじけ飛んだら足枷にもなるよな……」
景郎は同情的だが、もし自分がそれを乗り越えられていたら少しは役に立てたかも知れないのにと、モユルは少し悔しかった。
「まあ別に、反動を使ってこの崖を登れるんじゃないかって思っただけだからいーんだけどね」
「え、列波に反動はないよ。それはスサ様が得意にしてる瞬動っていう術式。どのみち武人以外が使うと危険だから私も使えないけど」
「反動がない?」
景郎は驚いたようだった。
「言われてみればマミカ導師も反動を受けてる感じがしなかったな……。人を弾き飛ばすくらいのモノを放出してるのに、反動――反作用がないってどういうこと?」
「どういうことって言われても。術者が直接何かを押したりしてるわけじゃないから?」
「それでもタマヒに物理的な性質が与えられたのなら、反作用がないわけがないんだけど……んー?」
どうしてそこにこだわるのか分からないが、景郎が何やら考え事を始めたので、モユルは着替えに集中することにした。木の上で釣り合いをとったり体を支えたりしながらなので、やりづらいことこの上ない。
「カゲローさん、ちょっとこれ、持っててくれる?」
モユルは景郎の肩越しに脱いだ晒を渡した。景郎は気のない返事をしながら受け取り、どさくさに紛れて振り向くのではないかというモユルの危惧は杞憂に終わった。
本当に読めない男である。
「あ、そうか」
モユルの着替えがそろそろ終わろうかという頃、景郎が声を上げた。
「放出したタマヒに質量を与えてるんじゃなくて、運動エネルギーそのものに変換してるんだ。となると、これはかなりの応用が……」
いきなり振り向く。
「モユルさん、おれにも列波の――」
みなまで言わせず、モユルは目突きを繰り出した。
「おわあっ!」
景郎は大きくのけぞり、またしても幹から落ちかけた。
「何すんだよ!」
「それはこっちの台詞よ!」
モユルは怒鳴り返した。
着替えはほとんど終わっており、別に見られても困ることはないのだが、許可なく振り向いたことを看過するわけにはいかない。
景郎は見るなと言われていたことを思い出したらしく、あ、と間抜けな顔をして謝った。
「ごめんなさい。でもほとんど着替え終わってたんだし、何も目突きまでしなくても。あーびっくりした」
「そーいう問題じゃないでしょ」
「うすうす思ってたけど、モユルさんて意外と直情的だなあ。おしとやかなのはスサの前だけじゃないか」
痛いところをつかれて、モユルの頭に血がのぼった。
「そ、そうよ。憧れの方なんだから、いいじゃない! どうせあたしは山出しのイモ娘よ。悪い?」
劣等感を刺激されて、拗ねたような口ぶりになってしまったが、景郎は気にした様子もなく、ごく自然に笑った。
「いや。すましてるより、こっちの方がいいよ。いつもそうしてればいいのに」
「う」
「ん?」
今のはちょっと嬉しかった、とは言いたくないモユルは、照れ隠しに景郎を睨んだ。
「そ、それで、さっきは何を言いかけたの? 列波の打ち方?」
睨みはしても、態度が軟化している。
「ああ、うん。おれも使えないかなって。かなり強いよ、これ」
「そうなの?」
「うん。でもまあ、こんな所であんまり時間をかけるわけにもいかないから、ちょっと試すくらいでいいんだけど」
モユルは考える。
この状況下で、列波を教えるというのはいかにも無茶だ。
しかし景郎には、タマヒを吸い寄せるという不思議な体質もあり、もしかしたら意外とあっさりやってのけるのではないかという期待感を抱いてしまうのも事実である。
「じゃあ、やってみよっか。カゲローさんは結印も詠唱もなしで打ちたいんだろうけど、とりあえず基本の型からね」
モユルは右手の指を揃えてぴんと伸ばし、中指を中心に手のひらを少し内側にすぼめた。
「これが列波の印。腕に沿って置いてある丸太の上に手のひらを乗せるように……そうそう、そうよ」
モユルは結印した手を少し離れた小枝に向け、景郎がそれに倣った。
「タマヒを扱うときに一番大切なのは、意思の力よ。タマヒは心に反応する。だから術式法陣に注ぐときはタマヒが術式発動の動力になることを強く念じる。列波を打つときは物を動かす力になることを強く念じる」
「念じる……」
景郎は明らかに妙な力み方をしている。モユルは言い方を変えてみた。
「想像する、でもいいよ。放出したタマヒが物を動かす力になっているところを想像するの」
「妄想なら得意だ。そうか、要するにいつもやってたことと一緒だ。そうか、それでいいのか。……今なら目からビームでも撃てる気がしてきたぞ」
モユルはビームとはなんだろうと思ったが、ちらりと見た景郎が力みの抜けたいい顔をしていたので、そのまま続けることにした。
「じゃあ、次ね。取り込んだタマヒを、管を通した水のように印から放出して――列波」
ぽきん、と微かな音を立てて、目の前の小枝が吹き飛んだ。
しかもまだ若いが故の柔らかさと靭やかさを持つ小枝を吹き飛ばすとは、普通の列波の威力を遥かに凌駕している。
モユルは意味もなく結印した手を見た。
「――あれ?」
「モユルさん、列波は打てないって言ってなかった?」
呆れたような声の景郎を見て、モユルはもう一度言った。
「あれ?」




