02 魔王
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龍の巫女──モユルは、混乱の極致にあった。
十年近い歳月をかけて計画された儀式を失敗したばかりか、集めたタマヒのほとんどを失い、魔王と名乗る人物を喚びだしてしまったあげく、その魔王が自分の──いやその先は考えまい。
ともかく反射的に放った聖杖の一撃は、数歩の距離があるため掠りもしなかったが、魔王の視線を払うことには成功したようだった。
「うおっ。あ、や、ごめ、なにこれ?」
魔王が怯んだ。
モユルは使命感に燃えた。もし彼の者が真に魔王であるならば、このような事態を招いた責任として、我が身に代えても滅ぼさなければならない。
「スサ様にも見せたことないのにー!」
ブンブンと聖杖を振り回して追いかけるが、膝までの水に足をとられて上手く歩けない。
対して魔王は、まるでそこに水など存在しないかのように滑らかな動きで後退していた。
「ちょ、待て、待って。見てない見てない! てゆーかそんなに動いたら、ばよんばよんって、あ、ちが」
モユルの頬がさらに紅潮し、慌てて身体を隠そうとして、ついに足を滑らせた。元より疲労困憊していたのだ、もはや踏ん張るだけの余力もない。
「危ない!」
受け身を取ることもできずに倒れかけたモユルを、駆け寄った魔王が抱き止めた。
「おおう……や、やわ」
モユルの全身が総毛立つ。
「放し、なさい。この──おっぱい魔王!」
「ひどいっ。それじゃまるで、おれにおっぱいがついてるみたいじゃないかっ!」
そこに女の怒鳴り声が割り込んだ。
「何を間抜けな会話をしとるかーっ!」
どばん、と引き戸を蹴倒して、毛布を担いだ大柄な女が堂内に乱入してきた。胸元を大きく開いた着物の裾をこれでもかというほどはためかせ、鬼気迫る形相で魔王を威嚇する。
「モユルっ。無事かい!」
「ユラ導師!」
「ええい離れろ下郎。あたしのモユルに何をする!」
ざばざばと水音も高らかに駆け寄る。
「よこせ!」
「はいっ、ごめ、いやすみません!」
大柄な女──ユラは、怯える魔王からモユルをかっさらい、毛布にくるんで横抱きにした。大股に泉を出ると壁際に優しくもたれさせ、強く抱きしめる。
「こんなに身体を冷やして……。大丈夫かいモユル。辛かったね」
「ユラ導師……あの、苦しいっ……」
巨大な乳房に埋もれて窒息しかけたモユルが苦しげにうめき、ユラは慌てて体を放した。
「ああ、ごめんよ。さ、楽にしな」
「すみませんユラ導師。私……」
「いいんだよ、あんたはよくやったよ」
「でも魔王が」
「魔王、ねえ……」
ユラは振り向き、いまだ水のなかでぽつんと佇む魔王に声をかけた。
「あんたもいつまでそんな所に突っ立ってるんだい、おっぱい魔王!」
魔王の肩がガクンと落ちた。
「下郎とかおっぱい魔王とか……」
「なにぐずぐずしてんだい、早く来な!」
「はいっ!」
小走りに泉を出た魔王は、腕を組むように両袂に手を入れてどっかとあぐらをかくユラに怯えながら、おずおずと近寄った。なぜかその場で正座する。
「あんた、名前は?」
「……大庭景郎です」
ユラの右眉が大きく動いた。
「大馬鹿下郎?」
「オオバ、カゲロウ!」
「冗談だよ。ああ、名乗りもせずに悪かったね。あたしはユラ、この娘はモユルだよ。さて時間がないから手短に話そうか。色々聞きたいこともあるだろうけど、まずはこっちの質問に答えておくれ」
おっぱい魔王改め大馬鹿下郎、もとい大庭景郎が神妙な面持ちで頷いた。
「あんた、魔王なのかい」
「……違います」
「だろうね。なんでそう名乗った?」
「いや、名乗ったわけじゃなくて……魔王ごっこしてただけで」
「魔王ごっこ?」
「受験ノイローゼと言うか、色々と行き詰まってて……それでストレス発散に」
ばつが悪そうにもごもごと説明する。
「のい……とか、すとれすって?」
不思議そうに質問するモユルを、ユラが宥めた。
「まあまずは話を聞こうじゃないか。それで、どうやってここに来たんだい? あんたに何が起こった?」
「どうやってって言われても。ベッドの上に立って目ぇつぶってセリフ考えて、次に目をあけたら」
「ここにいたのかい」
「はい。なんか寒いし、いつまのにか訳分かんないとこにいるし、目の前に裸の女の子がいるし、とうとう頭がどーにかなっちゃったのかと」
ユラがため息をついた。
「つまり自分がどうなったか、何も分からないってわけかい。それにしちゃ落ち着いてるねえ」
「いや今も絶賛大混乱中なんですけど」
「そのわりには余裕があるじゃないか。今もあたしの胸なんかじろじろ見ちゃってさ。あんた、おばさんでもいけるクチかい?」
ユラは今年で三十八歳である。しかし絶世の美人といってよい美貌は、彼女の歳を十歳ほど若く見せていた。しかも冬至の真夜中だというのに、防寒という概念を完全無視した露出度の高さである。ユラはからかい半分で、ほれ、と大きく開いた胸元をつき出した。
「おおっ見え……いやそーじゃなくて」
睨みつけるモユルの視線を避けるように慌ててユラの胸から目をそらしながら、しかし景郎はユラの胸元を指さした。
「その、袖口あたりから、丸い光っつーかアニメみたいな魔法円が見えるんだけど……。なんかこっち向けてませんか?」
「はァン。あんた、やっぱりこれが見えるんだね」
ユラが艶然と微笑み、袂に隠し持ったそれを取り出した。
「拳銃! いやちょっと違う?」
それは景郎の世界でいうリボルバーに酷似していた。ただし撃鉄がなく、弾倉にあたる部分には親指の先ほどの小振りな珠が取り付けられている。その珠を中心に手のひら程度の術式法陣が展開されており、それがユラの袂の生地を透過していたらしい。
「まだ試作だが、式銃と名付けた。しかしやっぱり視える相手じゃ暗器にゃならないねえ」
「しれっと暗器とか言っちゃってるし……。おれに向けてましたよね、それ」
「平和そうな顔してるから大丈夫だとは思ったけど、一応の護身用さね。──おや?」
ユラはふと自ら半壊させた引き戸の方を見た。
「もう来ちまったよ、うるさいのが」
言われてみれば、なにやら表が騒がしい。つられて同じ方を向いた景郎に、ユラは早口で忠告した。
「景郎といったね。あんた、魔王ごっこなんてしてたんだから、どうせ他の設定もあるんだろ? 今から救世の英雄とか、強くて偉そうなのを演じな。さもないと悪くすりゃ」
死ぬよ、とユラが言ったのと、 半壊状態の引き戸をわざわざ木っ端微塵に粉砕しながら、抜き身の大太刀を持った長身の美丈夫が飛び込んできたのは同時だった。
「モユル殿ォッ。モユル殿は無事か! む」
そこで思わず腰を浮かせた景郎を見るや否や──
烈迫の気合いとともに大上段から斬りつけた。
「つぇいッ!」
「ずわーっ! なんだこいつは!」
しかし景郎はほぼ膝立ちの状態だったにも拘わらず、その斬撃を飛び退くようにかわしていた。悲鳴まで上げたのは、ある意味で余裕がある証拠であったが、おそらく景郎自身はその事に気付いていない。
「おのれ生意気にもかわしたか妖物。ただちに滅殺してくれる」
「スサ! いきなり斬りかかる奴があるかい」
「義母上殿もご無事で。ふんッ!」
「だから危ないってば!」
「おやめったら」
二人目の乱入者、スサは大太刀を油断なく青眼に構えたまま、少しだけ間合いを外した。
「しかし義母上殿。このただならぬ気配、とても人とは思えません。それに自らおっぱ……魔王と名乗ったとか」
あちゃ……と呻き、ユラは額を押さえた。どうやらスサはここに来る前に、外に控えていた警備兵あたりから大まかな事情を聞いてしまったらしい。
さてどうやってスサを宥めようかと考える前に、当の景郎が喚いた。
「おっぱいとは名乗ってねえ!」
「黙れ! よくもモユル殿の純潔を!」
「どわあっ! なんか誤解してるぞあんた!」
「見られただけで、何もされてません!」
「なにい見たのか! やはり死ね!」
「わーっ、マジで死ぬう!」
「ええいちっとも話が進まんじゃないかー!」
焦れたユラがスサに向かって式銃を構え、その射線を理解して驚愕に目を見開く景郎の目の前で、一瞬の躊躇もなく発射した。
銃声のようなものは全くなかったが、その銃身から発射された何かは確かにスサの背中に命中した。
とたんに景郎に向かって踏み込もうとしていたスサの動きが止まった──否、とてつもなく遅くなった。まるで水の中で動いているかのようである。
己の身に起きた変化を覚り、スサが斬撃を中止した。構えを解きながら、恨みがましくユラを振り返る。
「……義母上殿」
「鈍化の術式さ。対象の周囲のタマヒに物理干渉させて抵抗をかける結界を張った」
ユラはスサを無視して、景郎に説明した。
「……あー。これって、魔法、ですよね。なんか薄々そんなよーな気がしてたけど、やっぱりここ、パラレルワールドなんだよな……」
景郎が呆然と呟きながら、スサを中心に球状に展開した結界に触れた。
「おおう……結構な抵抗がかかってるな、これ。泥水に腕を突っ込んだみたいだ」
目の前でひらひらされる景郎の手を、スサが今にも噛みつかんばかりに見つめている。
「景郎、そのへんにしときな。スサがまた興奮するだろ」
言われて自分の手のひらの向こうのスサと目が合ったらしい景郎が、慌てて手を引っ込めた。その猛獣のような扱いに、スサのこめかみがひきつる。
「義母上殿、結界を解いて下さい」
「ははうえはおよしったら。それにこれはモユルじゃないと解けないよ。毛布の下は素っ裸のモユルがね」
突然名を呼ばれたモユルが赤面しながら反射的に胸元の毛布をかき集め、つられたスサは慌てて目を逸らせた。
「……分かりました。しかしこの魔王は」
「だからそれはちょっとした手違い、誤解なのさ。この子はね、」
ユラは意味ありげな視線を景郎によこした。
「龍の祝福を受け、龍脈のタマヒによってこの世界に喚び出された龍の勇者──龍戦士なんだよ!」
「──!」
景郎が目を見開く。
先ほどのユラの忠告は、今この瞬間のためにされた事を理解したのだ。
既にいろいろ手遅れのような気もするが、なにしろ狂犬のような男に命を狙われているのだ。景郎に選択の余地はない。
「そうだ! 俺は──」
と、そこまで言ったところで黙りこむ。
どうやら景郎の持つ妄想設定の中に、英雄的人格はないらしかった。