18 狂風
モユルには納得できない。
景郎の言っていることは分かる。たぶんその通りなのだ。
きっとシロガネは、スサが来るまで、いつまでもここでじっと待っているのだろう。
でも、それでも。いや、だからこそ。
「だって、ただここで待ってても、スサ様は来ないんですよ!」
「いや、いずれは来ますよ。来なくちゃいけなくなってしまった。それが良いことなのかどうかは別ですけどね」
「あ……」
モユルは言葉を失った。
そう、スサは来るのだ。マミカ導師が神殿で魔物を従えているとさえ報告すれば、早ければ明日中にもスサ本人が来るだろう。
だがその場合、事態がどういった展開を見せるのか、モユルには予想がつかない。
まず間違いなく、魔物は討たれるだろう。しかしマミカ導師はどうなる? シロガネはどうなる?
モユルは身震いする。最悪の場合、マミカ導師はシロガネの目の前で討たれ、シロガネもほどなく後を追うことになる。それはあまりにも残酷ではないか。
ではどうすれば――。
「スサ、来る?」
二人が黙りこんだところを見計らって、シロガネが訊いてきた。与えられた能力の為か、本当に利口である。しかも恐らく、時間の概念まで理解している。
「うーん、すぐには来ないよ。もしかしたらシロガネのお腹がうんと減って、動けなくなるまで来ないかも知れない。それでも待ってる?」
景郎が優しく問いかけた。説得は無理だと悟りつつも、なんとかその糸口を見つけようとしているのだ。
「うん! 待ってる!」
願い虚しく、シロガネは僅かな躊躇さえ見せず答えた。
「ちょっと待って。ご主人様は、マミカ導師はあなたに何て言ったの? スサ様が来るまでずっと待っててって言ったの?」
モユルは嫌な予感がしていた。お腹が減って動けなくなっても待っているとは、尋常ではない気がしたのだ。
犬の忠誠心とはそういうものなのか、シロガネのそれが突出しているのか。あるいは――
「ご主人様、スサ来たら帰ってきていいって言った」
「そう……」
やはり、そうか。モユルは確信した。以前はどうか知らないが、今のマミカにシロガネへの愛情は、ない。これでは完全に捨て駒扱いではないか。
モユルの腹の底から、ふつふつと沸き立つものがあった。
「カゲローさん。あたし、なんかもう、だんだん腹が立ってきました」
「だんだんって、さっきからずっと怒ってるじゃないですか」
「そうじゃなくて!」
「分かってます。おれも同じ気持ちですよ」
景郎はモユルの目を見て立ち上がった。
「行きましょう――神殿へ」
3
神殿へ向かうと決めた二人はいくつかの相談の後、同時に仮眠を取った。
マミカが使役する魔物の襲撃を考えなくもなかったが、シロガネが「あいつ来たらすぐ分かる」と言うので、信用することにしたのである。
モユルは感情が昂っていたのであまり眠れるとは思わなかったが、昨夜からの疲労もあってか知らぬ間に意識を手放していたらしく、気がついたときには景郎に肩を揺すられていた。
簡単な食事をとり、シロガネを残して小屋を出た。
マミカに何の用があるのか、とは言えなかった。
木々の合間に十六夜の月が見え隠れする中、南へ、龍の神殿へ向かい歩き始める。
思ったより傾いている月を見て、モユルはずいぶん長く眠ってしまっていたことを知った。
「モユルさん、本当に大丈夫ですか」
景郎が不安げに声をかけた。
「大丈夫です。カゲローさんこそ」
モユルは虚勢を張った。二日続けての睡眠不足に加え、昨日は歩きづめだったのだ。休息を取れたお陰でかなり軽減されたとはいえ、疲れていない訳がない。
「不思議なことに、全然問題ないです。疲れはしてますが、なんてゆーか活力みたいなのが湧いてくる感じで」
言葉通り、景郎の足取りは軽い。
召喚された夜は遅くまでユラと話していたというし、昨日もスサと仕合いまでしていたのに、見た目に似合わず頑強である。それも景郎の身体に起きている不思議な現象の影響だろうか。
モユルは、自分が足手まといになっていると自覚していた。戦う力を持たないモユルに、この先、役に立てることは少ない。
スサとあれだけの立ち回りを演じた景郎だ。一人なら、もっと早く移動して、あるいは仮眠さえ取らずに奇襲をかけて、マミカが眠っているところを取り押さえたかったに違いない。
一般に導師は肉体的な戦闘能力を持たない。しかし多くは術式に長けており、攻撃術式の一つや二つは会得しているものである。
睡眠を必要としない魔物との交戦は覚悟するにしても、可能ならばマミカだけでも先に無力化しておきたいと考えるのは当然だろう。
「ごめんなさい、あたし、足手まといですね」
そう言ってしまってから、モユルは後悔した。
任務外行動を主張したのは、他ならぬ自分なのだ。弱音を吐くのは筋違いである。これではただの我が儘だ。
元より、我が儘で張った意地である。張り通さなければならない。
そう、モユルは、面と向かって言ってやると決めたのだ。
他人の心の痛みが分からないあなたには、シロガネを飼う資格も、スサ様を慕う資格もないと。
「足手まといだなんて、とんでもない。おれも一人だと心細いので。ただ、もし戦うことになるようなら隠れてて下さいね」
モユルさんに傷の一つでもつけて帰ったら、それこそスサに殺されます――景郎はそう言って肩をすくめた。
それから二人は黙々と歩き、やがて東の空が紫に染まり始めた頃、急に視界が開けた。
「これは……崖?」
「はい。神殿はこの崖沿いの……ほら、あそこに」
モユルの指差した先に、小さな建物が見えた。
「これじゃ向こうから丸見えじゃないですか。うお、けっこう高い……」
景郎が恐る恐る覗きこんだ崖下には、緩やかな清流があり、上流に目をやると、ちょうど神殿の真下あたりに滝壺が見えた。
モユルは、あれが龍が棲んでいたという淵ですと説明した。
「神殿付近に人影も魔物らしき影もない、か。せめてその魔物がどんな奴なのか知っておきたかったなあ……」
モユルと共に近くの茂みに潜みつつ、景郎がぼやいた。
都に届いた魔物の情報は「鳥ではありえない大きな影が飛んでいるのを見た」という何とも曖昧なものだったし、頼みのシロガネも件の魔物の話になると冷静ではいられなくなるらしく、何度試しても「くろい、やなやつ」としか聞き出せなかったのである。
モユルも頷いた。
「分かっているのは空を飛べるらしいってことだけですもんね……」
「その魔物がうまく留守にしてくれてたらいいんですけど……神殿と空を警戒しながら近付くしかないですね」
いつまでもここに潜んでいても仕方がない。相談の末、モユルが神殿を、景郎が空を担当することに決めて茂みから出ようとしたとき、景郎が鋭い声を上げた。
「待って、後ろから何か来る! ……シロガネだ」
「シロガネ?」
モユルが来し方を振り返ると、シロガネが恐るべき速さで駆けて来るところだった。
「カゲロ! なにしてる?」
シロガネはモユルたちをあっさりと見つけ、目の前で止まった。
「シロガネこそ、スサを待ってなくちゃいけないんじゃなかったのか?」
「さっき、ご主人様によばれた!」
「呼ばれたって……どうやって?」
「わかんない! でもよばれたの、わかった!」
景郎が渋面を作った。
「またよく分からん要素が増えちゃったな。ていうか、マミカ導師はもう起きてるのか……」
「シロガネもう行っていい?」
マミカに会えるのが嬉しいのか、シロガネは尻尾を振り続けている。
「ごめん、ちょっと待って」
景郎は俯いてひと呼吸分だけ思案顔になり、すぐに顔を上げた。
「モユルさん、おれはこのままシロガネと一緒に行きます。モユルさんはここで隠れて――」
必死な眼差しに込められたモユルの無言の訴えを察したのか、景郎が指示を変えた。
「いや、後から来て、もし空からおれに襲いかかるものがあれば教えて下さい」
「は、はい!」
「よし、じゃあシロガネ、もう行っていいよ。おれもついて行くけど先に行っていいからね」
「わかった! じゃあね、カゲロ!」
シロガネが元気よく返事をして、一目散に駆け出した。
「それじゃモユルさん、おれも行きます」
景郎も走り出す。
モユルは舌を巻いた。速い!
自分も走り出したが、見る間に離されてゆく。
しかも景郎はさらに加速し、シロガネに追いついてしまった。あれが景郎の全力か。
シロガネが嬉しそうに吠え、景郎が慌てたように人差し指を立てて口に当てた。事情を知らなければ微笑ましい光景として写ったかも知れないが、今は笑い事ではない。
そうこうするうちに、あっという間に一人と一匹は神殿にたどり着き、景郎は入口から死角になる位置で壁に体を寄せ、シロガネは中へ飛び込んだ。
モユルは必死に駆ける。神殿上空に怪しい影はない。
景郎がこちらを見て手招いた。モユルの背後と空を見てくれたらしい。
モユルはさらに駆けた。ユラに拾われて以来、ここまで全力を出して走ったことはない。息は乱れ、じわじわと手足が重くなってゆく。身を切るほどに冷たいはずの空気が、モユルの中で灼熱となる。
永遠に等しい一瞬の連続。
その無限回廊を駆け抜け、あと少し、ものの数秒で到着できるかというところで、突然景郎が手を横に振った。
モユルは迷わず横手の茂みに飛び込んだ。
勢い余って周りの低木や枝々をへし折りなぎ倒し、あちこちに引っ掻き傷をつけてやっと停止する。
それらの痛みを無視して茂みの隙間から神殿を見ると、シロガネが悲鳴とともに入口から転がり出てきた。
「ごめんなさい、ご主人様、ごめんなさい!」
シロガネは叫びながら跳ね起きて入口へ向かうが、寸前で中から伸びてきた足に蹴られ、再び地面に転がった。
「ご主人様!」
しかしシロガネは、なおもその足にすがり付くように近付き、身を低くして主を見上げた。
「なによ、なんでスサ様は来ないのよ! シロガネ! 駄目な子! 悪い子!」
入り口から女が半身を出した。街の商売女のような扇情的な服を着て、化粧は濃く、結い上げた髪が乱れるのも構わず、容赦なくシロガネを踏みつける。
あれがマミカか。
「ねえ、なんでよ! 何とか言いなさいよ!」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
「謝ればいいってもんじゃないわよ! 役立たず!」
何度も踏みつける。
酷い。シロガネが虐待されていることは予想していたが、まさかここまでとは。明らかに常軌を逸している。
「やめて!」
我知らず、モユルは駆け出していた。
視界の隅で、飛び出す機会を窺っていたらしい景郎が驚愕の表情で物陰に隠れるのが見えた。
我に返る。やってしまった。臍を噛んだがもう遅い。
「どうして、こんな酷いことをするんですか!」
酸欠の体は思い通りに動いてはくれず、ふらつきながらマミカの足下にくずおれたモユルは、それでもシロガネを庇うようにその肩に手をかけ、暴虐な飼い主を睨み上げた。
シロガネが不思議そうにモユルを見た。
「モユル?」
「モユル!」
マミカの顔が醜悪に歪んだ。その目には、疑いようもなく狂気が宿っている。
「どうしてここに……そうか、シロガネが連れてきたのね。よくやったわ、シロガネ」
酷薄な笑み。モユルは恐怖を感じた。
マミカが印を組み、モユルに向けた。
「列波」
それは、タマヒを物理的な運動力に変換して打ち出す術式。
突然の攻撃に身構えることすら出来ず、モユルは吹き飛ばされた。余波を喰らったシロガネが地面を転がっているのが見える。
「な、なにを」
「列波」
モユルに喋らせる暇すら与えず、悠然と近付いてきたマミカがさらに術式を放つ。
列波は殺傷力のある術式ではなく、威力は大人が両の手で突き飛ばす程度のものである。
しかし、吹き飛ばされた先には。
マミカが冷徹にモユルを睨めつけた。
「あんた、よくもあたしの前に顔を出せたわね。列波」
またしても吹き飛ばされる。転がった場所は、既に崖の縁だった。
景郎が何事か叫びながら駆けて来るのが見える。
しかしマミカはそちらには一顧だにせず、最後の術式を放った。
「死になさい。列波」
――そんな。まさか。……墜ちる!
宙に投げ出されたモユルに向かい、景郎が崖を蹴って飛び込んできた。




