01 序
冬至の満月が、まもなく南中する。
私は小さな天窓から堂内へ視線を戻した。
その形状から八角堂と呼ばれるこの室は、都の中央に涌く霊水を引いた人工の泉を中心に、ユラ導師の綿密な計算によって設計され、また彼女の持つ技術の粋を集めた霊的な仕掛けが全体に施された儀式用の施設である。
真円状の泉から八方向に伸びた給水口と排水口。
泉や水路の底板、柱、梁、壁面、ありとあらゆる場所に刻まれた術式。
何種類もの鏡を駆使して外から集められた月の光は八つに束ねられて、泉の中央に設けられた台座に設置した宝珠へ照射され、その反射光が堂内の構造物へ複雑な陰影を描いている。
ユラ導師はこれらを、三次元術式法陣と名付けていた。通常は平面で構成される術式法陣を立体的に編み上げ、空間そのもので術式を組むことで、従来に十倍する情報量の制御を可能とした……らしい。
ただしこの中のうち、それぞれの水路の上に壁からせり出すように設えられた八体の龍神像には、術式を編む上での必然性はないと思われた。
なぜならこれらは、八角堂の完成直後にユラ導師によって後付けされたものであり、彼女が術式上の重要な要素を後から付け加えるとは考え難いからである。
つまりこの像は儀式を行う場としての「それらしさ」を演出する装飾品にすぎないのではないかと思われるが、あのユラ導師のことなので、一体どんな意図があるのやら分かったものではない。
ただ私としては、あまりに精巧に作られたそれらが持つ、水晶製の瞳から放たれる視線が、どうにも気になって仕方がなかった。
何しろ私はいま、両手で持った聖杖の他には、一糸まとわぬ素裸なのである。
作り物だと分かってはいても、一度「見られている」という感覚を得てしまうと、どうしても落ち着かない気分になってしまう。
しかしいつまでもこうして立ち尽くしているわけにもいかず、私は意を決し、既に水の流れを絶たれている泉に足を踏み入れた。水深は膝下くらいか。
今にも凍りつきそうな水の中を、なるべく波を立てないようにゆっくりと進み、やがて定められた位置に立ったとき、不意に突き上げるような震動に襲われた。
また、地震だ。
徐々に低下している出生数、往来する人の数、農作物の収穫量、水源、その他あらゆる資源。そして数年前までは無縁だったほずの地震が、龍脈の大規模移動の影響だと知る者は、まだほとんどいない。
だがそれは確実に進行しており、このままではそれに合わせて都も衰退の一途をたどるのみである。
現在、ほぼ腹這い状態の人口に対して、資源の減少率はこの五年で約一割。今のところは有り余る備蓄のせいで危機感を抱く者は少ないが、資源の供給量は回復することなく加速度的に減少を続け、あと十年でさらに半分以下まで落ち込むことが予想されている。
そのとき都に巻き起こるのは、規模の縮小ではなく土台からの崩壊であり、またそれ以前に壊滅的な地殻変動が起きる可能性も皆無ではないという。
しかしそうした運命に逆らう力を、この都は持っていた。それがユラ導師であり、周到に計画された今夜の儀式であり、龍の巫女たる私なのだ。
ほどなく揺れは収まり、堂内は元の静寂に包まれた。
もう時間がない。私は聖杖を慎重に掲げながら、水面に浮かぶ波紋が消え去るのを待つ。
やがて泉が鏡のような静けさを取り戻し──。
私は儀式を開始した。
「三重八相術式法陣リュウノス、起動」
堂内に充満した濃密なタマヒが、聖杖を通して私のなかに流れ込んでくる。
「外番、展開。壱番、弐番、参番、肆番、伍番、陸番、展開。内番、展開」
術式が次々と法陣を展開し、宝珠を中心とした立体を形成してゆく。
「全番、定礎。術式法陣相、固着」
私はもう一度、満月を仰いだ。
今こそ、この地を去りつつある龍脈を呼び戻すのだ。
「リュウノス──発動」
途端、先程までとは比べ物にならない莫大なタマヒが私を貫いた。予想を遥かに上回る力の奔流に、私は弾け飛びそうになる意識を必死に保つ。
だが、果たしていつまで耐えられるものか。
いや違う。耐えられるかどうかは問題ではない。たとえ耐えられなくとも、この術式だけは成さねばならない。
薄れつつある意識のなかでそう覚悟したとき、ふと正面に位置する龍神像と目が合った。
見守られている、なぜかそう感じた。
タマヒは既に内番の術式法陣まで到達している。私の魂はこのまま擦りきれるかも知れないが、もはや術式は成ったとみてもよいだろう。
しかし奇妙な安堵感に包まれたのも束の間、私はとんでもないものを見てしまった。
龍神像の水晶の左目が、こぼれ落ちたのだ。
意識が急激に覚醒する。まさか先程の地震が原因か。
落ちた水晶が水路を通して泉全体に波紋を反射してゆく。
私は絶望した。
霊水には、術式の初期作用によって半ば物質化するほどの超高濃度の活性化したタマヒが溶けており、それは間もなく宝珠へ封じられるのだ。
波紋の干渉を受けて何らかの変質をきたしたであろうタマヒが、である。
最終段階に移行した術式により、中央の宝珠にタマヒが収束してゆく様を眺めながら、私は生まれて初めて神に祈った。
龍神様、どうかお護り下さい──。
祈りに応えるかのごとく泉が発光したように見えた瞬間──宝珠が爆発した。
爆発は人の形をしていた。
私は、儀式が失敗したことを覚った。
呆然と立ち尽くしたまま、宝珠の代わりに出現したそれを──いや、彼を見上げる。
そこには、一人の青年が立っていた。
奇妙な黒い服、蒼白い肌、すこし長めの黒い髪。私よりも幾分若く見えるその顔の両目は、今は静かに伏せられている。
彼は双眸を閉じたまま、低い笑い声を漏らした。
「ククク……ついにこの世の全てが、この魔王の手中に落ちる時がきたようだな……」
魔王!?
私は膝から崩れ落ちる。
果たして魔王はカッと目を見開き、邪悪そのものの叫びを上げた。
「さあひれ伏せ! 全て我のものになるの──」そこで初めて目が合った。「──だ?」
魔王はそれきり口を閉ざした。
言葉もなく見つめ合う、魔王と私。
「……………」
「……………」
「……………」
「……………」
なんだろう、この気まずさは。
永遠にも等しい沈黙のあと、魔王の視線がわずかに下がり──。
魔王は無感動に呟いた。
「おっぱい」
「いやあああぁぁぁ!!」
私は聖杖を振りかぶった。