人生行路
僕は都心のマンションの12階で、丁寧に豆を挽いたコーヒーを飲みながらいつもの頭痛に耐えていた。
仕事は順調だ。広告代理店でそれなりのポジションに就き、年収は同年代の平均を上回っている。
私生活は順調だ。恋人は「あなたは素敵すぎて私には重い」という、拒絶にしてはあまりに出来過ぎた台詞を残して去り、今は一人を謳歌している。
過不足のない広野で、僕は僕という形を完成させるために、懸命に人間性を探し続ける。
どの服を着るか。どの言葉を選ぶか。誰を愛し、憎み、どうやって死ぬまで生きるのか。
君はどうしたい? 君は何者だ?
社会が、友人が、鏡の中の自分が、絶えず問いかけてくる。そのたびに僕は曖昧な景色に線を引き、血を流しながら僕だけの答えを削り出すことが求められる。
僕を形作るのは僕だった。自分という存在に責任を負わされるのは、世界でただ自分一人。
自由は逃げ場のない独房だ。
眩暈と共にコーヒーカップが指を離れ、床に落ちる寸前、世界が反転する。
次に目を開けた時、僕は冷たい金属の地面に横たわっていた。
空は低く、鈍色の雲が幾何学的な模様を描き、雑然とした街並みは明瞭な回路図へと変貌していた。
『識別番号:H0-741。覚醒時間です。あなたの人生にとりかかってください』
頭上から抑揚のない合成音声が降り注ぐ。美しく調律されたその声は、どんな労いの言葉よりも優しかった。
僕は立ち上がり、周囲を見渡す。そこには僕とまったく等しい真っ白なジャンプスーツを纏った人間たちが一列になって歩いていた。
彼らの歩幅は寸分違わず揃えられ、視線はまっすぐ前方に固定されている。
06:30:00 - 06:35:00:覚醒状態へ移行
06:35:01 - 06:40:00:活動服着用
06:40:01 - 06:59:59:運動
07:00:00 - 07:20:00:栄養素B2の摂取
07:20:01 - 07:29:59:移動
07:30:00 - 07:30:30:深呼吸
07:30:31 - 11:50:00:廃棄区画のデータ整理
11:50:01 - 11:59:59:怠業
12:00:00 - 12:20:00:栄養素B4の摂取
12:20:01 - 12:40:00:運動
12:40:01 - 12:59:59:無思考状態の維持
…………
死ぬまで続くプログラム、僕が実行すべき人生の指示がそこにある。
何を着るか迷う必要はない。それは予め定められている。誰を愛するか選ぶ必要もない。それは予め定められている。
自分が何者であるかを証明する言葉も、個性を誇示するための選択も、ここには存在しない。
目の前には燦然と輝く一本のレールが敷かれていた。僕はそのレールに足を乗せる。
常に脳を支配していた鈍い痛みが嘘のように消えていった。
安堵が胸を満たし、初めて心からの涙を流したように思う。
――ディストピア? いいや、ここは人間性に疲弊した者が到達する生命のユートピアだ。
その形を責め苛みながら人間であることを指示する、幸福という名の幻想郷からの逃走に、僕はようやく成功したのだった。
すべてがすでに決められている。僕はただあるがままに喜び、悲しみ、息をするだけでいい。




