婚約破棄された上に、亡き父親の鍛冶工房を女だからという理由で奪われ、さらに街を追放されたマーガレットは、隣町で大活躍して復讐する!
鉄と灰の街を去る日
鍛冶の街リヨンは、いつも鉄の匂いに満ちていた。
朝は炉に火が入り、昼には槌の音が重なり、夜になれば煙突から立ちのぼる煙が街全体を覆う。
この街で生まれ育った者にとって、鉄を打つ音は子守歌のようなものだった。
フォルジュも、その一人だった。
腕利きの鍛冶職人であり、寡黙で頑固な男。
四十二歳という若さで病に倒れるまで、彼は一日たりとも炉の前に立たない日はなかった。
その娘、マーガレットは十八歳。
桃色の髪を三つ編みにまとめ、父の工房で弟子たちに茶を運び、道具を磨き、帳簿をつける――それが表向きの役目だった。
だが、実際には違う。
夜、工房の扉を閉め、父と二人きりになると、マーガレットは槌を握った。
鉄の温度、音、火花の散り方。
フォルジュは一つひとつ、丁寧に娘に教え込んだ。
◇ ◇ ◇
帰還 ―― 鉄は裁きを選ぶ
噂は、やがて噂ではなくなった。
ヴァルナで打たれた剣が、各地の魔物討伐で成果を上げ始めたのだ。
折れない。
欠けない。
そして、持ち主を裏切らない。
「……命を預けられる剣だ」
そう評したのは、北方戦線から戻った老練な冒険者だった。
彼は王都の武具商に剣を置き、こう言い残した。
「名を聞かれたら、答えろ。
“ヴァルナの鍛冶師、マーガレット”だと」
その一言が、流れを決定づけた。
◇ ◇ ◇
王都の武具市場は、常に情報が最も早く集まる場所だ。
新しい鉱脈。
新しい魔物。
そして――新しい“腕”。
「最近、ヴァルナの剣が異様に売れてる」
「値段は高めだが、不満が一切出ない」
「騎士団の下士官が、個人で買い求めてるらしいぞ」
やがて、王都鍛冶組合が動いた。
正式な依頼状が、ヴァルナへと届けられる。
◇ ◇ ◇
工房に届いた封蝋付きの書状を見て、マーガレットはしばらく言葉を失っていた。
「……王都、ですか」
アヴァンは、書状を覗き込み、口笛を吹く。
「すげぇな。
騎士団の装備改修試験に参加しろ、だってよ」
マーガレットは、ゆっくりと深呼吸した。
震えはない。
恐怖もない。
あるのは――静かな覚悟だけだった。
「……やります」
父が教えてくれた。
鉄は、逃げない者に応える。
◇ ◇ ◇
王都での試験は、苛烈だった。
名のある鍛冶師たちが並び、互いに腕を競う。
男ばかりの列の中で、桃色の髪は否応なく目立った。
「……女か」
「場違いだな」
小さな囁きが、確かにあった。
だが――。
マーガレットは、何も言わない。
ただ炉に火を入れ、鉄を入れ、色を読む。
カン――。
一打目の音で、空気が変わった。
澄んだ、迷いのない響き。
二打目、三打目と続くたび、周囲の視線が集まっていく。
「……あの音」
「嘘がない」
完成した剣を手に取った騎士団の試験官は、無言で数度振り、刃を見つめた。
そして、短く言った。
「合格だ」
その場にいた誰も、異議を唱えなかった。
◇ ◇ ◇
結果は、王都全体に広まった。
《騎士団推奨鍛冶師:マーガレット(ヴァルナ)》
その名は、瞬く間に商人たちの間を駆け巡る。
そして――皮肉にも。
最も早く、その名を耳にした街があった。
鍛冶の街リヨンだ。
◇ ◇ ◇
「……フォルジュの、娘?」
長老の一人が、震える声で呟いた。
王都から届いた通達には、こう書かれていた。
《今後、騎士団装備の一部を、ヴァルナの工房に発注する》
《品質基準を満たさない工房との取引は、順次停止する》
つまり――。
リヨンの鍛冶師たちは、切り捨てられたのだ。
「な、なぜだ……」
「我々は伝統ある街だぞ!」
だが、返答は冷酷だった。
《品質が伴わない》
それだけだ。
◇ ◇ ◇
影響は、すぐに現れた。
冒険者が来ない。
商人が寄らない。
素材の流通が滞る。
「鍛冶の街」という看板だけが、空しく残る。
「ヴァルナに頼んだ方が早い」
「値は張るが、命を預けられる」
その言葉が、何度も何度も、リヨンの市場で囁かれた。
◇ ◇ ◇
マルシャルは、もはや酒場にも居場所がなかった。
「……お前のとこ、まだやってるのか?」
そう言われるたび、胸が抉られる。
ある夜、耐えきれず、彼はヴァルナへ向かった。
最後の、縋りだった。
◇ ◇ ◇
ヴァルナの工房は、明るかった。
炉の火は安定し、金床はよく手入れされている。
そこに立つ、桃色の髪。
マーガレットは、彼を見て、一瞬だけ目を細めた。
「……何の用ですか」
その声に、感情はない。
怒りも、憎しみも。
ただ、他人を見る目だった。
「……戻ってきてくれ」
マルシャルの言葉は、かすれていた。
「リヨンが……このままじゃ」
マーガレットは、静かに首を振る。
「私の居場所は、ここです」
「だが、君はリヨンの――」
「追放された女です」
きっぱりとした言葉。
刃のように、迷いがなかった。
「それに」
彼女は、金床に置かれた剣に手を置く。
「鉄は、正直です」
「誰が打ったか。
誰が理解しているか。
全部、覚えています」
マルシャルは、何も言えなかった。
◇ ◇ ◇
その年の冬。
リヨンは「鍛冶の街」としての地位を失った。
若い職人は去り、残った者は細々と修理を請け負うだけ。
煙突から上がる煙は、まばらだった。
一方。
ヴァルナの夜空には、安定した炉の光が揺れている。
マーガレットは、今日も鉄を打つ。
誇りを、取り戻した手で。
◇ ◇ ◇
――鉄は正直だ。
嘘をつく者を、決して選ばない。
そして、腕を持つ者の名を、
必ず世界に刻む。
鍛冶の街リヨンは、
最後までそれを理解できなかった。
だが――。
桃色髪の鍛冶師は、
もう、振り返らない。
新しい炉の前で、
自分の人生を、打ち続けるだけだった。
「女だろうと関係ない。鉄は正直だ。誤魔化しは通じん」
そう言って、父は娘の打った刃を何度も確かめた。
そして最後には、必ずこう言った。
「……悪くない。もう一人前だ」
その言葉が、マーガレットの誇りだった。
しかし、鍛冶の街リヨンでは――
女が鍛冶をすることは、固く禁じられていた。
だからこそ、彼女は表に出ることなく、父の影として腕を磨いてきたのだ。
父の弟子であり、婚約者でもあった赤髪の青年、マルシャルは、その事実を知っていた。
二十二歳。要領がよく、口が達者で、周囲からの評判も悪くなかった。
だが――彼は、マーガレットの才能を妬んでいた。
自分よりも正確に鉄を読み、自分よりも美しい刃を打つ娘。
それを「女だから」という理由で否定できる環境に、彼は甘えていた。
そして、フォルジュが病に倒れ、帰らぬ人となった。
葬儀の日、工房には多くの鍛冶職人と冒険者が集まった。
皆、フォルジュの死を悼み、静かに頭を下げた。
その中に、金髪の若い女――アンフィデリテの姿があったことに、マーガレットは気づかなかった。
父を失った悲しみが、すべてを覆っていたからだ。
だが、葬儀が終わり、数日が経った頃。
マーガレットは、決定的な裏切りを知ることになる。
マルシャルとアンフィデリテが、工房の奥で抱き合っている姿を目にしたのだ。
「……どういう、ことですか」
問い詰める彼女に、マルシャルは薄く笑った。
「見ての通りだよ。俺は彼女を選んだ。それだけだ」
「私との……婚約は?」
「破棄だ」
あまりにもあっさりとした言葉。
そして、彼は続けた。
「そもそも、この街で女が鍛冶をするなんて、あり得ない。お前はここでは、いらない存在なんだよ」
アンフィデリテが、楽しそうに笑う。
「そうよ。あんた、邪魔なの」
その瞬間、マーガレットの中で何かが音を立てて崩れた。
婚約は破棄され、工房の権利はマルシャルに奪われた。
街の長老たちも、彼の肩を持った。
「女に鍛冶屋は務まらん」
その一言で、すべてが終わった。
追放。
それが、彼女に下された結論だった。
最低限の荷物だけを持ち、マーガレットは街を出た。
振り返ることは、しなかった。
行く当てもなく、ただ道を歩いているとき――
聞き覚えのある声が、彼女を呼び止めた。
「……お嬢ちゃん?」
冒険者剣士、アヴァン=チュリエ。
二十五歳。軽口を叩くが、腕は確かで、父の工房にも何度か剣の手入れに来ていた男だ。
事情を話すと、彼は眉をひそめた。
「……胸糞悪い話だな。よし、俺が店を取り戻してやろうか?」
だが、マーガレットは首を左右に振った。
「たとえ取り戻しても……この街では、鍛冶を続けられません」
それが、現実だった。
アヴァンはしばらく黙り込み、やがて言った。
「親父さんには世話になったからな」
そして、彼女を見て、軽く肩をすくめる。
「一緒に隣町に行かないか?」
マーガレットは驚いたように顔を上げた。
「……隣町、ですか?」
「おう。俺は明日、隣町の《ヴァルナ》に向かう予定だった。魔物討伐の依頼があってな。あそこは鍛冶職人が不足してるって話だ。女だからって理由で腕を否定される街じゃない」
その言葉に、胸が熱くなる。
――外の世界は広い。お前の腕を正しく見る者も、きっといる。
父の声が、心に蘇った。
「でも……私、女ですし」
不安が、最後の抵抗をする。
アヴァンは、まっすぐに彼女を見た。
「俺が知ってるのは一つだけだ。あんたが打った剣は、よく斬れる。バランスもいい。嘘はつかない金属を、あんたは理解してる」
それは、何よりも重い言葉だった。
涙が、静かに頬を伝う。
「……ありがとうございます」
「ご一緒、させてください。私……鍛冶を、やめたくありません」
アヴァンは、満足そうに笑った。
「決まりだな。今夜は宿を取ろう。道具は最低限でいい」
夕焼けの中、二人は歩き出す。
背後で、鍛冶の街リヨンの煙突が沈んでいく。
そこに、彼女の居場所はもうない。
だが――
鉄を打つ音は、決して消えない。
新しい街、新しい炉、新しい運命が、
剣士アヴァン=チュリエと共に歩むその先で、
マーガレットを待っていた。
◇ ◇ ◇
隣町ヴァルナ ―― 炉に火が入る日
隣町ヴァルナは、リヨンとはまるで違う空気をまとっていた。
城壁は低く、門も簡素。
行き交う人々は冒険者や商人が多く、武器や防具の質を気にする声があちこちから聞こえる。
魔物の出没が頻繁な土地柄ゆえ、実用性が何より重んじられる町だった。
「思ったより、雑多な街ですね」
マーガレットがそう漏らすと、隣を歩くアヴァンが笑った。
「だろ? ここじゃ身分より腕前だ。鍛冶師が足りないってのも本当さ」
町に入ってすぐ、彼らは鍛冶組合の建物を訪れた。
石造りの二階建てで、壁には無数の刃傷が残っている。
受付にいたのは、がっしりした体格の中年男だった。
「仕事を探してる?」
その視線が、自然とマーガレットに向けられ、わずかに眉が動く。
アヴァンが前に出た。
「この子は鍛冶師だ。腕は確かだ」
男は一瞬、言葉を失ったが、すぐに鼻を鳴らした。
「……女でも構わん。だが、腕は見る。ここではそれだけだ」
そう言って、奥の工房を指差した。
「試し打ちだ。短剣一本、打ってみろ」
炉の前に立った瞬間、マーガレットの胸の奥に、懐かしい感覚が広がった。
熱、鉄の匂い、炭のはぜる音。
(大丈夫……いつも通りでいい)
火床に鉄を入れ、色を読む。
橙から黄へ。
最適な瞬間を逃さず、金床に乗せ、槌を振る。
カン、カン、と澄んだ音が工房に響いた。
周囲にいた鍛冶師たちが、自然と手を止める。
「……音がいい」
「無駄打ちがないな」
マーガレットは集中を切らさず、刃を整え、焼き入れを行った。
水に沈めた瞬間、白い蒸気が立ち上る。
仕上げまで終え、短剣を差し出すと、中年男は無言で受け取り、軽く振った。
「……合格だ」
その一言で、胸の奥が熱くなった。
「仕事はある。住み込みでいいなら、工房を一つ貸そう」
「……ありがとうございます!」
初めて、自分の「鍛冶師」という肩書が、正当に受け入れられた瞬間だった。
その夜、アヴァンは冒険者仲間と酒場に消え、マーガレットは工房に残った。
誰もいない炉の前で、彼女は小さく呟く。
「お父さん……私、やれそうです」
数日後、最初の依頼が舞い込んだ。
魔物討伐に向かう若い冒険者の剣の修復。
刃こぼれはひどかったが、素材は悪くない。
マーガレットは慎重に刃を整え、重心をわずかに前へ寄せた。
斬撃重視の調整だ。
「……軽い」
試し振りをした冒険者が、驚いた声を上げる。
「これなら、次は死なずに済みそうだ」
その言葉が、何よりの報酬だった。
評判は、少しずつ広がった。
「女だが、腕は本物だ」
「剣の“癖”を見抜く」
やがて、アヴァンが戻ってきた。
彼の剣には、新しい刃こぼれがあった。
「頼めるか?」
マーガレットは、迷わず頷く。
父に教わった通り、彼女は剣と向き合った。
「……この剣、主を守ろうとしてます」
アヴァンは、少し驚いた顔をした。
「分かるのか?」
「はい。大切に使われてますから」
打ち直された剣は、以前よりも強く、しなやかだった。
数日後、アヴァンは重傷を負いながらも生還した。
「助かった。あの剣がなきゃ、死んでた」
その言葉に、マーガレットは静かに微笑んだ。
夜、炉の火を落としながら、彼女は思う。
ここなら――
女であることを理由に、否定されない。
鉄は正直だ。
腕を持つ者を、裏切らない。
ヴァルナの夜空に、炉の余熱が揺れる。
桃色髪の若き鍛冶師は、
ここで、確かに一歩を踏み出したのだった。
◇ ◇ ◇
没落 ―― 偽りの槌音
鍛冶の街リヨンに、異変が起き始めたのは、フォルジュの葬儀が終わって間もなくのことだった。
工房の炉には、確かに火が入っている。
だが――音が違う。
カン、カン、と鳴る槌音はどこか濁り、一定のリズムを欠いていた。
「……ちっ」
赤髪のマルシャルは、額の汗を拭いながら、打ち上げた刃を睨みつける。
歪み、重心の狂い、刃先の甘さ。
どれも目を背けたい欠点ばかりだった。
(……おかしいな)
かつて、この工房で打たれていた剣は、こんな出来ではなかった。
自分が槌を振っていたはずなのに――なぜだ。
その理由を、彼は心の奥で理解していながら、認めようとはしなかった。
フォルジュが病に伏してからの半年。
実際に炉の前に立ち、鉄を打っていたのは――マーガレットだった。
彼女が打ち、マルシャルが仕上げを装う。
それが、この工房の真実だった。
だが、もう彼女はいない。
最初に異変を口にしたのは、常連の冒険者だった。
「……なあ、マルシャル。前より剣が重くないか?」
「気のせいだ」
次は、防具職人。
「焼きが甘い。これじゃ長持ちしないぞ」
「今は忙しいんだ」
苦情は、確実に増えていった。
刃こぼれが早い。
バランスが悪い。
同じ型なのに、出来にばらつきがある。
フォルジュの名を信じていた客ほど、失望は大きかった。
「親父さんがいなくなってから、質が落ちたな」
その一言が、胸に突き刺さる。
店の前を通る人影は、日に日に減っていった。
炉の火は入っていても、金床の前に立つ時間は短くなる。
売れない。
金が入らない。
そんなある日、金髪のアンフィデリテが工房に怒鳴り込んできた。
「ちょっと! どういうことなのよ!」
腕を組み、苛立ちを隠そうともしない。
「最近、生活費が減ってるじゃない」
「……仕方ないだろ」
「仕方ない? あたしは“腕利き鍛冶師の婚約者”だから、あんたを選んだのよ!」
マルシャルは、言葉を失った。
アンフィデリテは、冷たい目で彼を見る。
「正直に言いなさい。あの女……マーガレットがやってたんでしょう?」
図星だった。
「……一部、だ」
「一部?」
鼻で笑われる。
「全部でしょ。だから追い出した途端、この有様」
マルシャルは拳を握りしめた。
「女が鍛冶なんて、認められるわけがない!」
「関係ないわ。結果がすべてよ」
アンフィデリテは、吐き捨てるように言った。
「このままじゃ、店は潰れる。あたし、そんな男と一緒に沈む気はないわ」
その日から、彼女は工房に来なくなった。
さらに追い打ちをかけるように、鍛冶組合から通告が届く。
《品質低下が著しいため、組合の推薦工房から除外する》
フォルジュの名は、もはや守ってくれなかった。
夜、誰もいない工房で、マルシャルは炉の前に座り込む。
思い出すのは、あの桃色髪の背中だ。
無言で槌を振る姿。
鉄の色を見つめる真剣な目。
(……俺は、何をしてた)
彼女の才能を妬み、認めることなく、利用し、捨てた。
結果、残ったのは――空っぽの工房。
翌朝、工房の扉に張り紙が貼られた。
《閉店》
鍛冶の街リヨンで、槌音が一つ、消えた瞬間だった。
誰も同情しなかった。
誰も惜しまなかった。
ただ一人、彼自身だけが、遅すぎる後悔を噛みしめていた。
――鉄は正直だ。
腕のない者に、成功は宿らない。
◇ ◇ ◇
噂 ―― 鉄は名を呼ぶ
鍛冶の街リヨンに、再び槌の音が戻ることはなかった。
フォルジュの工房は閉じられ、煤けた煙突は沈黙したまま。
かつて活気に満ちていた通りは、どこか空洞のような静けさを抱えていた。
人々は口には出さないが、皆わかっていた。
「……あの工房は、もう終わりだな」
その名が、フォルジュであったことを、誰もが惜しんでいた。
マルシャルは、酒場の隅に座っていた。
仕事もなく、金もなく、未来もない。
かつては「次代の名鍛冶師」と持ち上げられていた男は、今や誰の視線にも留まらない。
その夜、冒険者たちの会話が、ふと耳に入った。
「なあ、最近ヴァルナ行ったか?」
「行った行った。いい剣が手に入った」
マルシャルは、思わず顔を上げた。
「……ヴァルナ?」
「おう。最近、腕のいい鍛冶師がいるんだよ」
酒場の空気が、わずかに熱を帯びる。
「女だって話だ」
その言葉に、マルシャルの喉がひくりと鳴った。
「女……鍛冶師?」
「そう。若いが、腕は本物だ。剣の“声”が聞こえるって噂だぞ」
別の冒険者が笑いながら続ける。
「俺の剣、あいつに打ち直してもらってから、死ににくくなった」
心臓が、嫌な音を立てた。
女鍛冶師。
ヴァルナ。
嫌な一致だった。
「……名前は?」
無意識に、マルシャルは問いかけていた。
冒険者は、あっさりと答えた。
「マーガレットだ」
世界が、止まった。
酒場の喧騒が、一瞬で遠ざかる。
「桃色の髪でな。静かな子だが、炉の前に立つと別人みたいになる」
マルシャルは、杯を握りつぶしそうになった。
(……馬鹿な)
だが、否定する材料がなかった。
あの背中。
あの音。
あの刃。
噂は、日を追うごとに具体性を増していった。
「ヴァルナの鍛冶組合が、正式に工房を任せたらしい」
「女だからって理由で、特別扱いはされてない。純粋に腕だ」
「有名な冒険者アヴァン=チュリエの剣も、あの女鍛冶師の手だとか」
その名を聞いた瞬間、マルシャルの胸に、苦いものが広がる。
(……あいつまで)
街の鍛冶師たちも、次第に噂を無視できなくなった。
「フォルジュの娘だそうだ」
「……やはり、あの親父の血か」
かつてマーガレットを「女だから」と退けた者たちが、今度は言葉を濁す。
鍛冶組合の長老たちは、密かに顔を合わせた。
「……我々は、間違えたのか?」
「認めるには、遅すぎる」
リヨンの誇りは、静かに傷ついていた。
一方、マルシャルの元には、何も残らない。
アンフィデリテは、すでに別の男の腕に収まっていた。
彼は、酒場で噂話を聞くたび、胸を抉られる。
「ヴァルナの女鍛冶師が打った剣は、名を刻まなくても分かる」
「使えば分かる。“生きてる”」
それは、かつて自分の工房で生まれていた言葉だった。
夜、マルシャルは一人、閉ざされた工房の前に立つ。
錆びた扉。
冷え切った金床。
そこに、もう槌音はない。
「……俺の、だったはずだ」
だが、答える者はいない。
鉄は正直だ。
腕を持つ者の名を呼ぶ。
そして今、
その名は――マーガレットだった。
鍛冶の街リヨンは、初めて知ることになる。
女を追い出した代償が、
どれほど大きな損失だったのかを。
◇ ◇ ◇
終焉 ―― 鉄の街が死ぬ日
鍛冶の街リヨンは、もはや“街”ではなかった。
かつて朝から晩まで鳴り響いていた槌音は消え、
煙突から立ちのぼる煙も、ほとんど見えない。
炉に火を入れる理由が、なくなったからだ。
剣は売れない。
防具も出ない。
修理の依頼さえ、隣町へ流れていく。
「……ヴァルナに持っていった方が早い」
その一言が、決定打だった。
◇ ◇ ◇
王都鍛冶組合からの正式な通達は、冷酷だった。
《リヨン地区を、主要鍛冶拠点から除外する》
《今後の素材供給は、必要最低限とする》
つまり――
鉄が、入ってこない。
鍛冶の街にとって、それは死刑宣告に等しかった。
「ふざけるな! 我々は伝統ある――」
抗議の書状は出された。
だが、返事はなかった。
必要とされない街に、言葉は返らない。
◇ ◇ ◇
職人たちは、去っていった。
若い者から順に、道具をまとめ、街を出る。
「……ここに残っても、未来がない」
その判断は、正しかった。
残ったのは、
変化を拒み、過去に縋った者たちだけ。
◇ ◇ ◇
長老会は、最後まで責任を認めなかった。
「女に鍛冶をさせるなど、街の誇りが許さん」
「我々は間違っていない」
だが、その言葉を聞く者はいない。
長老たちが集う広間は、寒かった。
炉が冷えているからではない。
“未来”が、そこになかったからだ。
◇ ◇ ◇
マルシャルは、廃れた工房にいた。
かつてフォルジュが立っていた炉の前で、
彼は何度も槌を振ろうとした。
だが――。
鉄は、応えない。
音は濁り、刃は歪む。
「……くそ……」
怒鳴っても、叫んでも、
鉄は正直だった。
腕のない者に、何も与えない。
◇ ◇ ◇
アンフィデリテは、戻ってこなかった。
街が沈むと知った瞬間、
彼女は別の都市へ移っていた。
“鍛冶師の婚約者”という肩書が、
もう価値を持たないと悟ったのだ。
マルシャルの元には、
誰も残らなかった。
◇ ◇ ◇
ある冬の朝。
リヨンの門が、閉じられた。
交易路から外され、
通過する理由が、なくなったからだ。
商人は来ない。
冒険者も寄らない。
街は、ただの“場所”になった。
◇ ◇ ◇
フォルジュの工房は、最後まで空だった。
売却もされず、
再利用もされず。
煤けた煙突だけが、
過去の栄光を物語っている。
皮肉なことに――
その工房の名だけは、今も語られていた。
「フォルジュの娘の父親だろ」
「名鍛冶師だったな」
だが、その“娘”を追い出した街として、
リヨンの名も、同時に語られた。
◇ ◇ ◇
最期の日。
マルシャルは、街を出た。
持っているのは、
錆びた槌と、少しの金。
鍛冶師としてではなく、
ただの流れ者として。
彼を引き止める者はいなかった。
振り返った街は、
静かすぎるほど静かだった。
◇ ◇ ◇
後年、地図からリヨンの名は消えた。
街だった場所は、
“旧鍛冶街跡”と記されるだけになる。
誰も、惜しまなかった。
◇ ◇ ◇
一方――。
ヴァルナの炉は、今日も燃えている。
桃色の髪の鍛冶師が、
変わらぬ手つきで鉄を打つ。
彼女はもう、
「女鍛冶師」と呼ばれない。
ただ――
鍛冶師マーガレットと呼ばれている。
◇ ◇ ◇
――鉄は正直だ。
街をも、
人をも、
選別する。
リヨンは、
その裁きを受けただけだった。
そして世界は、
正しい場所に、
正しい炉を残した。
それだけの話だった。




