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第5章 もう一つの未来

失われた記憶の先に、もう一つの未来があった。

それは、誰も知らない“やり直し”の世界。

凪の心に残ったのは、名もない痛みと消えない声だった。

 春の雨が、街を静かに濡らしていた。通りの並木には薄い緑が芽吹き、傘の群れの中に、ひとりの青年が立っている。

天城凪、二十六歳。

研究所勤務。穏やかで、どこか夢見がちな男。だが彼の瞳には、かつての「未来を視る者」の光は、もうなかった。

昼休み、同僚が笑いながら話す。

「最近、変な夢見ない? 誰かに“未来を選ばされてる”ような夢」

凪は曖昧に笑って首を振る。

「いや、俺は……そういうの、もう見ないから」

彼自身、なぜそう言ったのかもわからなかった。

 ただ、心のどこかに“見たくない過去”のような空白があった。

研究所の帰り道。交差点で信号が赤に変わる。ふと視界の端に、傘もささずに立ち尽くす女性の姿が見えた。

璃子だった。

髪を短く切り、淡いグレーのコートを着ている。表情は穏やかで、けれどその瞳の奥には、言葉にできない痛みが宿っていた。


「……久しぶり、ですね」


凪は首を傾げた。

「えっと……どこかで、お会いしましたか?」


璃子の唇が、かすかに震える。それでも、微笑んだ。


「いいえ。……ただ、あなたのことを知っている気がしたんです」


「そうですか……」


二人の間に、春の風が吹き抜けた。信号が青に変わり、凪は歩き出す。璃子はその背中を見送りながら、そっとつぶやいた。


「あの日、あなたが“未来”を選んだこと。私は、忘れません」


凪の足が、一瞬だけ止まる。

振り返るが、璃子の姿はもう人の波に紛れていた。


空を仰ぐ。雲の切れ間から、わずかに陽光が差し込む。胸の奥に、形にならない既視感のような痛みが広がった。


「……俺、今……泣いてる?」

頬を伝う一筋の涙。その理由を、彼は知らない。

ただ、確かに心の奥で“誰かの声”が聞こえた。


《君が視た未来は、終わっていない》


風が吹き抜ける。街のどこかで、機械のノイズのような音が微かに響いた。璃子が見上げた空の向こう、通信衛星の影が一瞬、光る。


九条の声が、どこか遠くからかすかに届く。


《ようやく、実験は成功したようだね。君たちは、“もう一つの未来”に辿り着いた》


璃子の瞳が揺れる。

「九条……あなた、まだ……」


その声は、すぐに消えた。彼女の手の中には、ひとつのカードが握られていた。

凪に託された、九条黎司の最後のデータ。

璃子はゆっくりと歩き出す。凪が失った記憶と、選び直した未来を、守るために。


春の雨が静かに降り続く。人々の傘の下で、誰かがまた、新しい一歩を踏み出す。


欺瞞の未来は終わった。

けれど“もう一つの未来”は、今、始まったばかりだ。

人は、記憶を失っても選び続ける。

たとえ欺かれた未来の果てでも。

凪が流した涙は、確かに“誰か”の記憶を呼び覚ましていた。

未来は、終わらない。

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