第4章 欺かれた記憶
失われた記憶が、静かに目を覚ます。
過去を知るほど、凪は真実の痛みに近づいていく。
それは、誰かの罪であり、自分の運命でもあった。
雨の音で目が覚めた。
頭の奥で、何かが軋むように痛んでいる。
夢の中で、灯が泣いていた。
「お兄ちゃん、また忘れるの?」
その声に、胸が冷たく沈む。
凪はゆっくりと起き上がり、机の上のファイルを見た。
「未来観測実験:被検体N」
そしてページの端に印字された文字。
《監修:九条黎司》
知らない名前だった。
だが、その文字を見た瞬間、頭の中に焼けるような閃光が走った。
『情動抑制、成功。記憶再構築、完了』
一瞬のフラッシュ。
白い部屋。
ガラス越しに覗く誰かの目。
その中心で、灯が笑っていた。
「凪、怖がらないで。これは、あなたを守るための――」
次の瞬間、映像が弾けるように消えた。
凪は頭を押さえ、呼吸を整える。
「……俺の、記憶が……違う……?」
放課後、璃子が凪を呼び出した。
校舎裏、薄曇りの空の下で、彼女は何かを決意したように言った。
「兄が……あなたに会いたいって言ってる」
凪は息を呑む。
璃子の瞳には、迷いと恐れが混ざっていた。
「兄は、もう逃げないって。すべてを話すって」
凪は静かに頷いた。
灯の死。
あの日の真相を知るためなら、もう逃げない。
夜。郊外の廃研究施設。
電源の落ちた廊下を、非常灯の赤が淡く照らしている。
壁には剥がれた研究ポスター。
「未来は制御できる」かつてのスローガンが風化して読めなくなっていた。
璃子の兄、白石航はそこにいた。
やつれた頬、焦点の定まらない目。
かつての理性の輝きはもうない。
「来てくれたか……凪くん」
「話を聞かせてください。灯のことも、俺の記憶のことも」
航はゆっくりと頷き、古びたモニターを起動させた。
映し出されたのは、かつての実験ログ。
《共鳴被験体 N・L──感情同期テスト開始》
《異常値発生:N側の反応暴走、L心停止》
航は苦しそうに目を閉じた。
「……あの実験の日、暴走したのは君の“未来視反応”だった。灯さんは、君を止めようとして――」
凪の視界が白く濁った。
頭の奥で、誰かが囁く。
『観測者の記憶は、調整されるべきだ。
痛みは、真実を曇らせる。』
その声は、航のものではなかった。
冷たく、無機質で、どこか懐かしい。
航の顔が強張る。
「今の声……聞こえたか?」
凪は震える声で答えた。
「……誰だ、今のは」
航が端末を睨みつける。
「まさか……九条黎司が、まだシステムに……!」
その瞬間、施設全体が低く唸った。
スピーカーからノイズ混じりの声が流れる。
「久しいな、被検体N。
君がここに戻るとは思わなかった。」
凪が息を呑む。璃子が凍りついたように立ち尽くす。
航は顔を歪め、呟いた。
「……やはり、生きていたのか。九条……!」
スピーカーの奥で、男の顔が映し出された。
年齢不詳、白髪交じりの黒髪、透き通るような瞳。
彼が、九条黎司だった。
「私の計画は順調だったよ。君も、璃子も、天城灯も、“未来を欺く観測者”として機能していた。
だが凪、君だけが誤算だった。君の“選ぶ”という衝動は、私の計算に存在しなかった。」
凪の拳が震える。
「お前が……灯を殺したのか」
「殺した?違う。彼女は選んだのだ。君を“欺く記憶”の中に閉じ込めることを。愛という名の、最も美しい犠牲だよ。」
璃子が叫ぶ。
「黙って! あなたが兄を狂わせた! 灯さんを利用した!」
九条は笑う。
「感情は観測を歪める。だからこそ私は、“君たちの情動”を切り離した。未来を欺くには、心が邪魔だ。」
通信が切れると同時に、天井から赤い光が落ちた。
「システム再起動――拘束プロトコル起動」
「くそっ、あいつ……!」
航の身体が、機械的なアームに捕まり、中央の拘束椅子へと引きずられる。
「お兄ちゃん!」璃子が叫ぶ。
航は苦しげに息を吐きながら言った。
「凪くん……聞け。九条は……お前の中にいる。
封印の際、彼は自分の“意識の断片”を君の記憶に残したんだ……!」
凪の目が見開かれる。
「俺の中に……九条が?」
航は頷く。
「君の“未来を選ぶ”能力が、彼にとっての鍵だった。
君を通して、彼は未来を操ろうとしている」
凪は頭を押さえ、呻いた。
脳の奥で誰かが囁く。それは確かに、九条の声。
『君の中で、私は生きている。未来を欺く者として。』
凪は叫んだ。
「俺の中にいるっていうのか!」
『ああ。君の選択こそが、私の望んだ“誤差”だ。』
九条の声が浸透していく。
その瞬間、凪の記憶が逆流した。
灯が笑う、航が叫ぶ、白衣が血に染まる。
全てが一つの映像として重なり、崩れていく。
「もうやめて!」璃子の声が響いた。
彼女が凪に駆け寄り、肩を掴む。
「戻ってきて、凪! 今のあなたは“誰かの未来”じゃない!」
凪は顔を上げた。
九条の影が瞳に宿りーーだが、次の瞬間、それを押し戻すように目を閉じる。
「未来を欺けるのは、人間だけだ……」
かすれた声でそう呟き、凪は胸の中の九条の声を封じるように手を握りしめた。掌から微かな光が滲み出す。
「九条の声を、俺ごと封じる。記憶が欺かれてもいい。俺の中の未来は、俺だけのものだ。」
航が苦しげに顔を上げる。
「凪、待て! それは――!」
言葉が届く前に、光が爆ぜた。
記憶の断片が、白い閃光の中で崩れていく。
璃子の叫びも、航の声も、すべてが遠ざかっていった。
最後に聞こえたのは――九条の囁き。
「欺くとは、守ることだ。
君もやっと、それを理解したな。」
光が消えたあと、
椅子の前に立っていたのは、ただひとりの凪。
静かな目で璃子を見つめ、微笑んだ。
「……大丈夫。俺は、もう誰の未来も視ない。」
雨音が遠くで響いていた。
凪の手の中で、ひとつのデバイスが静かに光を失っていった。
――欺瞞の未来、その封印。
すべてを知った凪は、記憶を封じた。
もう二度と未来を視ないために。
だが沈黙の奥で、まだひとつの声が囁く。
――「運命は、終わっていない。」




