第3章 運命を欺く者
夜明け前の街を、凪はただひとり歩いていた。
過去と未来が交錯し、誰かを救えば誰かが消える。
それでも、灯の言葉が胸に残る。
「未来を変えるんじゃない。選び直すんだ」
その一歩が、取り返しのつかない“真実”への扉を開くことになる。
夜明け前の街は、雨に濡れて眠っていた。
ビルのガラスに映る光が、滲んで揺れている。
その中を、天城凪はひとり歩いていた。
昨日、視た映像。血の中に倒れる璃子の姿。
それが、どんな“未来”なのか、まだ分からない。
けれど彼はもう、黙って見ているだけではいられなかった。
「未来を変えるんじゃない。……選び直すんだ」
灯が最後に言った言葉が、頭の奥で反響していた。
選ぶとは、誰かを救うこと。
だが、誰かを救えば、別の誰かが失われる。
その矛盾が、凪の心を削っていた。
朝の教室。
窓の外には薄い雲がかかり、光が柔らかく差し込んでいた。
璃子は席に座り、ノートに何かを書いていた。
その横顔は穏やかで、けれどどこか遠くを見ているようでもあった。
「……昨日のこと、もう聞いた?」
凪が声をかけると、璃子はペンを止めてこちらを見た。少しだけためらうような微笑み。
「兄は、警察に事情聴取を受けてるみたい。
でも、怪我もなくて……本当に、ありがとう」
凪は首を横に振った。
「俺がやったことは、ただ一つの“未来”を壊しただけだ。その代わりに、別の誰かが…死んだ」
璃子は言葉を失い、視線を落とした。
机の上に落ちた光が、二人の間を区切るように伸びていた。
「……未来を変えるって、そんなにいけないことなのかな」
「違う。ただ、“誰かの未来”は、“誰かの過去”を壊すことになるんだ。俺はそれを、何度も繰り返してきた」
璃子は少しの間黙っていたが、やがて顔を上げた。
「でも、それでも。あなたが救いたいと思った気持ちは、本物でしょ?」
その一言に、凪は目を閉じた。
璃子の声の奥には、灯の面影があった。
放課後。
璃子は凪を誘い、学校裏の廃棄倉庫へ向かった。
埃の積もった机、古いモニター。
その隅に、見慣れない黒いケースが置かれている。
「兄の研究資料……たぶん、これが最後の鍵になる」
璃子が震える指でケースを開けると、中には
「未来観測実験:被検体N」「共鳴パターン分析」
と記されたファイルがあった。
凪は息を呑んだ。
そのファイルには、見覚えのある印章。
あの日、灯の名が書かれていた研究記録と同じもの。
ページをめくると、一枚の報告書が現れた。
《被検体N(天城ナギ)──予知反応における情動抑制の異常》
《被検体L──共鳴テストにて暴走反応、心停止》
「……共鳴テスト?」
凪の視界が揺れた。
そんな言葉、聞いたことがない。
けれど、脳の奥に何かが引っかかる。
トラックのブレーキ音。
伸ばされた灯の手。
白い光に包まれたあの瞬間――。
(……あれは、本当に事故だったのか?)
璃子がかすかに声を震わせる。
「兄が、やっぱりこの研究に関わってたなんて……信じたくない。でも――」
凪はその言葉を遮るように立ち上がった。
「璃子、君、もしかして、俺を最初から知ってた?」
「……」
「灯が死んだとき、現場にいた女の子が言ってた。
“お兄ちゃんの未来を視た人がいた”って。
君の従姉妹のことだろ?」
璃子は小さく息を呑み、うつむいた。
「……彼女が言ったの。“お兄ちゃんの未来を視た人がいた”って。だから、あなたのことを調べたの。あの時からずっと」
凪の拳が震えた。
「つまり、君は俺のことを“観察してた”ってことか。
まるで、あの研究所みたいに」
璃子は首を振った。
「違うの。私はただ、真実を知りたかったけ……!」
だがその言葉が終わるより早く、凪は言った。
「君の兄は、あの研究機関にいた。そして、灯の“死”に関わってた」
部屋に重い沈黙が落ちた。
窓の外では、雨が再び降り出していた。
その音だけが、遠くで世界を隔てている。
璃子の指が震える。
「……嘘だよ。そんなはずない。お兄ちゃんが……灯さんを……」
凪は静かにファイルを閉じた。
「嘘だと思いたいなら、それでもいい。でも、この記録は消されていなかった。つまり、“誰か”がわざと残したんだ」
璃子の目が大きく見開かれる。
その奥で、何かが崩れ落ちる音がした。
夜。
凪は帰り道で立ち止まった。
街のネオンが雨に滲み、足元を赤く染める。
スマートフォンが震え、ニュース速報が流れた。
市内で再び通り魔事件。負傷者の中に白石航の名
凪の胸に、強烈な既視感が走った。
血の中に倒れる影。
その傍らに璃子が泣いている。
「また……同じ未来を視たのか!」
彼は唇を噛み、走り出した。
雨が視界を曇らせる。
頭の中では、未来の映像と現実が交錯していた。
駅前の交差点。
パトカーのサイレン。
倒れた男のそばで、璃子が震える手を伸ばしていた。
「璃子!」
凪が叫ぶと同時に、何かが弾ける音。
背後から押し寄せる風圧。
そして、白い閃光。
視界が白に飲み込まれた瞬間、凪は見た。
――血に染まった自分の手。
璃子を庇って倒れる自分の姿。
「……俺が……代わりに……」
世界が静まり返った。
璃子が駆け寄る。
「凪!? どうしたの!?」
「……未来が……変わった。
今度は、俺が……死ぬ番らしい」
璃子の瞳が大きく見開かれた。
その表情に、凪は微笑みを浮かべた。
どこか安らいだような笑みだった。
未来は、欺ける。
だが、その代償は、命そのものだ。
未来は変えられた。
だが、その歪みは新たな犠牲を呼び寄せる。
凪の選択は、確かに璃子を救った。
けれどその代わりに、彼自身の運命が書き換えられていく。
静かに崩れはじめる均衡の先で、
“運命の設計者”が、ついに動き出そうとしていた。




