第2章 変えられない運命
人の心は、過去と未来の狭間で揺れ動く。
たとえ“未来”が視えたとしても、それを変えることは本当に正しいのか――。
凪は再び、因果の渦の中へ足を踏み入れる。
そしてその先に待っていたのは、「救い」と「罪」が背中合わせにある現実だった。
夜の駅構内。
家路を急ぐ人々の雑踏の中、凪は人の波をすり抜けて歩いていた。
放課後、璃子と別れてからの帰り道、ふと立ち止まった瞬間、世界が一瞬だけ“裏返る”ような感覚に襲われた。
光が弾け、音が遠のく。
目の前に広がったのは、見知らぬ景色。
改札前、人だかりの中で、スーツ姿の男が誰かに刺されて倒れる。
血の色が視界を満たし、悲鳴が反響する。
その男の胸元に光った社員証の文字。
その名前を見た瞬間、凪は息を呑んだ。
璃子の兄。
そして、あの時助けた少女が口にした“お兄ちゃん”。
視界が元に戻る。
喧騒に紛れ、構内アナウンスが流れている。
だが凪の中では、すでに秒針の音が爆ぜていた。
未来は、また動き出している。
「……今度こそ、変えてみせる」
凪は足を踏み出した。
――この未来を、選び直すために。
駅の時計は午後六時を回っていた。
通勤客が増え、人混みが濃くなっていく。
凪は映像で見た位置を何度も確認した。
ホーム階段脇、灰色の柱、赤い傘を持つ女性。
未来視と現実の“ズレ”がじわじわと重なっていく。
あと数十秒――。
「白石航さんですか」
低い声が聞こえた。
凪が顔を上げると、スーツ姿の男が振り返る。
背後には、無表情の青年。
右手の中で、銀色のナイフが光る。
凪は反射的に駆け出した。
「やめろ!」
青年を押し倒した瞬間、ナイフが床に転がった。
金属音が鋭く響き、周囲の人々がざわめく。
航が振り返り、驚愕の目で凪を見た。
「……君、もしかして――」
その声に、凪の胸が一瞬、ざらついた。
あの声。研究室の記録映像で、何度も聞いた声だ。
灯が亡くなった日、事故現場で名前が挙がっていた“担当研究員”。
――白石航。
目の前の男が、その本人だった。
世界の輪郭が、ゆっくりと歪んでいく。
未来を変えたはずなのに、過去がねじれて現れる。
凪はただ立ち尽くすことしかできなかった。
その夜、凪は家でニュース速報を見つめていた。
《駅構内で男性襲撃未遂。犯人の男、現行犯逮捕》
短いテロップが流れる。
映像には駅の階段、転がったナイフ、規制線。
名前は出ていない。
けれど凪には、そこに写るスーツ姿の背中が誰なのか、わかっていた。
――白石航。璃子の兄。
そして、灯の“事故”に関わっていた人物。
凪はスマートフォンを握りしめた。
だが、その下に続いたニュースが彼の呼吸を止めた。
《同時刻、市内の交差点で車両暴走。死傷者1名》
……死んだのは、犯人の弟だった。
画面の光が、部屋を静かに照らす。
「避けても、別の形で……起きるのか……」
声が震え、指先が冷たくなる。
救った命の裏で、別の命が落ちる。
まるで何かが“均衡”を保つかのように。
数日後。
璃子が凪の教室を訪れた。
彼女の表情は少しこわばっていた。
「お兄ちゃん……助けてくれたんですね」
「たまたまだよ。駅で偶然見かけただけ」
凪が答えると、璃子は首を振った。
「嘘です。だって……あなた、知ってたでしょ。あの場所、あの時間。何かが起きるって」
凪は目を逸らした。
璃子は一歩近づき、机に置いた彼の手を見つめた。
「どうして、そんな顔をしてるんですか。
助かったのに……まるで、誰かを失ったみたい」
その声に、胸の奥が揺れた。
凪は何も言えず、ただ沈黙した。
璃子は続ける。
「……お兄ちゃん、変わったんです。何かを怖がってるように見える。もしかして、あなたと関係があるの?」
その瞬間、凪は顔を上げた。
璃子の瞳には涙の光が宿っていた。
「……君、なんで知ってた?」
「彼女が言ったの。“お兄ちゃんの未来を視た人がいた”って」
「彼女?」
「助けたあの子。従姉妹の、花音。
あの日からずっと言ってたんです。『未来を視た人がいた』って」
凪は息を呑んだ。
璃子は続ける。
「だから、あなたのことを調べたの。
お兄ちゃんの未来を視た人、それが、あなたなんじゃないかって」
その言葉に、空気が一気に冷えた。
雨が降り出し、窓を叩く音が響く。
凪は立ち上がり、声を押し殺した。
「なんでそんなこと、勝手に調べたんだ!」
璃子は驚き、唇を噛む。
「ごめんなさい。でも、どうしても確かめたかったの。
あの時、あなたが従姉妹を救ったのは偶然じゃない。
お兄ちゃんの未来も視ていたなら――あなただけが、知っていたんでしょ?」
「俺は……!」
凪は言葉を詰まらせた。
視界の端で、妹・灯の笑顔が一瞬浮かぶ。
「俺はただ、誰も死なせたくなかった。
……でも結局、誰かが死ぬ。そういう未来しか、見えないんだ」
璃子の目に涙が滲む。
「それでも、あなたは走ったじゃないですか。
その未来を見て、怖がりながら、それでも」
彼女は震える声で言った。
「私……そんなあなたを見て、怖いと思ったこと、一度もないです」
沈黙が落ちる。
雨音が、まるで拍動のように響いていた。
凪はゆっくりと息を吸い、
ようやく言葉を絞り出した。
「……璃子。君の兄さん、航さんの働いてる場所、知ってる?」
璃子は戸惑いながら頷いた。
「研究所……です。国の機関で、心理とか認知の……」
「たぶん、そこだ。
灯が死んだ日の事故にも、そこの職員が関わってた。
俺が“能力”を調べられていた場所なんだ」
璃子の顔が凍りついた。
「……じゃあ、お兄ちゃんは――」
「灯の死に関わった研究機関で、働いてる」
その瞬間、部屋に重い沈黙が落ちた。
外の雨が強くなり、雷鳴が遠くで響いた。
璃子は両手を握りしめた。
「じゃあ、お兄ちゃんが……あなたを……」
「まだ、そうとは限らない」
凪は首を振る。
「けど、何かを隠してるのは確かだ。
俺が“未来を視る”と知ってる。きっと、ずっと前から」
璃子は震える声で言った。
「じゃあ、どうすればいいの……」
凪は答えられなかった。
代わりに、視界の奥が再び白く霞んだ。
――光が弾け、血の匂い。
倒れる璃子。
その頬を伝う赤い雫。
凪は息を呑んだ。
「……次は、君が、死ぬのか」
雷鳴が、空を裂いた。
ひとつの命を救うたび、別の命が失われる。
それは運命の帳尻合わせなのか、それとも誰かの意志による操作なのか。
璃子の兄・航の存在が、物語の中心に近づくにつれて、
凪の“視える未来”はますます歪み始める。
次章、凪は自らの記憶の奥底――“あの日の真実”に、触れることになる。




