第1章 視える未来、見えない心
人の未来が見える。それは、奇跡でも才能でもなく、呪いのような力だった。
避けようとしても、変えようとしても、運命はときに残酷にすり抜けていく。
それでも、人は誰かを想い、もう一度未来に手を伸ばす。
この物語は、そんな“選べなかった未来”と“選び直そうとする心”の物語です。
雨上がりの校舎の屋上は、夕陽の光を鈍く反射していた。濡れたフェンス越しに街を見下ろしながら、天城凪は息を吐く。
目を閉じると、まぶたの裏に浮かぶのはいつもの映像。
ほんの数秒先の未来。
誰かが転ぶ、誰かが笑う、誰かが泣く。
そんな小さな“先”が、視えてしまう。
便利だと言う人もいた。
でも凪にとって、それは呪いに等しかった。
「どうして、また……」
視界に浮かんだのは、鮮やかな血の色だった。
少女が倒れ、彼女を呼ぶ誰かの声が響く。
その映像が現実になる前に、凪は階段を駆け下りた。
校門の前で見えたのは、ランドセルを背負った少女。
足元に転がるボール。
その向こうから車が迫っていた。
「危ない!」
叫びながら凪は飛び出した。
少女の肩を掴み、路肩に引き寄せた瞬間、車が横を通り抜ける。
タイヤの水しぶきが頬にかかる。
少女は呆然とこちらを見上げた。
長いまつげの奥で、涙が光っている。
凪は言葉を失いながらも、かすかに微笑んだ。
「……大丈夫?」
「はい……でも、どうして分かったんですか?」
問いに、凪の胸が一瞬だけ締めつけられる。
どうして、なんて説明できるはずもない。
「偶然だよ」
そう言って立ち去ろうとしたとき、少女が小さく呟いた。
「……お兄ちゃんの未来を視たんだね」
その声に、凪の足が止まった。
振り返ると、少女は泣き笑いのような顔をしていた。
意味を問い返そうとした瞬間、彼女は人波に紛れて消えた。
胸の奥に冷たい風が吹いた。
“お兄ちゃん”――その言葉が、凪の心を抉る。
三年前、彼は未来を視て、避けようとした。
それでも、妹を死なせてしまった。
放課後の教室。
ノートを閉じても、あの声が離れない。
そこへ一人の少女が入ってきた。
「天城くん、だよね?」
白いブラウスに、淡いグレーのカーディガン。
静かな瞳を持つ少女、白石璃子だった。
「さっき、校門で助けてくれたの、あなたでしょ?」
「……見てたのか」
「ええ。あの子、私のいとこなんです」
璃子は少しだけ目を伏せた。
「ありがとう。でも、不思議ですね。
あなた、助けに行く前から“起こること”を知っていたように見えました」
その言葉に、凪は呼吸を止めた。
彼女の声は、責めるでもなく、探るでもない。
ただ真実を確かめるように、穏やかだった。
「勘がいいだけだよ」
「……そうですか。でも」
璃子はかすかに笑った。
「あなたの“勘”は、誰かの命を救ったんですね」
その微笑みに、なぜか凪は胸の奥を掴まれるような感覚を覚えた。
彼女の瞳はどこかで見た光に似ていた。
妹・灯のものに。
数日後、璃子と凪は再び顔を合わせた。
彼女は理科準備室でボランティアの片付けをしており、凪は手伝いを申し出た。
ふとした沈黙の中で、璃子がぽつりと聞いた。
「あなたは、誰かを救えなかったことがありますか?」
凪は思わず手を止めた。
試験管を持つ指が震える。
「……どうしてそんなことを?」
「あなたの目、時々すごく悲しそうに見えるから」
その瞬間、胸の奥にしまい込んでいた記憶が蘇った。
あの日も雨だった。
放課後の帰り道、凪の視界に浮かんだのは、
妹・灯が傘をさして歩く姿。
その向こうから、トラックのライトが迫ってくる未来。
彼は全力で走った。
あの未来を変えるために。
翌日、彼は灯を迎えに行き、
手を引いて歩いた。
「今日は一緒に帰ろう」
「どうしたの、お兄ちゃん?」
「いいから。危ない気がする」
彼女は笑ってうなずいた。
その笑顔を守りたかった。
けれど交差点の角で、
通りすがりの子どもがボールを落とした。
灯が反射的に拾おうとした瞬間、
凪は叫んだ。
「危ない、灯!」
その声に、灯は振り向いた。
次の瞬間、光と轟音が世界を覆った。
トラックの金属音。
傘が宙を舞い、彼の腕の中で灯が崩れ落ちる。
「灯! しっかりしろ!」
彼女はかすかに笑ったように見えた。
「お兄ちゃん、ありがとう」
それが最後の言葉だった。
凪は、自分の声が彼女を振り向かせてしまったことに気づき、声を失った。
「……それが、妹さんの事故なんですね」
璃子の声が現実に引き戻す。凪はうなずいた。
「未来を変えようとして、失敗した。俺のせいで、妹は死んだ」
璃子はカップを手に、静かに言った。
「あなたは、助けようとした。それは間違いじゃない。たとえ結果が悲しくても、“想う”ことは無駄じゃないと思います」
その言葉が、胸の奥にゆっくりと染み込んでいく。
「……灯に、似てるな」
「私が?」
「うん。真っすぐなところが」
璃子は驚いたように目を瞬かせ、微笑んだ。
「じゃあ、少しは力になれてるかもしれませんね」
外を見ると、雨がやんでいた。
窓の向こうの雲が裂け、夕陽が差し込む。
その光を見つめながら、凪は気づく。
未来を避けて生きることが、灯との約束ではなかったことに。
その夜、凪は夢を見た。
白い光の中、風がないのに髪が揺れていた。
そこに、灯がいた。
「……灯?」
「お兄ちゃん、久しぶり」
涙が滲む。
「ごめん、俺のせいで……」
「ううん。あの時、怖かったけど、お兄ちゃんの声が聞こえて安心したの。だから“ありがとう”って言いたかったんだ」
灯は歩み寄り、凪の手を取った。
その手は、あの日と同じ温もりだった。
「ねぇ、お兄ちゃん。“未来を視る”って、怖い?」
「……怖いよ」
「でも、それって“誰かを想う”ってことなんだよ」
灯は微笑み、続けた。
「璃子ちゃんを助けてあげて。あの子、ひとりで頑張ってる」
「でも俺が動けば、また誰かが──」
「大丈夫。今度は間違えない」
灯はそっと指先で凪の額に触れた。
「未来は“変えるもの”じゃない。“選ぶもの”だよ」
眩しい光が視界を満たし、灯の姿が溶けていく。
「待って、まだ……!」
「もう大丈夫。お兄ちゃん、ちゃんと泣けたから」
その声を最後に、夢は終わった。
朝、目が覚めると空は晴れていた。
机の上には、璃子の字で書かれたメモがある。
「今日はありがとう。また話そうね」
文字が少し滲んで見えた。
凪はカーテンを開け、光を浴びる。
――未来は、選べるんだよ。
灯の声が、確かに聞こえた気がした。
凪は目を閉じ、深く息を吸う。
もう一度だけ、この力を使おう。
逃げるためではなく、誰かを守るために。
その瞬間、窓から吹き込む風が、どこか祝福のように頬を撫でた。
人を救おうとして、逆に傷つけてしまう――。
そんな矛盾に苦しむ少年が、自分の罪と再び向き合う物語を書きました。
この第一章では、彼が“過去”を語り、“再び未来を見る勇気”を得るまでを描いています。
次章では、彼が実際に“誰かを救う”行動を選び、
未来と真正面から衝突する物語へと進んでいきます。
ここまで読んでくださった方へ。
もし、ほんの少しでも「誰かを想う痛み」に共鳴していただけたなら、
それだけで、この物語を書いた意味があります。




