#10 人魚の口づけで世界は変わる
「彩葉! 頼む! この通りだ!!」
俺は幾枚かの1000円札を握り閉めながら、彩葉の前に跪いた。外も涼しくなった、夕方のことである。
「俺の代わりに蒼太と夕飯の食材の買い出しに行ってくれ! 俺、彩葉が作るカレーは絶品だと思うんだ! 米は俺が準備するから!」
「な、なな……ななんでっ!? 作るのはいいけどっ、買い物は悟が行ってよ!」
彩葉に頼りっぱなしで本ッ当に悪く思っている。だがしかし! 蒼太と仲良くなるこれとない機会だ。荒療治。いや、谷底に子を落すライオンの如く。いや、可愛い子には旅をさせろ! もうどれでもいい、仲良くなれ!!
結局、彩葉は蒼太に促されながら出かけて行った。
「いい仕事をしたな」
二人を見送った俺はリビングに戻った。するとそこには、風呂上がりの珊瑚が、ちょこんと座っていた。
リビングには石鹸の香りがふわりと香り、彼女の上気した頬が色っぽい。髪は少し濡れていたが、脚を入念に拭いたのであろう、白くほっそりとした足が見えた。
彩葉たちの事ばかり考えて、気付かなかった。つまり、俺も珊瑚と二人きりになってしまう。
――夢の中の俺、この子に『好き』って言われたんだよな。……バカッ! あれは夢なんだ!! この子には婚約者がァ!!
悶々としていると、一反が顔の近くで執拗に泳ぎ始めた。一反のせいで珊瑚が見えない。俺は手で一反を振り払った。
「その子、悟君にとても懐いてますね。かわいい」
「え!? 見えるの?」
「はい、その子も私と同じあやかしです。一反木綿さんですね」
――当たってた!? これが一反木綿!?
超神秘存在が目の前に居る。一反木綿はアニメで有名な妖怪だ。俺は両手で優しく一反木綿に触れた。
「一反、お前は一反木綿なのか?」
一反は長い体を使い、空中でくるくると弧を描く。『〇』ってことか。疑問が腑に落ちて感心していると、珊瑚が俺達を見て笑う。マズイ、はしゃぎ過ぎた。
「悟くんは、昔から妖怪が見えるのですか?」
「いや、今日家に戻って来てから見えるようになった」
俺の返事を聞いた珊瑚は目を丸くして、直ぐに困った顔をする。
「……それ、私の所為です」
「珊瑚ちゃんのせい?」
「私と接触した影響です。彩葉ちゃんや蒼太君も見えるのですか?」
「いや、二人は見えてない」
その答えを聞いて彼女はほっと胸を撫で下ろした。そして申し訳なさそうに告げたのだ。
「悟君は、私の妖力を接触した時に取り込んでしまったようです」
「妖力? 接触??」
俺はキョトンとして珊瑚の隣に座る。
「あやかしの血肉と魂には、妖力が満ちています。妖力は、あやかしが能力を使う際に必要な原動力です。でも、人間が妖力を取り込むと体に異変を来します。例えば……人魚の肉を食べると、不老不死になってしまうとか」
不老不死と聞いてドキッとした。思わず夢を思い出す。
「肉は妖力が濃すぎて、人間の細胞レベルで強く作用します。血や体液も肉程ではありませんが、多少の影響を与えます。悟君があやかしを視えるようになったのは、そのせいでしょう」
「ま、まってくれ! 俺は珊瑚ちゃんの事、食べたりなんて……」
彼女は白魚のような指を、さくら色の唇に添えた。そして、申し訳なさそうに言うのだ。
「口づけて、助けてくれましたよね? きっとその時、私の体液にも触れてしまったのでしょう。でも、あの時はありがとうございました」
――ええ!? く、口づけ!?
俺は自身の行動を逆再生しながら思い出す。そんな大胆な事……あっ。人工呼吸!! 俺は慌て彼女から後ずさった。
「ごめん! あの時は必死で!! 純粋に人命救助で!!」
慌てふためく俺に対して、彼女もオロオロしながら俺を宥めた。
「誤解させてすみません! も、もちろん知っています! やましい気持ちが無い事も。人間の体には、一秒でも早く酸素を供給する必要が有る事も!!……私も昔、同じ方法で人間の子供を助けた覚えがありますから」
――よ、良かった!
「で、でも安心してください。少量でしたら一時的です。他に体に異変は有りますか?」
――俺の情緒がくちゃくちゃです!
「だ、ダイジョーブ。今の所無い。……でも、残念だな。妖怪は好きだからずっと見えていいのに」
見たくても見えない存在。最初は困惑したが、珊瑚から一時的と言われ寂しさを覚えた。しょぼんとした俺を、珊瑚と一反が励ましてくれる。彼女の優しい笑顔が心に沁みる。
「少しの間ですが、また沢山のあやかしと仲良くなれるといいですね」
――……また?
その時、風呂場の方から「カタン!」と大きな音がなった。何か落ちたのだろうか? 俺は風呂場へ確認へ向かった。浴室の電気を付けて確かめると……
洗い場に何か居た。
40cm程の緑色の丸いフォルムに、小さい手足が生えている。円らな瞳と目が合った。なんなんだコイツ。可愛い面して……――と思った矢先、そいつはべろんと大きな舌を出して浴槽を舐めた。
「ひぃぃぃ!」
叫ぶ俺の隣に、珊瑚がひょっこりと現れた。
「わぁ! 『垢舐め』さんですね? めずらしい。最近、お風呂屋さんも少ないし、みんな綺麗好きだから、なかなか会えないんですよ?」
垢舐め……なるほど。こいつも日本に古くからいる妖怪だ。垢舐めなら仕方がない。だが誰の垢を舐めている。俺は先ほどまで風呂に入っていた珊瑚を見た。
当の珊瑚はネコでも見るかのように垢舐めを愛でていた。垢舐めは食事に夢中だ。俺は浴室の端に置いてあった、浴槽掃除用のスポンジと洗剤を手にした。
「え? 追い払っちゃうんですか? 可哀そう」
う……ぐっ……
「分かった。掃除は後にする」
俺は静かに浴室の扉を閉めた。
みんなで夕食のカレーを作って食べた後、俺が速攻で風呂掃除をしたのは言うまでもない。




