#1 夏の夜と桃色人魚
「悟くん、好きです」
俺に抱きかかえられた少女は、弱々しい声で言った。
これは、高校二年の夏休み。満月が見守る、静かな砂浜の思い出。
同年代の彼女は、とても綺麗だ。薄ピンクのロングヘアに、センターで分けられた長い前髪。真っ白な額の下には、ふわりとした優しい眉。
パッチリとした目に、星空のような群青色の瞳。柔らかそうなサクラ色の唇から、悲しい言葉が紡がれる。
「私、もうダメみたい……でも、ずっと悟くんと一緒に居たい」
彼女の目から一筋の涙がこぼれた。
丸い雫は、キラキラと輝く宝石に変り、砂の上にポトンと落ちる。
彼女の最期を、目に焼き付けようと必死だったのに、悔しくて顔を背けた。
背けた先に見えたのは、桃色の鱗で覆われた彼女の下半身と、ガラス細工みたいな、大きいピンク色の鰭。
彼女の名前は『珊瑚』。人魚だ。
苦しそうに眉を歪める彼女は、俺に優しく残酷な言葉を放った。
「お願い。私を食べて?」
「そんなこと、出来るわけ無いだろ!?」
だが答えとは裏腹に、俺の本能は違った。
――彼女を食べたい。
もちろん、ダメだと分かっている。……でも、彼女の声に俺の心は揺れる。
口の中は唾液で満ちて、今にも零れそうだった。俺は欲望をゴクリと飲み込むと、口を堅く結んで首を横に振る。
――食べられないよ。
「そうだよね……。こんな姿じゃ食べにくいよね? 悟くん、私を大きな魚だと思って?」
――珊瑚、ちがう。そうじゃない。
俺は心の中で静かにツッコむ。
それに、思ったからといって、彼女の姿が変わる訳ない……と思ってたのに。瞬きすると、彼女の姿がグニャリと歪んだ。
巨大なピンク色の魚が、俺の腕の中にいる。元気のない魚と目が合った。
――これは夢か? でも、旨そうだ。刺身……焼き魚。……おい、想像するな。おいしそうに見えるだろ? いやいや、そうじゃない! この魚は夏を一緒に過ごした珊瑚なんだぞ!?
とうとう、口の端から欲が零れてしまった。そんな俺を見ても、彼女は穏やかに話し続ける。魚の姿のままで。
「悟くん、いいの。これは、私達の運命なの。死んじゃうなら、あなたの中で生きたい。……だからお願い、私を食べて?」
彼女の言葉が、頭の中をぐるぐる廻る。彼女の願いを叶えなくては……。俺は珊瑚の体にそっと唇を添えると……歯を立て、一線を越える。
彼女の小さな悲鳴が聞こえた。けど、止められなかった。俺は珊瑚が好きなのに、とどめを刺している。俺が珊瑚を殺すんだ。
涙を流しながら食べる俺に、彼女は優しく語りかけた。
「……悲しまないで、それでいいの。悟くん、ありがとう。これでずっと一緒だよ」
珊瑚の体は重さを失い、煌めく泡になった。そして、一陣の風に攫われて、星空へと飛んでいく。
「うあぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
これが、好きになった女の子との別れだった。
それからの俺は、17歳の姿で老ける事も、死ぬことも無く生きている。珊瑚を食べて不老不死になった。
病すら撥ね除けるこの体は、傷を瞬時に治し、毒も効かない。この体が便利だと思う時期もあった。
だが、人々はそんな俺を気味悪がって離れていく。最後まで見放さなかった家族も、親友も死んだ。
孤独とこの体は、俺を人の皮を被ったバケモノに変えた。
死ぬために、各地を彷徨い歩いた。しかし、不老不死の呪いは解けず、誰も俺を殺せない。
最後の希望も失った俺は、満月が見守る砂浜に帰った。
流木の上に座り、珊瑚が遺した涙の欠片を見つめる。この涙の欠片には、彼女の力が宿っているらしい。どこかの狐が言っていた。
涙の欠片は、俺の掌の上で、当時と変わらない輝きを見せる。
――あの時、珊瑚を食べなければ、俺は人として死ねたのに。……いや、もっと前だ。彼女を好きにならければ。彼女を助けなければ……戻りたい。彼女と出会う前に。そして、全てをやり直したい! 独りはイヤだ。お願いだ、珊瑚! 俺を殺してくれ!!
俺は縋りながら涙の欠片を飲んだ。小さな存在がゴクリと喉を通り、胃に落ちるのを感じた。
その刹那、ドクンと心臓が跳ねて、心拍数が上がる。血が逆流するかのような感覚。俺は犬のように浅く短い呼吸を繰り返した。
「苦しい……でも、お願いだ!!……珊瑚!!!」
意識が途切れる寸前、光り輝く泡の向こう側に、微笑む彼女が見えた気がした。
◆ ◇ ◆
「うおおおぉぉぉっ!!!……ん?」
瞼を開けると、懐かしい天井が見えた。
――……ここは実家?
そう、俺の部屋。部屋着姿でベッドの上に居る。
枕はベッドから落ち、読みかけのオカルト専門雑誌が手元にある。開け放たれた窓からは、生暖かい風が吹き込んで、薄いカーテンを揺らす。
――えっと、これは……
充電器に繋がれたスマホを手繰り寄せた。真っ黒な画面には若い男が映る。短い黒髪が前衛的な寝癖を造り、まだ眠そうなタレ目と目が合う。俺だ。
――…………。
「……なぁ~んだ! 夢か。ガチ焦った~!!」
――夢の質感リアル過ぎ! 現実かと思った。そもそも、人魚なんて夢らしい夢じゃないか。でも、可愛かったなぁ……珊瑚ちゃん。
俺は彼女の余韻に浸りながら起き上がり、大きく伸びをした。視界に入った机の上には、宿題の山が聳え立つ。
まだ宿題は見なくていい――と思ったのだが、その麓に違和感があった。見覚えのない紙が一枚。何か文字が書いてある。
変な夢を見たせいで、その紙が怖く感じた。
恐る恐る手に取って見つめる。そこには、マジックで大きく殴り書かれていた。
『今日、海辺の祠には行くな!』
そして、もう一言。
『祠には、絶対に行け!』




