第三幕
決行の夜、研究所は人工の月明かりに照らされ、深い眠りについていた。
アキは自身の影だけを連れて、音もなく廊下を進む。
心臓の鼓動だけが、やけに大きく耳の中で響いていた。
庭師としての長年の経験が、彼に警備システムの死角と、センサーの感知パターンを完璧に把握させていた。
それは、皮肉にも彼がこれから犯そうとしている罪のために蓄えられた知識だった。
シロが眠る部屋の前に立ち、アキは最後の躊躇いを振り払うように目を閉じた。
これは誘拐であり、窃盗だ。彼の築き上げてきたキャリア、地位、その全てが塵と化す。
だが、失うものと得るものを天秤にかけるまでもない。シロのいない世界に、何の意味がある?
カードキーを差し込み、ロックを解除する。
静かに扉を開けると、ポッドの中で眠るシロの姿が目に飛び込んできた。
その穏やかな寝顔を見ていると、罪悪感よりも、これから始まる未来への仄かな希望が胸を満たした。
「シロ、行くぞ」
囁き声に、シロの睫毛が震えた。
アキは手早くポッドの生命維持システムを外部バッテリーに切り替え、台車に乗せる。
重い。だが、シロの命の重さに比べれば、羽のように軽かった。
搬出ルートは計算通りだった。
廃棄物処理用のリフトを使い、地下の搬出口へ。
そこには、アキが事前に手配しておいた無人の輸送車が待機しているはずだ。
全てが順調に進むほど、アキの背筋を冷たい汗が伝う。
あまりに静かすぎる。まるで、この世界全体が彼の罪を見逃してくれているかのように。
搬出口の巨大なシャッターが開くと、むっとするような夜の空気が流れ込んできた。
自由の匂いだ。アキはシロを乗せたポッドを慎重に輸送車の荷台に固定し、運転席に滑り込んだ。
エンジンが静かに始動する。
研究所のゲートを通過した瞬間、アキはバックミラーに目をやった。
彼が人生の半分以上を過ごした白亜の塔が、闇の中に遠ざかっていく。
もう二度と、ここへ戻ることはない。
車は都市のネオンを抜け、ハイウェイを走り、やがて星明かりだけが頼りの山道へと入っていった。
数時間後、アキは慣れ親しんだ森の匂いに包まれていた。
目的地は近い。車のヘッドライトが、鬱蒼と茂る木々の間に隠された、古びた温室の骨組みを照らし出した。
彼だけの、秘密の庭。
アキはシロをポッドから出し、温室の中央に用意したベッドのような培養土の上へと、そっと横たえた。
研究所の無機質なポッドとは違う、生命力に満ちた土の感触に、シロの体が安堵したように弛緩するのがわかった。
「ここが、俺たちの家だ」
アキがそう言うと、シロの瞳がゆっくりと開いた。
その湖のような瞳は、ガラス越しではない、剥き出しの自然光を初めて映し、きらきらと輝いていた。
そして、その白い頬から一筋、露のような雫がこぼれ落ちた。
その日から、二人の秘密の時間が始まった。
アキは、庭師としての全ての知識と技術を、ただ一人のために注ぎ込んだ。
森の湧き水を運び、最も栄養価の高い腐葉土を混ぜ、太陽の光が、一日中シロに差し込むように、移動させる。
シロは、その愛情に応えるように、目覚ましい変化を見せた。
研究所にいた頃とは比べ物にならないほど、その体は生命力に満ち溢れ、葉は艶やかな緑に輝いた。
そして何より、彼の感情表現は、日に日に豊かになっていった。
アキが笑うと、シロの肩口から小さな白い花が、ぽん、ぽんと咲く。
アキが作業で疲れてうたた寝をしていると、シロの蔓が伸びてきて、まるでブランケットのように優しく彼を覆う。
アキが、暗い顔し、黙り込むと、あの甘い香りが、そっと彼の心に寄り添った。
ある日、アキが植物図鑑を読んでいると、シロの蔓が伸びてきて、特定のページを指し示した。
そこに描かれていたのは、一輪の青い花。花言葉の欄には、こう記されていた。
『あなたへの、永遠の愛』
アキが顔を上げると、シロがじっと彼を見つめていた。
その瞳は、もうただの湖ではなかった。
確かな意志と、深い愛情を湛えた、一つの魂の窓だった。
アキは図鑑を置き、シロの隣に座った。
そして、初めて、陶器のように滑らかでツヤのある頬に、そっと触れた。
温かい。生きている。彼はシロの頬に触れたまま、その瞳を覗き込んだ。
「俺もだ、シロ。俺も……お前を愛してる」
言葉にした瞬間、奇跡が起きた。
シロの体中から、あの青い花が、一斉に咲き始めたのだ。
温室の中は、甘く切ない香りと、夜空の色を閉じ込めたような青い光で満たされた。
それは、アキが今まで見たどんな景色よりも美しく、神聖な光景だった。
アキは、咲き乱れる青い花々に囲まれながら、そっとシロの唇に自分の唇を重ねた。
それは、人間と、人間ではない者とが交わした、世界で初めての口づけだった。
しかし、幸福は、永遠ではなかった。
青い花が満開になったその日から、シロの体に、時折、淡い光が宿るようになった。
それは、まるで体内から発光しているかのような、儚くも美しい光。
アキは、その光の意味を知っていた。
植物人間が、その生命のピークを迎え、最も多くの生体物質を蓄えた時にだけ見せる兆候。
『収穫期』のサインだった。
アキが与えた愛と自由が、皮肉にもシロの成長を極限まで促し、彼の終わりを早めていたのだ。
迫りくる運命の足音を聞きながら、アキは、ただ、消えゆく光を抱きしめることしかできなかった。