第二幕
アキは、まるで禁じられたものを見るように、ゆっくりと後ずさった。
心臓が、普段の倍の速さで脈を打っている。ありえない。
これは錯覚だ。疲れているのだろう。
彼は自身にそう言い聞かせ、壁際に設置されたコンソールに向かった。
指先が微かに震え、タイプミスを繰り返す。
初期バイタル、安定。外部刺激への反応、規定値以上。
備考欄に『視覚センサーによる能動的追尾の可能性』と入力しようとして、アキは指を止めた。
この一文が、どれほどの意味を持つか。
それはB-707が単なるバグではなく、未知の知性を宿した存在である可能性を示唆する。
研究所は、それを看過しないだろう。
解剖台の上で、その美しい体は原型を留めぬほど切り刻まれ、好奇の目に晒されるに違いない。
なぜ、そんなことを考えている?
彼は自分の思考に戸惑った。
廃棄対象だ。ただデータを収集し、報告書を上げ、処理に回す。
それが彼の仕事。それ以上でも、それ以下でもない。
アキは深呼吸を一つして、問題の項目を当たり障りのない表現に書き換え、報告を終えた。
翌日から、アキの日常に奇妙なリズムが生まれた。
彼は誰よりも早く『庭園』に出向き、まずB-707のポッドを訪れた。
「おはよう」
声に出すつもりはなかった。
だが、静寂の中でその言葉は自然に彼の唇からこぼれ落ちた。
すると、奇跡のようなことが起きた。
B-707の肩口から生えている、まだ小さな若葉が、微かに揺れたのだ。
空調の風ではない。明らかに、アキの声に呼応していた。
アキは息を殺し、もう一度、今度は意図して声をかけた。
「……わかるのか?」
若葉は、再びそっと揺れた。
肯定するように。
アキは、思わずポッドのガラスに触れていた。
冷たい感触の向こう側で、B-707は静かに彼を見つめ返している。
その湖のような瞳は、昨日よりも少しだけ潤んで見えた。
日々の観察は、驚きの連続だった。
アキが好きなクラシック音楽を流すと、B-707の体から伸びる細い蔓が、旋律に合わせて優雅に波打った。
アキが、無意識に眉を寄せると、甘い香りが、彼を慰めるようにふわりと濃くなった。
彼は、その個体に名前を与えた。
誰にも告げず、自分だけの心の中で。
その白い肌と、儚げな佇まいから、『シロ』と。
「シロ、今日はいい天気だ」
「シロ、この曲は好きか?」
彼の言葉に、シロは全身で応えた。
葉を揺らし、蔓をしならせ、香りを変える。それは原始的で、しかし驚くほど豊かなコミュニケーションだった。
アキは、自分が人間相手ですら感じたことのない深い繋がりを、この植物人間に感じ始めていた。
空虚だった彼の心は、シロという名の水で、少しずつ満たされていくようだった。
ある晩、アキは研究所のデータベースにアクセスし、シロの製造記録を密かに閲覧した。
そこに記されていたのは、偶発的な遺伝子変異。成長過程で、本来抑制されるはずだったヒトの脳――感情を司る大脳辺縁系の機能が、植物の神経網と予期せぬ形でハイブリッドしてしまった、という仮説だった。研究所はこれを『危険な汚染』と断定していた。
「汚染、か……」
アキは自嘲気味に呟いた。この温かく、胸を満たす感情が汚染だというのなら、正常とは一体何なのだろう。
彼はポッドの前に膝をつき、ガラス越しに眠るシロを見つめた。
その寝顔は、まるで無垢な子供のようだ。
アキは、無意識のうちにガラスに手を伸ばしていた。
その指が触れるか触れないかの距離で、シロの指が、ぴくりと動いた。
そして、まるでアキの指を探すように、ゆっくりとガラスの内側をなぞる。
冷たいガラス一枚を隔てて、二人の指が重なった。
その瞬間、シロの瞼がゆっくりと開き、その瞳がはっきりとアキを捉えた。
そして、これまで一度も動いたことのなかったその唇が、わずかに開く。
音にはならなかった。だが、アキにははっきりとわかった。
その唇が紡いだ形は、ただ二文字。
――ア、キ。
全身に鳥肌が立った。喜びと、それと同じくらいの恐怖が、アキの背筋を駆け上がった。
一線を越えてしまった。
もう後戻りはできない。
この存在を、ただの観察対象として見ることは、もはや不可能だった。
数日後、彼のタブレットに非情な通知が届いた。
『個体番号B-707。最終観察期間終了。三日後、午前十時に廃棄処理を実行する』
世界から、音が消えた。
アキの視界が白く点滅する。
三日後。シロが、この世界から消される。解剖でも、実験でもない。
ただ、ゴミのように。
彼の脳裏に、シロが初めて見せた微笑みのような葉の揺れが、自分を呼んだ唇の形が、蘇っては消えていく。
汚染? 違う。
あれは生命そのものの輝きだ。
自分が生まれて初めて、本気で守りたいと思ったものだ。
ミヤの言葉が脳内で反響した。
「最高の状態で摘み取ってやることが、俺たちにできる唯一の愛情だろ?」
違う。断じて違う。
共に生きること。その時間を一秒でも長く引き延ばすこと。
それこそが愛だ。
アキは、震える手でコンソールを操作した。
研究所のシステム図、警備ローテーション、輸送車両のスケジュール。
彼の頭脳は、庭師としての冷静さを取り戻し、フル回転を始めていた。
三日後。午前十時。
それは、シロの終わりではない。
アキとシロの、本当の始まりの時間だ。
彼は立ち上がり、自室の隅にしまっていた古い地図を広げた。
そこには、研究所から遠く離れた山中に、赤いインクで小さな円が記されている。
彼が幼い頃、両親と暮らした家の跡地。今は誰も知らない、彼だけの秘密の庭。
「シロ……」
アキは、決意を固めた目でシロのポッドを見つめた。
「今から、二人で逃げるんだ」