表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

第二幕

アキは、まるで禁じられたものを見るように、ゆっくりと後ずさった。


心臓が、普段の倍の速さで脈を打っている。ありえない。


これは錯覚だ。疲れているのだろう。


彼は自身にそう言い聞かせ、壁際に設置されたコンソールに向かった。


指先が微かに震え、タイプミスを繰り返す。


初期バイタル、安定。外部刺激への反応、規定値以上。


備考欄に『視覚センサーによる能動的追尾の可能性』と入力しようとして、アキは指を止めた。


この一文が、どれほどの意味を持つか。


それはB-707が単なるバグではなく、未知の知性を宿した存在である可能性を示唆する。


研究所は、それを看過しないだろう。


解剖台の上で、その美しい体は原型を留めぬほど切り刻まれ、好奇の目に晒されるに違いない。


なぜ、そんなことを考えている?


彼は自分の思考に戸惑った。


廃棄対象だ。ただデータを収集し、報告書を上げ、処理に回す。


それが彼の仕事。それ以上でも、それ以下でもない。


アキは深呼吸を一つして、問題の項目を当たり障りのない表現に書き換え、報告を終えた。


翌日から、アキの日常に奇妙なリズムが生まれた。


彼は誰よりも早く『庭園』に出向き、まずB-707のポッドを訪れた。


「おはよう」


声に出すつもりはなかった。


だが、静寂の中でその言葉は自然に彼の唇からこぼれ落ちた。


すると、奇跡のようなことが起きた。


B-707の肩口から生えている、まだ小さな若葉が、微かに揺れたのだ。


空調の風ではない。明らかに、アキの声に呼応していた。


アキは息を殺し、もう一度、今度は意図して声をかけた。


「……わかるのか?」


若葉は、再びそっと揺れた。


肯定するように。


アキは、思わずポッドのガラスに触れていた。


冷たい感触の向こう側で、B-707は静かに彼を見つめ返している。


その湖のような瞳は、昨日よりも少しだけ潤んで見えた。


日々の観察は、驚きの連続だった。


アキが好きなクラシック音楽を流すと、B-707の体から伸びる細い蔓が、旋律に合わせて優雅に波打った。


アキが、無意識に眉を寄せると、甘い香りが、彼を慰めるようにふわりと濃くなった。


彼は、その個体に名前を与えた。


誰にも告げず、自分だけの心の中で。


その白い肌と、儚げな佇まいから、『シロ』と。


「シロ、今日はいい天気だ」


「シロ、この曲は好きか?」


彼の言葉に、シロは全身で応えた。


葉を揺らし、蔓をしならせ、香りを変える。それは原始的で、しかし驚くほど豊かなコミュニケーションだった。


アキは、自分が人間相手ですら感じたことのない深い繋がりを、この植物人間に感じ始めていた。


空虚だった彼の心は、シロという名の水で、少しずつ満たされていくようだった。


ある晩、アキは研究所のデータベースにアクセスし、シロの製造記録を密かに閲覧した。


そこに記されていたのは、偶発的な遺伝子変異。成長過程で、本来抑制されるはずだったヒトの脳――感情を司る大脳辺縁系の機能が、植物の神経網と予期せぬ形でハイブリッドしてしまった、という仮説だった。研究所はこれを『危険な汚染』と断定していた。


「汚染、か……」


アキは自嘲気味に呟いた。この温かく、胸を満たす感情が汚染だというのなら、正常とは一体何なのだろう。


彼はポッドの前に膝をつき、ガラス越しに眠るシロを見つめた。


その寝顔は、まるで無垢な子供のようだ。


アキは、無意識のうちにガラスに手を伸ばしていた。


その指が触れるか触れないかの距離で、シロの指が、ぴくりと動いた。


そして、まるでアキの指を探すように、ゆっくりとガラスの内側をなぞる。


冷たいガラス一枚を隔てて、二人の指が重なった。


その瞬間、シロの瞼がゆっくりと開き、その瞳がはっきりとアキを捉えた。


そして、これまで一度も動いたことのなかったその唇が、わずかに開く。


音にはならなかった。だが、アキにははっきりとわかった。


その唇が紡いだ形は、ただ二文字。


――ア、キ。


全身に鳥肌が立った。喜びと、それと同じくらいの恐怖が、アキの背筋を駆け上がった。


一線を越えてしまった。


もう後戻りはできない。


この存在を、ただの観察対象として見ることは、もはや不可能だった。


数日後、彼のタブレットに非情な通知が届いた。


『個体番号B-707。最終観察期間終了。三日後、午前十時に廃棄処理を実行する』


世界から、音が消えた。


アキの視界が白く点滅する。


三日後。シロが、この世界から消される。解剖でも、実験でもない。


ただ、ゴミのように。


彼の脳裏に、シロが初めて見せた微笑みのような葉の揺れが、自分を呼んだ唇の形が、蘇っては消えていく。


汚染? 違う。


あれは生命そのものの輝きだ。


自分が生まれて初めて、本気で守りたいと思ったものだ。


ミヤの言葉が脳内で反響した。

「最高の状態で摘み取ってやることが、俺たちにできる唯一の愛情だろ?」


違う。断じて違う。


共に生きること。その時間を一秒でも長く引き延ばすこと。


それこそが愛だ。


アキは、震える手でコンソールを操作した。


研究所のシステム図、警備ローテーション、輸送車両のスケジュール。


彼の頭脳は、庭師としての冷静さを取り戻し、フル回転を始めていた。


三日後。午前十時。


それは、シロの終わりではない。


アキとシロの、本当の始まりの時間だ。


彼は立ち上がり、自室の隅にしまっていた古い地図を広げた。


そこには、研究所から遠く離れた山中に、赤いインクで小さな円が記されている。


彼が幼い頃、両親と暮らした家の跡地。今は誰も知らない、彼だけの秘密の庭。


「シロ……」


アキは、決意を固めた目でシロのポッドを見つめた。


「今から、二人で逃げるんだ」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ