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第一幕

ガラスと白い鋼材で構成されたグリッドが、空を幾何学的に切り取っていた。


ドーム型の天井から降り注ぐ人工の太陽光は、あらゆる影を均質に漂白し、清潔な無音だけが満ちるこの場所を、神聖な聖域のようにも、巨大な標本室のようにも見せていた。


アキは指先についた水滴を払い、目の前にある個体――プランタ#C-48の葉脈に沿って、そっと指を滑らせた。


ベルベットのような手触りの葉は、彼の手の熱に反応して微かに身じろぎする。規定値通りの正常な反応。


彼はタブレットのチェック項目に指で触れ、緑色のランプを灯した。


温度、湿度、養分供給量、光合成レート。全てが完璧な数値を示している。


ここは、バイオ・シンセティクス中央研究所、第三セクター。


通称『庭園』


そしてアキは、この『庭園』に所属する庭師だ。


「よう、アキ。相変わらず仕事が丁寧で、見てるこっちが息詰まりそうだぜ」


背後からかけられた軽薄な声に、アキは振り向かなかった。


同僚のミヤだ。彼の足音は、この静謐な空間ではひどく不作法に響く。


「B-12区画のやつら、来週には『収穫』だそうだ。今回はかなり上物らしいぜ。特に#B-113は最高傑作だって、上の連中が色めき立ってた」


収穫。


その言葉が持つ本来の意味とはかけ離れた、冷たい響き。


彼らが世話をする植物人間――ヒトの遺伝子をベースに、植物の成長能力と自己完結した生命維持機能を融合させた存在。


彼らは、その体内に生成される希少な生体物質を目的として「栽培」され、最も生命力が満ちた時期に「収穫」される。


分解され、製品となり、消えていく。


「情なんか移すだけ無駄だって、いつも思うね。最高の状態で摘み取ってやることが、俺たち庭師にできる唯一の愛情だろ?」


「……そうだな」


アキは短く応え、#C-48の根元に絡みついた不要な気根を、特殊なセラミックナイフで慎重に切り取った。


ミヤの言うことは正しい。


それがこの世界の常識であり、庭師としての倫理だ。


感情はノイズだ。判断を鈍らせ、作業効率を落とすだけのバグ。


だからアキは、この仕事を選んだ。言葉で応えることも、複雑な感情で返すこともない、ただ静かにそこにある植物たちの世話は、人間関係に疲弊した彼の心を穏やかにしてくれた。


彼らは裏切らない。


ただ、与えられた環境の中で、ただひたすらに美しく成長するだけだ。


それでよかった。


その日、収穫を終え、自室に戻ろうとした時、庭園の中央に置かれた輸送用のポッドが冷たい光を放っていた。


強化ガラスの向こうに、新しい個体のシルエットが見える。緊急の割り当てだろうか。


アキはすぐさま、壁のインターフェースを起動した。


『対象:個体番号 B-707。通称『イレギュラー』。感情発現の兆候が確認されたため、廃棄対象に指定。最終観察及びデータ収集を主任庭師、アキに一任する』


「感情……?」


アキは眉をひそめた。


あり得ない。


植物人間に、脳の複雑な活動によって生まれる高次の精神作用などあるはずがない。


せいぜい、外部刺激に対する単純な快・不快の反応くらいのものだ。


おそらくはセンサーの誤認か、あるいは未知のバグだろう。


廃棄は当然の処置だ。


彼はポッドに近づき、起動シーケンスを入力した。


プシュー、と圧縮された空気が抜ける音と共に、ガラスのハッチが静かに持ち上がる。


消毒された冷気が流れ出し、それと共に、ふわりと甘い香りがアキの鼻腔をくすぐった。


これまで嗅いだことのない、密やかで、どこか寂しげな花の香り。


ポッドの中に横たわっていたのは、まだ若い個体だった。


他の植物人間たちと比べても、その肌は透き通るように白く、陶器のように滑らかでツヤのある肌を思わせる。


閉じられた瞼から伸びる睫毛は、まるでシダの葉の芽吹きのように繊細で、薄い唇は淡い桜色をしていた。


その姿は、痛々しいほどに完成された美を宿していた。


アキが観察のために顔を近づけた、その時だった。


ゆっくりと、その瞼が持ち上がった。


現れたのは、光のない、深い森の湖のような瞳だった。


植物人間たちの目は、光を感知するためのセンサーに過ぎない。


焦点が合うことも、何かを映すこともないはずだった。


だが、違った。


その瞳は、まっすぐにアキを捉えていた。


ただそこにいるアキという存在を、認識しているとしか思えなかった。


静寂の中、アキは息を呑んだ。その瞳の奥に、揺らめく光が見えた気がした。


それは、ただの反射光ではなかった。


問いかけるような、求めるような、微かで、しかし確かな感情の光。


アキは、その場に縫い付けられたように動けなかった。


個体番号B-707。廃棄対象。バグ。


そのはずの存在が、今、静かに彼に問いかけていた。


――あなたは、誰?


言葉にならない声が、その瞳から聞こえた気がした。


無機質であるはずのアキの世界に、初めて色のついたインクが一滴、静かに落ちた瞬間だった。


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