カメリア――彷徨う夫の恋心
お話の中に、虫と、少し残酷と思える表記出てきます。苦手な方はお避け下さい。
「そんな事ならあの時抱いておけば良かったのです」
イリーナが呆れたように呟くと、暖炉の灰がガサリと音を立てて崩れた。
「君という婚約者がいたのにそんな不貞など出来るわけがない」
「不貞の定義って何かしら? そもそも心を寄せ合っていたのです。婚約者がいながら常に行われる心の密着と、つかの間の体の密着。どちらも不貞ではないのかしら?」
さらりと返された妻の言葉に思わず息を呑んでしまい、ロジャーはすぐに言葉を発することが出来なかった。遅れは図星と受け取ったイリーナは、表情を崩さずに紅茶を一口飲んだ。
「それは」
「そんなことだから恋の後始末すら満足に出来ておらず、今もブスブスと燻っているのです」
「そんなこと、は」
「ないとでも? 囚われているでしょうよ、充分に。思春期の甘酸っぱさと相まって、彼女とのことを殊更に綺麗なものと思い込んでいるようで······おぞましいこと」
イリーナは殊更丁寧にカップをソーサーに戻したが、その僅かな音でさえこの部屋ではやけに大きく響いた。
「抱くなり何なりして、彼女を只人にしておけばよかったのです。生理的なものを曝け出して、いっそ生活を共にでもしてみたら、彼女の人間らしさや泥臭さも見られたものを」
女は生活の中で天使ではいられませんからね、と呟くイリーナの唇は三日月のように美しかった。
「わたくしは貴方と結婚をして、子供を産んで年を取って、体のラインも髪の毛もあの頃とは違うわ。子供たちという宝を得たし、それを後悔しているわけではないけれど。······そうね、肌艶だって失われたし、十代のような純粋さで貴方を愛することは出来ない。変わったことは多いのよ。それなのに貴方の心の中の『彼女』は、いつまでも瑞々しい肌の生娘なのね」
ロジャーは口を利けない。何か話せばすぐにあげつらわれるし、なにより妻から発せられた『生娘』という言葉にショックを受けたからだ。妻は自分に純潔を捧げてくれた。結婚によって少女から妻へ母へと変化した。だが自分の中での『彼女』は、たしかに清純な少女のままなのだ。今の『彼女』を知らないのだから、いつまでも情報が更新されない。そう妻に言うのは恐ろしかった。『彼女』を心の綺麗なところにしまい込んでいるのは事実なのだから。
「中途半端にしておくから、純愛などという不貞を続けているんです、貴方は」
妻の溜息は恐ろしい。何かが確実に崩れていく音をかき消すように、ロジャーは声を荒げた。
「どうすれば良かったんだ! 君がいて、だけど彼女に惹かれてしまった! 彼女とは時々話すだけ。口づけ一つしていない! 話だって、同じ本が好きだったから、それの感想くらいだ! 惹かれてはいたが誓って不貞など働いていないし、今も昔も君を蔑ろになどしなかったはずだ!」
「ただそれが貴方の初恋を長引かせました。繰り返し繰り返し思い出すことで熟成されて、ますます濃厚なものになってしまったわ。日々隣にいるわたくし達では目新しさもないでしょうしね」
「そんな言い方をするな! 君は俺の愛する妻で、子供たち同様にかけがえのない大切な家族なんだ!」
「······『彼女』だってお腹を壊すこともあります。具合が悪ければ吐くことも、美しい涙だけでなく咳もして鼻水だって出るのですよ」
「それは人として当たり前じゃないか」
「貴方は『彼女』のそういうところを見ていないから、どこかでお人形のように綺麗な存在だと思っているのよ」
ロジャーの激昂をなかったもののように受け流し、イリーナはさらに溜息を重ねた。
「その幻想を壊しておくために、叶わないままでなく、恋を成就させた上で別れればよかったのに、と本気で思っていますのよ」
「どうしてそんなに彼女に固執するんだ······君はそんなに悔しかったのか? 彼女に一時期でも惹かれた俺を許せないのか?」
「あの方が色んな殿方の初恋泥棒だったことはご存知? 可愛らしく素敵な方だったから当然のことと言えるけれど、······卒業式から未だ見つからないまま」
「探したが見つからなかった。家族も分からないと」
「そう。そして、モーガン様に続いてこの間はコンラッド様が戻らなくなったのはご存知?」
急激に空気が冷え、自身の心臓の音が激しく鳴っている。ロジャーは思わず胸を押さえて、殊更冷静に聞こえるように意識しながら声を出した。
「······コンラッドもか? それは旅行とか」
「『彼女』、再びあの時のままの姿で現れるらしいわよ。まるで卒業式の翌日のような笑顔で、ニコニコとやって来るのですって」
ロジャーの話を待たず、イリーナはおかしそうに声を立てて笑った。
「何でかは分からないわ。でもそうして再会してしまうと帰ってこなくなる。きまって皆さん『彼女』に心を残した方ばかり。吹っ切れていた方には現れないようなのよ。だから貴方は危険よね。『彼女』がやってくるかもしれないわ」
屋敷には何人もの人が居るはずなのに、何の生活音も、窓外の鳥の鳴き声も聞こえない。
「いつまでも『彼女』の面影を追いかけている。そんなに心残りだったのだから、初恋を成就させるチャンスなのではなくて?」
「なに、を」
「貴方が恋した『彼女』が手に入るかもしれないのよ」
気づいたら固く握りしめていた手を無理に解きほぐし、体温を取り戻すべくティーカップに手を伸ばしかけていたロジャーの耳へ、イリーナは三日月の笑顔でグッと身を寄せた。
「『彼女』が現れたら、手に入れてしまいなさいよ。そしてきちんと初恋を終わらせるの。一度してみたら貴方の心の奥底で求めていることがはっきりするのではなくて? ここに戻って来たいのか、初恋の続きをするのか」
カラカラに乾いた喉を湿らそうとロジャーは自身の唇を舐めた。甘味など取ってもいないのにガサつくそこはなぜか甘く、蜜蜂から毒にも似た蜜を流し込まれたように思えた。
◇ ◇ ◇
ええ、知っていましたわ。
わたくし達はカメリアを植えた。
美しく咲いている家には『彼女』が来るってよく分かっていたもの。
だから『彼女』に狂わせられた婚約者を持ち、そんな狂ったままの男と結婚しなければいけなかった女性は皆、一縷の望みをかけてカメリアを新居に植えたのですよ。
ええ。そこに寄ってくる『彼女』を待っていたのです。
婚約者の服や持ち物についたカメリアの種を植えて五年。何度も根を切り、蕾を取り、肥料を足し、手をかけて育て、そうして美しいカメリアが咲いた頃、『彼女』は現れた。
貴族女性がそんな苦労をしてまでカメリアを育てたのです。わたくしの方が『彼女』に囚われていたのかもしれませんわね。
夫となった狂った男と暮らし、それなりの愛を得て、子供を育てながら、あの時のことを忘れずに五年。
五年のうちに未練など弾き飛ばして、カメリアなど育てなかったら良かったものの。
わたくしは取り憑かれたように、やったこともない土いじりを行い、そして誰にも触らせないように、庭園の奥でカメリアを育てたのですわ。
取り憑かれていた?
誰が?
夫の恋の相手のあの娘は、いつもカメリアを身に着けていました。
いつの間にかその花は『彼女』のトレードマークとなり、他の女はそのモチーフを付けることすら躊躇われるようになりました。
ただの男爵令嬢なのに?
カメリアの妖精のよう。花の妖精のよう。
そんなふうな噂が出るほどに美しい『彼女』でしたわね。ご存じでしょう?
ふふふ、本来のあの娘はそんな大層なものじゃないのですよ。
カメリアに固執して、カメリアを独占したくて、そうしてカメリアを殺す方ではなくて?
そう、言うなれば、『彼女』はカメリアを殺すチャドクガのよう。
周りに近づくものも寄せ付けずに独占して、葉を食い散らして害をなすチャドクガのようでしたわ。
ご存じでしょう?
首がポトリと落ちるカメリアは、首を絞められて死んでいくさまに似ていますわね。
あの娘がどこの家のものかご存じ?
とっさに出てこないでしょう。
そうね、それでしたらこんな昔話はどう?
美に固執し、花の盛りを永遠にと祈ったある女が、毎夜大量のカメリアの花を浮かせた風呂に入っていたらしいの。
それでね、その湯に誤ってチャドクガが紛れ込んでしまったことがあって、ええ、ご想像の通りその侍女はすぐに殺されたの。カメリアのように首を落とされてね。
その侍女もとても美しい娘だったらしいわ。
それからカメリアの木はよく育つようになった。
だけどある時、突如社交界に現れた花のように美しい娘に女の夫が骨抜きにされて、女は見向きもされなくなった。
女はその娘を無理に連れてきて殺した。
死体は侍女の時と同じようにカメリアの下に埋めてね。
だけどまたしばらくすると、花のような美しい娘が現れて夫を虜にする。
幾人の娘を殺したか分からないようになってはじめて、女はその娘達の顔がどう思い返してもはっきりしないことに気づいたのよ。
はじめに殺した侍女の顔も名前もね。
人目を引いた娘が社交界にいたのなら、どこかの貴族家の娘であるはずなのに、急に消えても大きな事件にもならない。
女が、もう埋めるところがないはずの自身のカメリア庭園で、最初に侍女を埋めた穴を掘り返してみると······
あら、これはただの昔話ですわよ、物語。
美に固執していると道を踏み外すという教訓めいた小話でしょう。
男は美しいというだけの若い娘に、後先考えずに入れ込む、という皮肉もあるかしらね。
ええ。わたくしはカメリアを育てて、『彼女』がやってくるのを待ちました。
『彼女』はわたくし達があの女と同じなのか見極めようとしているのだと思いました。
まやかしに囚われて狂った男など捨てたい、と考えていたことは否めません。
貴族夫人としてはもう後継も生み育てましたので、役目は果たしたのですもの。
男としての芯の失われた、搾り滓のような人間がわたくしの夫であることに、ただただ不快でもありました。
『彼女』に心を奪われた夫のような男達は皆、いつもより少し暑い日に、初恋を成就させてふわりとどこかへ消えていってしまったそうです。
さあ、これから暑くなりそうですわ。
青空にたなびく白いシーツがよく乾くでしょう。
陽炎のように現れるという『彼女』を、わたくしも楽しみに待ちたいと思っております。
◇ ◇ ◇
本年、我が国では異国から渡来したカメリアのある品種の栽培を禁止した。
とても美しい花を咲かせ、その種から作られるオイルは高い効果が認められるものであったが、人体に非常に有害な虫が付くということで全面禁止となったのだ。
そのせいで、他のカメリア種までもが誤って伐採対象になってしまったりもしたが、庭師からは手入れが大変なので逆にありがたいと好評なのだという。
カメリアオイルの生産および販売は国主体で行われることとなり、この騒動は急速に落ち着いていった。
人々は、その虫がどのような害を人体に与えるのか、など気にも留めなかったが、女性達の間ではカメリアモチーフが幾度目かのブームになっていた。
美しいカメリアの刺繍やブローチで銘々を飾り、男性達の目を喜ばせた。
不思議なことに、カメリア伐採令が出されてから、行方不明者が大幅に減ったという――。
「やはりわたくしには庭仕事は向いていなかったのね、育てていたカメリアはチャドクガにやられて駄目になってしまったの。わがままはもうやめるわ。後は貴方がたにお任せするから、素敵な庭にしてちょうだい」
「かしこまりました。イリーナ様」
ある晴れた日の伯爵家庭園。この家の庭師達の元を離れるイリーナは、この頃女伯爵としてさらに魅力を増していると評判だ。
「お庭が整いましたら、お茶会も開けますわね」
「そうね。ゴタゴタはあったけれど、わたくしももう一花咲かせなくてはね」
「まあ、もう十分に華やかな領主様でいらっしゃいますのに」
さあっと頬を撫でる気持ちのいい風を受けながら、侍女が暑くなってきたのでそろそろ次の季節のドレスを注文しませんと、とイリーナに提案した。
「そうね。あの流行りだけはご遠慮するけどね」
庭の片隅にちらりと目をやるイリーナに、心得たとばかりに頷く侍女。
好みは人それぞれとはいうが、イリーナを含め、特に近頃輝く貴婦人はカメリアモチーフをあまり好まないことを知っている侍女は、さっそくドレスメーカーへ希望を出した。
開け放したサンルームから聞こえる子供達の笑い声に、イリーナは柔らかな笑みを浮かべてそちらへ足を向けた。
「魅入られたのは······どちらなのかしらね?」
子供達にも今一度伝えなくては。不用意にカメリアに近づくなと。可憐な花に触れれば首が取れる。近づきすぎると、忌々しい『あれ』がやってくる。
今日もいい天気だ。陽炎が立つ。
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